第5話:スパルタ×アルスフの戦い 〜獅子心王と砂漠の行軍〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
安市城の泥と雨の感触が消え、世界が再び明滅する。
レオニダスが次に感じたのは、暴力的なまでの「熱」だった。
皮膚を焦がすような直射日光。喉を干上がらせる乾いた風。
目を開けると、そこは一面の砂漠だった。
左手には、青く輝く地中海。右手には、荒涼とした砂丘と岩場が続いている。
「……暑いな」
副官のアステリオスが、顔をしかめて汗を拭った。
「テルモピュライも暑いが、ここの日差しは殺意を感じます。鎧が焼けてしまいそうだ」
レオニダスは、目を細めて前方を見た。
海岸線に沿って、巨大な「鉄の川」が流れていた。
数万の軍勢だ。
彼らは全身を鎖帷子と鉄兜で覆い、巨大な長方形の盾を持ち、白地に赤十字が描かれたサーコートを羽織っている。
重装騎兵と歩兵が混成した、長大な行軍列。
だが、その行軍は異様だった。
彼らは一言も発さず、ひたすら黙々と歩いている。
その周囲を、無数の「羽虫」が飛び回っていた。
軽装の騎兵たちだ。ターバンを巻き、弓を持った異教の戦士たちが、行軍する鉄の列に対して絶え間なく矢を射かけ、罵声を浴びせている。
「……攻撃されているな」
レオニダスは状況を分析した。
「だが、反撃していない。サンドバッグのように殴られるがまま進んでいる。……なぜだ?」
臆病だからか? いや、違う。
鉄の列からは、爆発寸前の怒気と、それを鋼の理性で抑え込む指揮官の強烈な統率力が感じられた。
「なるほど。我慢大会か」
レオニダスはニヤリと笑った。
挑発に乗らず、機を待つ。それはスパルタのファランクスの基本にして奥義だ。
そして何より、彼らは盾を持っている。盾を持つ者が、矢ごときに動じるわけがない。
「気に入った。あの鉄屑どもに、スパルタ流の『忍耐』を教えてやろう」
西暦1191年9月7日。パレスチナ、アルスフ近郊。
イングランド王リチャード1世、通称「獅子心王」率いる第三回十字軍は、聖地エルサレムを目指して南下していた。
対するは、イスラムの英雄・サラディン(サラーフ・アッディーン)率いるアイユーブ朝軍。
サラディンの戦術は明確だった。
重装備の十字軍に対し、軽騎兵によるヒット・アンド・アウェイを繰り返し、隊列を崩させ、疲弊したところを各個撃破する。
だが、リチャードはそれを見抜いていた。
彼は全軍に厳命を下していた。
『隊列を崩すな。挑発に乗るな。私の合図があるまで、一歩たりとも敵に向かって走るな』
行軍は地獄だった。
気温は40度を超え、重い鎧が体力を奪う。そこへ、サラディン軍の矢の雨が降り注ぐ。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
カン、キン、ガッ!
鎖帷子や盾に矢が当たる音が、絶え間なく響く。
多くの兵士が、身体中に矢が刺さった状態で歩き続けていた。ハリネズミのような姿になっても、彼らは歩みを止めない。
「陛下! もう限界です!」
後衛を務めるホスピタル騎士団の総長が、馬を寄せて叫んだ。
「馬が次々と射殺されています! 騎士たちの怒りも限界だ! 突撃の許可を!」
リチャードは、巨大な戦斧を担ぎ、鉄仮面のような無表情で答えた。
「ならん。まだ早い」
その声は低く、唸るようだった。
「サラディンの本隊が近づくまで待て。今突撃すれば、奴らは砂漠へ逃げ、我々は孤立する。……耐えろ。神が試練を与えているのだ」
リチャード自身も、怒りで腸が煮えくり返りそうだった。
だが、彼は王だ。感情ではなく、勝利のために軍を動かさねばならない。
(来い、サラディン。もっと近づけ。我が牙が届く距離まで……)
その時、隊列の側面、最も攻撃が激しい場所に、異変が起きた。
砂煙の中から、奇妙な集団が現れ、十字軍の側面に並走し始めたのだ。
「な、なんだ奴らは!?」
フランスの騎士が叫んだ。
現れたのは、鉄の鎧を着た騎士ではなかった。
真紅のマント。青銅の兜。そして、灼熱の太陽の下で黄金色に輝く、半裸の筋肉。
三百人の男たちが、十字軍の歩兵と並んで歩き始めたのだ。
「裸だと!? 正気か!?」
騎士たちが驚愕する中、スパルタ兵たちは無言で巨大な円盾を掲げた。
彼らの盾は大きく、そして硬い。
サラディン軍の軽騎兵が放つ矢が、スパルタの盾に吸い込まれ、虚しく弾き返される。
レオニダスは、隣を歩く十字軍の歩兵を見やった。
厚いキルティングの鎧を着込み、クロスボウを抱え、汗だくになっている若者。
顔には恐怖と疲労の色が濃い。
「おい、若造」
レオニダスは、ギリシャ語で声をかけた。通じなくても構わない。
「背中を丸めるな。前を見ろ。矢など、当たらなければどうということはない」
レオニダスは、飛んできた矢を盾で受け流しながら、平然と歩いた。
その姿は、十字軍にとって衝撃的だった。
鎧も着ずに、盾一枚で矢の雨を凌いでいる。しかも、彼らの隊列は定規で引いたように乱れない。
サラディン軍の騎兵が接近してくると、瞬時に盾を密着させて「壁」を作り、長槍を突き出して威嚇する。
馬は槍衾を恐れて近づけない。
完璧な対騎兵防御。
リチャード王も、その様子に気づいた。
「……ほう」
リチャードは目を輝かせた。
どこの異教徒かは知らん。だが、あの統率、あの胆力。我慢することの辛さを知っている、本物の戦士たちだ。
レオニダスは、馬上のリチャードと視線を合わせた。
巨大な戦斧を持つ、金髪の王。
その瞳には、燃え盛るような闘志と、それを抑え込む理性が同居していた。
(……いい面構えだ。お前がここの王か)
レオニダスは、盾を軽く掲げて挨拶した。
『合図を待っているんだろ? 俺たちも付き合うぜ』
リチャードはニヤリと笑い、頷いた。
言葉はいらない。戦場における「待て」の意味を知る者同士の、無言の盟約。
正午を過ぎた。
暑さはピークに達し、十字軍の兵士たちは脱水と疲労で限界に近づいていた。
サラディン軍も、焦れ始めていた。
「なぜ崩れない! なぜ反撃してこない!」
敵の騎兵たちが、より深く、より大胆に接近してくる。
ついに、サラディンの本隊が、トドメを刺すために距離を詰めた。
その瞬間を、リチャードは待っていた。
「今だ」
リチャードが、従者に合図を送る。
プォォォォォォォッ!!
