第4話:スパルタ×安市城の戦い 〜泥の土山と蹴撃の王〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
フランク王国の凍てつく森の感触が消え、世界がまたしても裏返る。
レオニダスが目を開けた時、最初に感じたのは、肌にまとわりつくような不快な「湿気」だった。
じっとりと重い空気。空は厚い鉛色の雲に覆われ、冷たい小雨が降り注いでいる。
鼻をつくのは、濡れた土と、大量の材木が発する青臭い匂い。
足元は、靴底が沈み込むほどにぬかるんだ赤土だった。
「……なんだ、この場所は?」
副官のアステリオスが、足元の土を槍の石突で突きながら、怪訝な顔をした。
「山の上……にしては、土が柔らかすぎます。まるで、昨日今日積み上げられたばかりのような」
レオニダスは、眼下の光景を見下ろして息を呑んだ。
彼らが立っている場所は、自然の山ではなかった。
人工的に作られた、巨大な「土の塔」の頂上だったのだ。
高さは二十メートル以上あろうか。何万、何十万という土嚢と丸太を積み上げ、無理やり大地を隆起させた、バベルの塔のごとき建造物。
その「土山」の目の前には、必死に抵抗を続ける古びた山城の城壁があった。
そして、背後(背中側)には――
地平線を埋め尽くす、無限の軍勢が広がっていた。
黄金の龍が描かれた無数の旗。整然と並ぶ天幕の海。
数え切れないほどの巨大な投石機と、城門を砕くための衝車(破城槌)。
その規模は、かつてテルモピュライで対峙したクセルクセスの軍勢に匹敵するか、あるいはそれ以上だった。
装備の質も高い。兵士たちは精緻な鱗状の鎧を身につけ、一糸乱れぬ隊列を組んでいる。
「……ペルシア軍か? いや、今回はさらに金持ちそうだな」
レオニダスは口笛を吹いた。
大帝国が、小国をすり潰そうとしている図式。
そして自分たちは今、その大軍が作り上げた「攻城兵器(土山)」のてっぺんに立っている。
「王よ! 足場が崩れます!」
兵士が叫ぶ。
グラリ、と巨大な土塊が揺れた。
連日の雨で地盤が緩んでいたのか、あるいは突貫工事のツケが回ったのか。
土山の一部が崩落し、城壁の方へと雪崩れ込んでいく。
「好機だ」
レオニダスは即断した。
崩れた土山は、城壁への架け橋となる。攻め手にとっても、守り手にとっても、ここが勝負の分かれ目だ。
「この山は、今は誰のものでもない。ならば、一番高いところに旗を立てた者が勝者だ。――ここをスパルタ領とする!」
西暦645年。高句麗、安市城。
唐の太宗・李世民は、中華統一を果たした英雄であり、歴代中華皇帝の中でも屈指の軍略家であった。
彼が率いる数十万の遠征軍は、破竹の勢いで高句麗の城を落としてきた。
だが、この安市城だけが落ちない。
城主・楊萬春と、五千の高句麗兵。
彼らは数ヶ月にわたり、唐の猛攻を耐え凌いでいた。
業を煮やした李世民は、最後の手段に出た。城壁よりも高い「土山」を築き、上から城内を見下ろして攻撃しようとしたのだ。
五十万人の人夫を動員し、六十日かけて昼夜兼行で築かれた土の怪物。それが今、安市城を飲み込もうとしていた。
ズゴゴゴゴゴ……!
