第6話:スパルタ×ワールシュタットの戦い 〜煙の中の不動心〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
アルスフの砂漠で浴びた太陽の熱が、瞬きする間に冷たく湿った空気へと変わった。
レオニダスが次に感じたのは、鼻腔を刺激する強烈な焦げ臭さだった。
湿った藁、獣の脂、そして枯れた葦を大量に燻したような、重く粘り気のある煙の臭い。
目を開けると、そこは薄暗い平原だった。
空は厚い雲に覆われ、小雨交じりの風が吹いている。
だが、視界が悪いのは天候のせいだけではない。平原全体を、不気味な「白濁した煙」が覆い尽くしているのだ。
「……霧か? いや、煙だな」
副官のアステリオスが、煙たそうに目を細めた。
「風上から意図的に流されています。敵は姿を隠す気だ」
レオニダスは、左腕の円盾を強く握りしめた。
視界不良。指揮官にとって最も忌むべき状況だ。敵の数も、配置もわからない。
だが、彼は決して盾を離さなかった。視界が効かない時こそ、頼れるのは己の盾と、隣にいる仲間の体温、そして聴覚だけだ。
煙の向こうから、地鳴りのような音が近づいてくる。
蹄の音だ。だが、これまでのどの騎馬隊ともリズムが違う。
軽く、速く、そして不規則なリズム。まるで狼の群れが獲物を追い立てるような、捕食者の足音。
そして、風を切り裂く鋭い音――ヒュルルルという、笛のような音が混じっている。
「聞こえるか」
レオニダスが耳を澄ます。
煙の奥から、金属的な悲鳴と、異国語の絶叫が聞こえてくる。
『デウス・ウルト(神が望まれる)!』という悲痛な祈りの言葉と、『テングリ(蒼き狼)!』という獣のような咆哮。
「……また厄介な場所に呼ばれたものだ」
レオニダスは、兜の目庇を下げた。
ここがどこであろうと、やることは変わらない。
盾を構え、隣の友を守り、前から来る敵を殺す。それだけだ。
「総員、密集せよ! 盾の隙間をなくせ! 目ではなく、耳と肌で敵を感じろ! 一歩も動くな!」
西暦1241年4月9日。ポーランド、レグニツァ近郊。
シレジア公ヘンリーク2世率いるヨーロッパ連合軍(ドイツ騎士団、テンプル騎士団、ポーランド軍など)は、東方から侵攻してきたモンゴル帝国軍と対峙していた。
ヨーロッパ側にとって、それは悪夢の具現化だった。
最強を誇る重装騎士団が、手も足も出ずに翻弄されていたのだ。
「見えない! 敵はどこだ!」
ドイツ騎士団の騎士が、兜の中で叫ぶ。
モンゴル軍は、戦場に大量の煙幕を張っていた。巨大な「X」字型の紋章が描かれた旗から、猛烈な勢いで煙が噴き出している。
騎士団が得意とする集団突撃は、標的を見失い、空を切るばかりだった。
そして、煙の中から死が飛来する。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
モンゴルの複合弓から放たれる矢は、鎖帷子を貫く威力を持っていた。
騎士たちはどこから撃たれているかもわからず、次々と馬から転げ落ちていく。
「悪魔だ……奴らは人間じゃない!」
さらに、モンゴル兵は「鳴り鏑」と呼ばれる笛のついた矢を使い、奇妙な音で合図を送り合っていた。
煙の中で響く不気味な笛の音。姿の見えない敵。
恐怖が伝染し、騎士団の統率はズタズタに分断されていた。
「閣下! 前衛が壊滅しました! 煙の中で味方同士がぶつかっています!」
本陣のヘンリーク2世は、青ざめた顔で戦場を見つめていた。
これが「タタール(地獄の住人)」か。
騎士道など通用しない。徹底した狩りの戦術だ。
「……退却は許されん。我らが敗れれば、ヨーロッパは終わる」
ヘンリークは剣を抜き、決意を固めた。
