第7話:スパルタ×コンスタンティノープルの陥落 〜最後の皇帝と青銅の祖霊〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
ワールシュタットの毒々しい煙の臭いが消え、世界がまたしても変転する。
レオニダスが次に感じたのは、懐かしくも寂しい、潮の香りだった。
エーゲ海の風だ。だが、故郷のそれとはどこか違う。もっと古く、そして腐敗したような、甘ったるい死の匂いが混じっている。
目を開けると、そこは石畳の上だった。
見上げれば、天を衝くような巨大な城壁がそびえ立っている。三重構造の、堅牢無比な要塞。
だが、その壁は今、あちこちが崩れ、黒煙を上げていた。
「……城か」
副官のアステリオスが、崩れた石垣の破片を拾い上げた。
「王よ。ここは今までで一番デカい。アテナイのアクロポリスなんぞが子供に見える規模です」
レオニダスは、城壁の外を見下ろした。
そこには、絶望が広がっていた。
地平線を埋め尽くす白い天幕。数千隻の艦隊。そして、大地を揺るがすような太鼓とラッパの音。
オスマン帝国の旗――三日月が、太陽を覆い隠すように翻っている。
ズドォォォォォン!!
突然、天地がひっくり返るような轟音が響いた。
城壁の一部が、砂の城のように粉砕される。
見たこともない巨大な鉄の筒――大砲が、火を噴いたのだ。
巨砲「ウルバン」。その砲弾は、千年の歴史を誇る城壁を、無慈悲に噛み砕いていく。
「……雷を操るのか、今の敵は」
レオニダスは、崩れ落ちる石煙の中で目を細めた。
城壁の上では、煌びやかな鎧を着た兵士たちが、必死に穴を塞ごうとしている。
彼らが話す言葉。それは、少し訛ってはいるが、聞き覚えのある響きだった。
ギリシャ語だ。
「王よ。ここの連中、我々の言葉を話しています」
「そうか」
レオニダスは、ボロボロになった双頭の鷲の旗を見上げた。
「ならば、遠い親戚かもしれん。親戚の葬式に手ぶらで行くわけにはいかんな」
死の匂いが濃厚に漂っている。この都は、もう助からない。
だが、だからこそ、スパルタの王は歩き出した。
滅びゆく者の最後の灯火を、見届けるために。
西暦1453年5月29日。コンスタンティノープル。
東ローマ帝国皇帝、コンスタンティヌス11世・パライオロゴス・ドラガセスは、聖ロマノス門の近くで、崩れゆく城壁を背にして立っていた。
都は、死にかけていた。
オスマン帝国のスル丹、メフメト2世が率いる10万の大軍に対し、守る守備兵はわずか7千。
頼みの綱だったジェノヴァ人傭兵隊長ジュスティニアニが負傷し、戦線から離脱した瞬間、守備側の士気は崩壊した。
「陛下! ジュスティニアニ隊長が撤退します! もう防ぎきれません!」
「城門が破られました! トルコ兵が雪崩れ込んできます!」
報告を聞く皇帝の顔は、蒼白だった。だが、その瞳から光は消えていなかった。
彼は知っていた。今日が、ローマ帝国の最後の日になることを。
アウグストゥスから始まり、千五百年続いた栄光が、自分の代で終わる。
その重圧に押し潰されそうになりながらも、彼は逃げることを拒んだ。
「……船はある。逃げようと思えば逃げられる」
皇帝は呟いた。
側近たちが、涙ながらに亡命を勧める。
だが、皇帝は静かに首を横に振った。
「都なき皇帝に、何の意味がある? 私は、この都と共に死ぬ」
コンスタンティヌスは、身に纏っていた紫色のマント(インペラトール・パルダメントゥム)を脱ぎ捨てた。
金糸の刺繍が入った皇衣も、鷲の紋章が入った靴も、すべて脱ぎ捨てた。
「私は皇帝ではない。ただのローマ市民として、ローマ兵として死ぬ。……行くぞ!」
皇帝は剣を抜き、城壁の裂け目へと走った。
そこには、白い帽子を被った精鋭部隊――イェニチェリ軍団が、波のように押し寄せていた。
死にに行くようなものだ。
たった数人で、最強の軍団に突っ込む。
皇帝が覚悟を決めた、その時。
彼の目の前に、赤い壁が出現した。
皇帝は足を止めた。
崩れた城壁の瓦礫の上に、異様な集団が立っていた。
真紅のマント。青銅の兜。そして、巨大な円盾。
彼らは無言で盾を並べ、イェニチェリ軍団の突撃を正面から受け止めていた。
ガギィィィン!