不気味な地響きと共に、土山が崩壊した。
降り続いた雨の重みに耐えきれず、山体の一部が崩れ、城壁にのしかかるように雪崩れ込んだのだ。
衝撃で城壁の一部が破壊される。
「城主! 土山が崩れました! 城壁が埋まります!」
城壁の上で、高句麗の兵士が絶叫する。
「終わりだ……道ができてしまった……」
兵士たちが絶望に膝をつく。
崩れた土砂は、そのまま唐軍が城内へ侵入するための坂道となる。
唐軍の本陣から、勝利を確信する喚声が上がった。
「天佑なり! 今こそ攻め込め! 城内の鼠どもを皆殺しにせよ!」
李世民の精鋭部隊・傅伏愛率いる兵団が、崩れた土山を駆け上がり、城内へ雪崩れ込もうとする。
だが、楊萬春は叫んだ。
「違う! 泣くな! これは好機だ!」
彼は剣を抜き、泥まみれの城壁の上に仁王立ちになった。
「敵が登ってくる前に、我らが登るのだ! あの山を奪い取れ! そうすれば、あの山は我らの砦となる!」
狂気じみた命令だった。
数十万の敵に向かって、城を出て逆突撃をかけろと言うのだ。
だが、座して死ぬよりはマシだ。
高句麗の決死隊が、泥まみれの斜面を這い上がる。
頂上で唐軍と鉢合わせるはずだった。
しかし。
彼らが泥を掻き分け、息を切らせて頂上に辿り着いた時、そこには既に「王」がいた。
楊萬春は、目を疑った。
土山の頂上。そこには、唐の兵士はいなかった。
代わりに、真紅のマントを泥で汚した、半裸の巨人たちが鎮座していた。
「な、何者だ……?」
鬼神か? それとも山の精霊か?
彼らは巨大な円盾を構え、雨に打たれながら、下から登ってくる唐軍を見下ろしている。
その筋肉は岩のように隆起し、青銅の兜の下から覗く眼光は、獣のように鋭い。
中心にいる男――レオニダスが、楊萬春に気づいて振り返った。
眼光の鋭さに、楊萬春は思わずたじろぐ。
だが、レオニダスはニヤリと笑い、自分の足元の泥を踏みしめ、指差した。
『ここは俺たちが取った。だが、場所を貸してやってもいいぞ』
言葉は通じない。だが、敵ではないことは明白だった。
彼らの槍の穂先は、唐軍に向けられている。
そして何より、彼らの背中からは「ここを一歩も通さぬ」という、強烈な守護者の意志が感じられた。
「……かたじけない! 天の援軍と見なす!」
楊萬春は叫び、部下たちに命じた。
「頂上を固めろ! この赤マントの方々と共に、唐の軍勢を追い落とすのだ!」
その時、反対側の斜面から、唐軍の先鋒部隊が登ってきた。
「山を確保せよ! 高句麗兵を殺せ!」
精強を誇る唐の重装歩兵たち。
彼らは頂上にたどり着くなり、スパルタ兵の姿を見て硬直した。
「なんだこいつらは? 西域の胡人か? 裸で戦場に来るとは正気か!」
レオニダスは鼻を鳴らした。
「遅い。この山は既にスパルタの領土だ。不法侵入者には、相応の報いを受けてもらおうか」
王は、盾を構えて一歩踏み出した。
泥の斜面での、王座を巡る戦いが始まった。
土山の上は狭い。
数百人がひしめき合うのが限界だ。
だが、その狭さと、足場の悪さこそが、スパルタ兵の独壇場だった。
「押し出せ(オティスモス)!」
レオニダスの号令と共に、スパルタ兵が盾を突き出す。
唐兵は槍や刀で応戦するが、足場が悪い。重い鎧を着た唐兵は、泥に足を取られ、踏ん張りが効かない。
対するスパルタ兵は、裸足の指で泥を掴み、極限まで鍛え上げた体幹の強さでバランスを保っている。
ガギィン!