攻撃開始のラッパ(トランペット)が、砂漠の空気を切り裂いた。
「全軍、突撃ィィィッ!!」
リチャードの咆哮。
それは、堰き止められていたダムが決壊したような瞬間だった。
数時間、矢を浴び続け、罵声を浴び続け、怒りを溜め込んでいた数千の騎士たちが、一斉に爆発した。
「デウス・ウルト(神がそれを望まれる)!!」
「サンクタム・セプルクルム(聖墳墓)のために!」
重装騎兵の突撃。
大地が悲鳴を上げるほどの震動。
それまでハエのように飛び回っていたサラディン軍の軽騎兵は、重戦車のような騎士団の突進を受け、粉砕された。
そして、その奔流の先頭に、赤いマントの集団がいた。
彼らは盾を構えたまま、凄まじい速度で走り出したのだ。
「突撃!」
レオニダスが叫ぶ。
三百人の男たちが、盾を構えたまま全力疾走する。
総重量三十キロを超える装備を身につけながら、彼らは騎兵に遅れを取らなかった。
それは、巨大な青銅の塊が、高速で移動しているようなものだった。
ドォォォン!!
スパルタ兵の盾が、逃げ遅れたサラディン軍の軽騎兵に激突する。
馬ごと吹き飛ばされる敵兵。
盾の質量と、彼らの脚力が生み出す運動エネルギーは、トラックの衝突に等しい。
「ウー! ハー!」
スパルタの雄叫びが響く。
倒れた敵には、すかさず長槍が突き刺さる。
盾で殴り、槍で突き、止まることなく前進する。
「す、凄い……!」
後続のテンプル騎士団員が、舌を巻く。
馬に乗っていないのに、馬と同じ破壊力を出している。
リチャード王もまた、最前線で戦斧を振るっていた。
「ハハハ! そうだ! これこそが戦だ!」
王は、並走するレオニダスを見て叫んだ。
「いい走りだ、裸の騎士よ! 盾が重くはないのか!」
レオニダスは走りながら、盾で敵を弾き飛ばして答えた。
「盾は俺の魂だ! 魂を置いて走る奴がいるか!」
砂漠の砂塵の中で、十字架とΛの紋章が入り乱れ、サラディンの軍勢を蹂躙していく。
それは、歴史に残る十字軍の圧勝劇だった。
戦闘は終わった。
サラディン軍は壊滅的な被害を受け、撤退した。
夕日が、赤く染まった砂漠を照らしている。
リチャードは、馬を降り、兜を脱いだ。
金髪が汗で張り付いている。
彼は、戦場の外れで整列しているスパルタ兵たちの元へ歩み寄った。
彼らは息一つ乱していなかった。
盾を下ろし、槍を拭いている。
誰も盾を失っていない。それこそが、彼らにとって最大の誇りだった。
リチャードは、レオニダスの前に立った。
巨漢同士。王同士。
リチャードは、自らの腰帯から、黄金の装飾が施された短剣を外し、レオニダスに差し出した。
「貴公らが何者かは知らん。だが、その『忍耐』と、盾を捨てぬ『矜持』に敬意を表する」
リチャードは、胸に手を当てた。
「我が名はリチャード。イングランドの王だ。貴公の名は?」
レオニダスは短剣を受け取り、その刃の輝きを確かめた。
「……いい鉄だ。もらっておく」
彼はニヤリと笑い、自分の胸を親指で指した。
「レオニダス。スパルタの王だ」
「スパルタ……」
リチャードは、その名を聞いて目を見開いた。
古典教育を受けた彼にとって、それは伝説の中の最強の戦士たちの名だ。
「まさか……伝説が蘇ったというのか?」
レオニダスは答えず、沈みゆく太陽を指差した。
蜃気楼が揺らめいている。
アテナの迎えだ。
「さらばだ、獅子の王よ。いい号令だったぞ」
スパルタ兵たちは、盾を背負い、蜃気楼の中へと歩き出した。
その姿は、熱波に揺らぎ、やがて砂漠の彼方へと溶けていった。
リチャードは、彼らが消えた後も、しばらくその場を動かなかった。
その後、リチャードとサラディンは休戦協定を結ぶことになる。
第三回十字軍の記録には、アルスフの戦いにおける「天の軍勢」の記述がわずかに残されているが、教会によって異端として削除されたとも言われている。
ただ、リチャード王が晩年まで大切にしていた「青銅の槍の穂先」が、ウィンザー城の宝物庫に眠っているという噂だけが、まことしやかに語り継がれている。
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