第2話:スパルタ×島津の退き口 〜霧に煙る関ヶ原の盾〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
レオニダスは、青銅の槍の石突で地面を叩き、こびりついた肉片を振るい落とした。
不眠不休の防衛戦は、スパルタ兵たちの肉体を極限まで削ぎ落とし、精神を鋼のように研ぎ澄ませていた。
眼下に広がるのは、ペルシア兵の死体で埋め尽くされた海岸線。
「王よ。矢が雨のように降ってきます」
「構わん。日陰で戦える」
いつもの軽口。だが、その「矢の雨」が、不意に本物の「雨」へと変わった。
灼熱の太陽が消えた。
乾燥した地中海の風が、湿り気を帯びた重たい大気へと変質する。
視界が白濁する。霧だ。濃密な乳白色の霧が、天地を覆い隠していく。
「……総員、密集せよ」
レオニダスは即座に命じた。
神々の気まぐれか、あるいは冥府への招待か。
足元の感触が変わる。硬い岩盤から、ぬかるんだ泥土へ。
霧の向こうから、聞いたことのない轟音――雷鳴と、連続する破裂音――が響いてくる。
霧が晴れた。
そこに広がっていたのは、ギリシャの海岸ではない。木々が鬱蒼と茂る、雨に煙る狭い山岳の街道だった。
そして前方には、奇妙な光景があった。
東洋の顔立ちをした小柄な戦士たちが、地面にあぐらをかいて座り込んでいるのだ。
彼らは傷だらけで、泥にまみれている。だが、その背中は語っていた。「ここを一歩も通さない」と。
死を覚悟して座り込み、迫りくる敵を待つ。
レオニダスは息を呑んだ。
スパルタの法においても、これほど静謐で、狂気に満ちた「殿」の姿は稀だ。
彼は直感した。
ここは戦場であり、彼らは同類であると。
◇◇◇
慶長五年九月十五日。関ヶ原、伊勢街道。
冷たい雨が、敗者の頬を叩いていた。
西軍の壊滅。戦場に取り残された島津義弘の軍勢は、敵中突破という狂気の退却戦を開始していた。
前方には徳川の大軍。後方には最強の追撃部隊、井伊の赤備え。
「チェストォォォッ!」
裂帛の気合いと共に、島津の兵たちが敵陣を切り裂いていく。
だが、数は減り続ける。もはや全滅は時間の問題だった。
「殿! ここはオイに任せて、先へ!」
甥の島津豊久が、馬を返した。
薩摩の退き口、その真髄である「捨て奸」。
数名の兵がその場に座り込み、鉄砲を撃ち、槍を振るい、全滅するまで敵を足止めする。死ねばまた次の数名が座り込む。命を置き石にして、主君を逃がす凄絶な戦法。
「豊久……許せ」
義弘は前を向いたまま駆け抜ける。振り返ることは許されない。
背後で、豊久たちの鉄砲が火を噴く音がした。そして、それを飲み込むような怒濤の蹄音が迫る。
井伊直政だ。「井伊の赤鬼」が、獲物を食い散らかしながら迫ってくる。
「逃がすかァ! 島津義弘の首、置いていけェ!」
直政の怒号が背筋を凍らせる。
もはやこれまでか。義弘が覚悟を決めた、その時だった。
街道の前方に立ち込めていた霧が、不自然に渦を巻いた。
空間が歪み、雨粒が弾ける。
そこには、あり得ないものが立っていた。
「……なんじゃ、ありゃあ?」
義弘は馬の手綱を絞った。
霧の中から現れたのは、数百の「赤」だった。
「……井伊の伏兵か!?」
家臣たちが色めき立つ。後方からは井伊の赤備え、前方からも赤い軍団。挟み撃ちかと絶望が走る。
だが、義弘の古狼のような眼光は、その異質さを見抜いていた。
違う。あれは日ノ本の者ではない。
雨を吸って重く垂れ下がる真紅の布。濡れて鈍く光る青銅の円盾。
何より、彼らが放つ気配が、井伊のそれとは決定的に異なっていた。
両軍が対峙した。
敵か? 徳川の伏兵か?