イェニチェリの振るうシャムシール(曲刀)が、青銅の盾に弾かれる。
オスマン軍の猛攻を、彼らは一歩も退かずに支えていた。
「な……何者だ?」
皇帝は呆然とした。
彼らの装備は、博物館にあるような古代の遺物だ。だが、その肉体が放つ活力は、今のビザンツ兵の誰よりも力強い。
集団の中心にいる男――レオニダスが、皇帝を振り返った。
兜の下から覗く瞳が、皇帝を射抜く。
レオニダスは、皇帝が脱ぎ捨てた紫のマントと、その手に握られた剣を見て、状況を理解した。
(……なるほど。王冠を捨てて、剣を取ったか)
「おい、そこの若造」
レオニダスは、古代ギリシャ語で話しかけた。
皇帝は、その言葉を理解できた。それは、教養として学んだ先祖の言葉だった。
「あ、貴公は……? ギリシャの民か?」
「スパルタだ」
レオニダスは短く答えた。
「親戚の家が火事だと聞いてな。火消しに来てやった」
「スパルタ……」
皇帝は戦慄した。
伝説。神話。
東ローマ帝国は、ギリシャ文化を継承した「ローマ」だ。彼らにとって、スパルタは精神的なルーツの一つでもある。
その祖霊が、最期の瞬間に現れたのか。
レオニダスは、迫りくるイェニチェリの大群を顎でしゃくった。
「騒がしい連中だ。ペルシアの不死隊気取りか? だが、数だけは多い」
彼は皇帝の隣に並び、盾を構えた。
「ここが死に場所か、王よ」
皇帝は、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
孤独ではなかった。
千年の歴史の重みを、この背中は支えてくれるというのか。
「……ああ。ここが私の墓場だ。だが、ただでは死なん!」
「いい目だ」
レオニダスはニヤリと笑った。
「ならば、華々しく散ろうではないか。スパルタ流の葬送曲を奏でてやる!」
オスマン帝国最強の歩兵、イェニチェリ軍団。
彼らはスルタンへの絶対的な忠誠と、狂信的な勇気を持つエリートだ。
白い帽子をなびかせ、「アッラー!」と叫びながら突撃してくる。
だが、スパルタのファランクスは崩れなかった。
瓦礫の山という、足場の悪い地形。それが逆にスパルタ兵には有利に働いた。
彼らは瓦礫を背にし、あるいは足場にして、巧みに位置を取り、イェニチェリの波状攻撃を分散させた。
「突き!」
盾の隙間から、長槍が繰り出される。
イェニチェリの鎖帷子を貫き、肉を抉る。
だが、イェニチェリも退かない。彼らは死を恐れず、仲間の死体を乗り越えて剣を振るう。
「しつこいな! ハエのように湧いてくる!」
アステリオスが、盾で敵を殴り飛ばしながら叫ぶ。
「王よ! キリがありません! 敵の数が多すぎます!」
「構わん! 槍が折れるまで突け! 折れたら噛み付き、殴り殺せ!」
その乱戦の中で、コンスタンティヌス皇帝も戦っていた。
彼はスパルタ兵の盾の隙間に入り込み、剣を振るった。
皇帝としての威厳などない。泥と血にまみれ、獣のように咆哮する一人の戦士。
その姿を見て、逃げ腰だったビザンツ兵たちも踏み止まった。
「陛下が戦っておられるぞ!」
「見捨てるな! ローマの名折れだ!」
死にかけの帝国軍が、最後の輝きを見せた瞬間だった。
だが、戦局を覆すことは不可能だった。
別の城門が開けられ、そこからオスマン軍の本隊が雪崩れ込んでいた。
背後から火の手が上がる。
都は落ちたのだ。
レオニダスは、燃え上がるハギア・ソフィア大聖堂の方角を見つめた。
「……終わったな」
彼は静かに告げた。
守るべきものは、もうない。あとは、どう死ぬかだけだ。
皇帝もそれを悟った。
彼は剣を下げ、レオニダスに向き直った。
その顔には、憑き物が落ちたような、穏やかな笑みがあった。
「感謝する、古の友よ。貴公らのおかげで、私はローマ皇帝として恥じぬ戦いができた」
レオニダスは、皇帝の肩に手を置いた。
その手は温かく、大きかった。
「血は薄まったかもしれんが、魂は残っていたようだな。お前は立派なスパルタ人だ」
それは、スパルタ王から贈られる、最大級の賛辞だった。
オスマン軍の包囲網が狭まる。
メフメト2世が、勝利のパレードの準備を始めている。
残された道は一つ。
敵の大海原へ向かって、玉砕覚悟の突撃を行うこと。
「行くぞ」
皇帝は剣を掲げた。
皇衣はない。冠もない。名前もない一兵卒として。
「ローマの息子たちよ! 私に続けェェッ!」
「ウー! ハー!」
スパルタ兵たちが呼応する。
三百人と、一人の皇帝。
彼らは、押し寄せる数万のオスマン軍に向かって、最後の突撃を敢行した。
それは、歴史の裂け目に消えていくような、儚くも美しい光景だった。
赤いマントと、銀の剣が、黒い軍勢の中に飲み込まれていく。
レオニダスの槍が敵将を貫き、皇帝の剣が閃く。
彼らは殺し、殺され、そして進んだ。
やがて、乱戦の中で皇帝の姿は見えなくなった。
スパルタ兵たちもまた、朝霧が晴れるように、一人、また一人と姿を消していった。
アテナの迎えか、あるいは歴史の修正か。
戦いが終わった後。
メフメト2世は、コンスタンティノープルに入城した。
彼は皇帝の遺体を探させたが、ついに見つかることはなかった。
紫の靴を履いた死体が見つかったという説もあるが、定かではない。
人々は噂した。
皇帝は死んでいない。天使によって救い出され、大理石の像となって地下で眠っているのだと。
そしていつか、都を奪還するために目覚めるのだと。
「大理石の王」の伝説である。
テオドシウスの城壁の瓦礫の下からは、後年、奇妙なものが発見された。
それは、オスマンの湾曲刀でも、ビザンツの直剣でもない。
古代ギリシャ様式の、折れた青銅の槍の穂先だった。
それは錆びついていたが、ローマの最後を見届けた証人のように、静かに輝いていた。
中世が終わり、近世が始まる。
その時代の結び目に、スパルタの結び目が固く結ばれていたことを知る者はいない。
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