「全軍、突撃せよ! 煙を突き破り、敵の本陣を叩くのだ! 神の加護あれ!」
彼自身もまた、親衛隊を率いて死の煙の中へ飛び込もうとした。
その時。
煙が風に巻かれ、最前線に奇妙な「影」が浮かび上がった。
それは、混乱する戦場において、唯一、岩のように静止する巨大な防波堤のようだった。
モンゴル軍の指揮官バイダルは、小高い丘の上から戦況を冷ややかに眺めていた。
煙幕で視界を奪い、音で恐怖を煽り、混乱したところを射殺す。予定通りの狩りだ。
だが、煙の中に「異物」を見つけた瞬間、彼の細い目がさらに細められた。
「なんだ、あれは?」
煙の晴れ間に現れたのは、ヨーロッパの騎士ではなかった。
真紅のマント。頭には鶏冠のついた兜。
そして、巨大な円形の盾を構えた、半裸の歩兵集団。
彼らは、パニックに陥って逃げ惑うポーランド兵たちの真ん中で、異常なほどの静寂を保っていた。
レオニダスは、煙の中で目をしばたたかせながらも、部下たちに檄を飛ばしていた。
「動くな! 視界が悪い時こそ、足元を固めろ!」
スパルタ兵たちは、盾の下部を地面に突き立て、左隣の兵士の盾と縁を重ね合わせている。
完璧なファランクス(密集陣形)。
彼らは盾を決して離さない。それは彼らの皮膚であり、友軍を守る唯一の壁であり、故郷そのものだからだ。
そこへ、モンゴルの軽騎兵が襲いかかった。
「ヒャッハー!」
煙の中から突然現れた騎兵が、曲刀を振りかざす。
普通の歩兵なら、恐怖で隊列を乱し、背を向けて逃げるところだ。
だが、スパルタ兵は瞬き一つしなかった。
ガギィン!
曲刀が青銅の盾に弾かれる。
直後、盾の隙間から長槍が突き出され、馬の胸を正確に貫いた。
ヒヒィン!
馬が倒れ、乗り手が放り出される。
落ちたモンゴル兵を、スパルタ兵が短剣で確実に仕留める。無駄がない。
「……強い」
逃げてきたテンプル騎士団員が、その光景を見て立ち尽くした。
あの裸の男たちは、煙も、馬の突撃も、まるで意に介していない。
ただ、そこに「在る」だけで、敵を粉砕している。
レオニダスは、呆然としている騎士に向かって怒鳴った。
言葉は通じないが、その拳骨が騎士の兜をゴンと叩く音で意志は伝わった。
「ボーっとしているな、鉄屑! 盾を持て! 盾がないなら死体でも抱えて壁を作れ! 孤立すれば死ぬぞ!」
モンゴル軍は戦術を変えた。
彼らの十八番、「偽装退却」だ。
攻めあぐねた騎兵部隊が一斉に背を向け、逃げ出すふりをする。
「敵が逃げるぞ! 追え! 今だ!」
功を焦ったポーランド兵たちが、釣られて陣形を崩し、追いかけようとする。
これがモンゴルの狙いだ。追撃で隊列が伸びきったところを、反転して包囲殲滅するのだ。
だが、スパルタ兵は動かなかった。
一歩も。
レオニダスは、逃げる敵の背中を冷ややかに見つめ、槍の石突で地面を叩いた。
「待て」
彼の号令は絶対だ。
スパルタ兵は、隣の兵と肩を組んだまま、彫像のように静止し続けた。
釣られて飛び出そうとしたポーランド兵の首根っこを、アステリオスが掴んで引き戻す。
「行くな、馬鹿者! アレは罠だ!」
「離せ! 敵が逃げているんだぞ!」
「見ろ! 馬の脚が揃っている! あれは逃げているんじゃない、走っているだけだ! お前たちの鈍重な足で追いつけるものか!」
その直後。
逃げていたはずのモンゴル軍が、一斉に反転した。
振り向きざまの射撃。
雨のような矢が、追撃しようとしていた騎士団に降り注ぐ。
「ぎゃあぁぁぁ!」
無防備に飛び出した者たちが、次々と射殺される。
だが、動かなかったスパルタ兵たちは無傷だった。
彼らは盾を構えたまま、矢の雨をやり過ごしたのだ。
カン、カン、カン!