だが、彼らは島津軍に刃を向けていなかった。彼らの視線は、島津軍の背後――追撃してくる井伊直政の軍勢に向けられている。
レオニダスは、駆け込んでくる老将と、その背後で死んでいく座り込み死んでいく者たちを交互に見た。
状況は明白だ。
言葉はいらない。戦士の嗅覚が告げている。
――こいつらは、俺たちだ。
誰かのために死ぬ場所を探している、愛すべき馬鹿野郎どもだ。
「見ろ。彼らの背中の旗を」
レオニダスが部下に囁く。
島津の指物にある「丸に十字」の紋章。
レオニダスには、それがスパルタの象徴である「Λ(ラムダ)」と、盾の円形を組み合わせた意匠に見えた。
「我らの遠い親戚かもしれん」
レオニダスはニヤリと笑った。
「勇敢な戦士たちが、座して死を選んでいる。その魂を無駄にするな。ここから先は、スパルタが引き継ぐ!」
王が槍を掲げると、三百の兵が呼応した。
義弘は馬上で拳を握りしめ、短く吼えた。
「……恩にきる!」
島津の本隊が嵐のように通り抜ける。
最後尾の義弘が通過した瞬間、ガシャン! と重厚な音が響き、青銅の門が閉ざされた。
井伊直政は、血に飢えた獣のように街道を疾走していた。
島津の小癪な足止め部隊を蹴散らし、ようやく本隊の背中が見えた。
だが、その視界を遮るように、突如として「赤い壁」が出現した。
「なんだ、あれは!?」
直政は叫んだ。
日本の甲冑ではない。半裸の南蛮人たちが、狭い街道にびっしりと密集している。
「南蛮の傭兵か! 構わん、島津ごと突き崩せェッ!」
最強を自負する井伊の赤備えが、スパルタのファランクスに突っ込んだ。
ドォォォォン!
街道の木々が震えるほどの衝撃音。
だが、青銅の壁は揺るぎもしなかった。
井伊の長槍が盾に弾かれ、騎馬の体当たりが筋肉の塊に押し返される。
「引くな!」
レオニダスが吼える。
スパルタ兵たちは盾を構えたまま、じりじりと前進した。
盾の隙間から突き出される短槍が、正確に馬の脚を払い、乗り手の喉を貫く。
狭い一本道。数の利を封じられた井伊軍にとって、正面からの力押しでスパルタを抜くことは不可能だった。
「おのれ、おのれェッ!」
直政は焦った。家康の目前で島津を取り逃がすわけにはいかない。
彼は自ら槍を振るい、最前線へ躍り出た。
「どけェッ! そこをどけェェッ!」
直政の剛槍が、一人のスパルタ兵の盾を砕く。
だが、その兵士は笑っていた。
盾を捨て、素手で直政の馬の首を抱え込み、強引にねじ伏せたのだ。
「なっ……馬鹿力か!?」
落馬する直政。
「……いい面構えだ、赤鬼」
レオニダスは、泥に塗れた若き猛将に、かつての自分を見た気がした。
だからこそ、情けはかけない。
王は円盾を高く振りかぶった。
「だが、ここから先は『通行止め』だ」
ゴガァァァッ!
盾の打撃音が、雷鳴にかき消された。
「ぐ、あぁぁぁっ!」
直政が崩れ落ちる。
井伊の赤鬼が、異国の鬼に膝を屈した瞬間だった。
背後の騒乱を聞きながら、島津義弘は馬を止めて振り返った。
信じがたい光景だった。
あの井伊の赤備えが、完全に止められている。
謎の南蛮人たちは、一歩も引かず、まるではじめからそこの地形の一部であったかのように、街道を封鎖していた。
「……オイたちの代わりに」
義弘は悟った。
彼らは、島津の「捨て奸」を引き継いだのだ。
言葉は通じない。名乗りもない。
だが、死地において味方の背中を守るという、武人の本能だけで繋がっていた。
「殿、今のうちに!」
家臣が急かす。井伊軍が混乱している今こそ、脱出の好機だ。
義弘は兜の緒を締め直し、馬上から深く一礼した。
そして、腹の底から感謝の咆哮を上げた。
「かたじけない! 南蛮の益荒男たちよ! その恩、忘れもはん!」
その声に応えるように、赤いマントの巨漢――レオニダスが、血濡れの盾を掲げた。
行け。ここは俺たちの戦場だ。
その背中は、そう語っていた。
「チェストォォォッ!行くぞ、薩摩へ!」
島津軍は再び駆け出した。
関ヶ原の雨の中、最強と最強が交錯した街道には、青銅の壁だけが残された。
関ヶ原の戦いは、徳川家康の勝利で幕を閉じた。
島津義弘は奇跡的な生還を果たし、その「島津の退き口」は戦国最後の伝説として語り継がれることになる。
だが、徳川四天王・井伊直政の死因については、歴史学者の間でも奇妙な異説が囁かれている。
通説では「島津兵の銃撃による古傷が悪化した」とされるが、井伊家に伝わる極秘の診療録には、不可解な記述が残されているという。
『その傷、鉛玉によるものにあらず。まるで巨大な鉄槌、あるいは円盤ごとき鈍器によって、鎧の上から肩の骨を粉砕されたるものなり』と。
そして、薩摩・鹿児島の山奥。
島津家ゆかりの神社の片隅には、義弘がひっそりと建立したとされる、名もなき「異国の鬼神」を祀る祠が存在する。
その御神体は、錆びついた「Λ」の文字が刻まれた、青銅の破片であると言い伝えられている。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