唐の剣が青銅の盾に弾かれる。
その反動で体勢を崩した唐兵の胸板を、スパルタ兵の盾が強打する。
「ぐわっ!」
唐兵が後ずさる。だが、後ろは急な斜面だ。
一人が転げ落ちると、将棋倒しのように後続の兵を巻き込んで、泥団子のように落下していく。
「見ろ! 敵が落ちていくぞ!」
高句麗兵が歓声を上げる。
楊萬春もまた、弓を取り、転がり落ちる敵兵を狙い撃つ。
「射よ! 上からの攻撃なら百発百中だ!」
唐の皇帝・李世民は、本陣からその様子を見て歯噛みした。
自軍が作った山を奪われ、そこから自軍が攻撃されている。これほどの屈辱はない。
「おのれ、小賢しい! あの山さえ奪えば城の中を見下ろせるのだぞ! 何としても奪い返せ! 退く者は斬る!」
皇帝の厳命を受け、唐軍の猛将・李道宗が自ら親衛隊を率いて登ってきた。
彼は大刀を振るい、鬼の形相で頂上へ迫る。
「どけェッ! 雑魚どもが!」
李道宗の武勇は凄まじく、スパルタ兵の槍を叩き折り、前線をこじ開けようとする。
そこへ、レオニダスが立ちはだかった。
レオニダスは、武器を持っていなかった。槍は泥の中に刺さり、剣も抜いていない。
彼はただ、泥まみれのマントをなびかせ、両手を広げて仁王立ちしていた。
「死にたいのか、蛮族!」
李道宗が斬りかかる。
レオニダスは、紙一重で刃を躱す。
そして、敵の懐深くへ踏み込んだ。
「ここはスパルタだ(ディス・イズ・スパルタ)!!」
レオニダスの右足が、閃光のように繰り出された。
前蹴り(フロンタル・キック)。
鍛え抜かれた足裏が、李道宗の腹部を正確に捉える。
ドゴォッ!!
重い打撃音。鎧の上からでも内臓を揺らす衝撃。
李道宗の体が「く」の字に折れ、砲弾のように吹き飛んだ。
彼は空中で手足をバタつかせ、そのまま背後の急斜面を転がり落ちていった。
「う、うわあぁぁぁぁッ!」
将軍の落下は、登ってくる数百の兵士たちを巻き込み、巨大な泥の雪崩となって唐軍を押し流した。
「……ふん。蹴り心地は悪くない」
レオニダスは足の泥を払い、眼下の大軍を見下ろした。
頂上に立つ三百人の赤マント。
彼らは槍を掲げ、勝鬨を上げた。
「アウ! アウ! アウ!」
三日三晩、争奪戦は続いた。
だが、唐軍はついに土山を奪い返すことができなかった。
頂上には常に「鉄の壁」があり、登ってくる者を物理的に、あるいは重力を使って拒絶し続けた。
雨は降り続き、斜面は滑り台と化した。上から岩や丸太を落とされれば、登る術はない。
冬が近づいていた。
食料も尽き、寒さが厳しくなる中、李世民は撤退を決断した。
あの中華最強の皇帝が、小さな山城に敗北を認めた瞬間だった。
唐軍が陣を払い、撤退を始める。
その去り際、李世民は安市城に向けて、百反の絹を贈ったという。
「見事な防衛であった。その忠義と武勇を称える」
敵ながら天晴れと認める、皇帝の器量だった。
楊萬春は城壁の上で遥拝し、感謝の意を示した。
そして、隣に立つレオニダスを見た。
絹の半分を、彼に差し出す。
「半分は貴殿らのものだ。この山を守ったのは、我々ではなく貴殿らの『足』と『盾』だ」
レオニダスは絹を受け取り、手触りを確かめた。
泥と血にまみれた手には、不釣り合いなほど滑らかな感触。
「……悪くない布だ。妻への土産にしよう」
彼はニヤリと笑い、楊萬春と固い握手を交わした。
「いい眺めだったぞ、東洋の城主よ。高い所は好きだ」
再び、霧が立ち込める。
レオニダスたちは、贈られた絹をマントのように巻き、霧の中へと歩き出した。
その背中は、泥だらけだったが、どんな皇帝の衣装よりも輝いて見えた。
楊萬春は、崩れかけた土山を見上げた。
そこには、無数の足跡と、スパルタ兵が残していった折れた槍が突き刺さっていた。
後に、安市城の伝説として語られることになる。
『土山の上には赤き鬼神が住まい、近づく敵を蹴り落とした。その蹴りは城壁をも砕くほどであった』と。
こうして、唐の太宗ですら落とせなかった城の秘密は、歴史の彼方へと消えていった。
スパルタの戦士たちは、次の戦場を求め、時空の霧を渡っていく。
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