青銅の盾が歌うように矢を弾く。
そして、反転攻勢に出てきたモンゴル騎兵を、万全の態勢で待ち構えた。
モンゴルの重装騎兵が、トドメを刺すために突っ込んでくる。
ドォォォン!
モンゴル騎兵の突撃が、スパルタの盾の壁に激突する。
だが、壁はビクともしなかった。
彼らは盾を愛している。盾を信じている。
盾さえあれば、世界中のどんな騎兵が来ようとも、俺たちは負けない。その確信が、青銅の壁をダイヤモンドよりも硬くしていた。
「押し返せ(オティスモス)!」
スパルタ兵が一斉に踏み込む。
突撃を止められたモンゴル騎兵は、足を止めたところをスパルタの槍で串刺しにされた。
「な、なんだこいつらは!?」
「引かない! 誘いに乗らない! 動かない!」
モンゴル兵にとって、これほど不気味な敵はいなかった。
彼らの戦術の全て――煙幕、機動力、誘引、分断――が、この「動かざること山の如し」の集団には通じないのだ。
戦場は混迷を極めた。
スパルタ兵が作った「不動の拠点」を中心に、ヨーロッパ連合軍の残存兵力が集まり始めた。
だが、多勢に無勢。全体の敗北は覆せそうになかった。
モンゴル軍の包囲網は完成しており、騎士団は次々と討ち取られていく。
総大将ヘンリーク2世は、最期まで戦い、モンゴル兵に囲まれて討ち死にした。
その首が槍の先に掲げられる。
「総大将が死んだぞ!」
連合軍の士気が完全に崩壊し、敗走が始まる。
だが、スパルタ兵だけは退かなかった。
彼らは、ヘンリークの遺体が転がる場所までジリジリと前進し、その周囲を円陣で固めた。
死体を守ることに戦術的な意味はない。
だが、スパルタ人にとって「王の遺体を敵に渡さない」ことは、死守すべき最後の誇りだった。かつてテルモピュライで、レオニダスの遺体を守るために命をかけたように。
レオニダスは、ヘンリークの首のない遺体を見下ろし、静かに祈った。
「……勇敢な王だった。少なくとも、背中の傷はない」
そして、周囲を取り囲むモンゴル兵たちを睨め回した。
モンゴル兵たちは、遠巻きにしたまま近づけない。
この数百人の「壁」を崩すには、あまりに多くの犠牲が必要だと悟ったからだ。彼らは、この奇妙な集団に関わるのを避けた。
「……行くぞ」
レオニダスは、ヘンリークの遺体にかけてあったマントを外し、自分の腕に巻いた。
煙がさらに濃くなる。アテナの迎えだ。
彼らは盾を構えたまま、後ろ歩きで煙の中へと消えていく。
最後まで、敵に背中を見せることはなかった。
モンゴル軍は、この戦いで勝利を収めたものの、その被害は甚大だった。
特に中央突破を阻まれた部隊の損耗は激しく、これが原因の一つとなり、モンゴルの西欧侵攻はオーストリア目前で停止することになる(諸説あり)。
生き残ったテンプル騎士団員は、後にこう記している。
『地獄の煙の中、赤い悪魔たちが立っていた。彼らは盾を決して手放さず、まるで大地に根が生えたかのように動かなかった。彼らこそ、真の騎士の鑑であった』
ワールシュタットの荒野には、今も風が吹く。
その風の中に、微かに青銅の響きと、決して退かぬ男たちの雄叫びが混じっている気がする。
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