第3話:スパルタ×トゥール・ポワティエ間の戦い 〜鉄槌と氷の壁〜
紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
カタラウヌムの草原で浴びた返り血が乾くよりも早く、レオニダスはまたしても「転移」の感覚に襲われた。
視界が明滅し、重力が歪む。
次に彼が感じたのは、肺を凍らせるような冷気だった。
「……ッ、寒いな」
副官のアステリオスが、身震いをして白い息を吐いた。
「ここは極北の地獄ですか?」
レオニダスは、マントについた霜を払いながら周囲を見渡した。
そこは、霧の立ち込める深い森と、起伏の激しい丘陵地帯だった。
空は低く垂れ込め、鉛色の雲が今にも雪を降らせそうに重くのしかかっている。
足元には、凍てついた黒い土と、枯れ落ちた樫の葉。
彼らが立っているのは、街道を見下ろす小高い丘の上だった。
そして、その丘には既に先客がいた。
数万の兵士たちが、森の木々と同化するように、密着して壁を作っていたのだ。
彼らは巨躯だった。
熊や狼の毛皮を羽織り、粗雑だが頑丈な鎖帷子を着込み、手には身の丈ほどもある戦斧や、重厚な長剣を持っている。
長く伸ばした髭、青い瞳。北の森に住まう狩人のような野性味を帯びた戦士たち。
彼らは一言も発さず、彫像のように静止して、南の方角を睨みつけている。
「……ほう」
レオニダスは感心したように声を漏らした。
「いい構えだ。ペルシアの連中よりも骨が太い。それに、目がいい」
彼らの装備は洗練されていない。スパルタの青銅鎧やローマの板金鎧に比べれば、原始的ですらある。
だが、その立ち姿には、スパルタ兵にも通じる「不動の精神」と、死を友とする覚悟が宿っていた。
その時、南の彼方から、地鳴りのような音が響いてきた。
ドドドドド……。
風に乗って、異国の香辛料と、乾いた砂の匂いが漂ってくる。
そして、地平線を埋め尽くす砂塵。
蹄の音だ。それも、数千、数万という単位の騎馬軍団が、全速力で駆けてくる音だ。
「また馬か」
レオニダスは兜の緒を締め直し、槍の石突で凍った地面を叩いた。
「どうやら神々は、俺たちに『馬止め』の役ばかり押し付けるらしい」
アステリオスがニヤリと笑い、筋肉を誇示するように腕を鳴らした。
「得意分野ですからね。それに、ここの連中とは気が合いそうだ。見ろ、彼らも歩兵だ」
◇◇◇
西暦732年10月。フランク王国、トゥールとポワティエの間。
フランク王国の宮宰、カール・マルテルは、丘の上に陣取り、眼下に広がるイスラム帝国軍の大海を見下ろしていた。
敵は、ウマイヤ朝のアンダルス総督、アブド・アッラフマーン・アル・ガーフィキー率いる征服軍。
イベリア半島を瞬く間に飲み込み、ピレネー山脈を越えて北上してきた、当時世界最強の騎兵軍団である。
彼らは軽く、速く、そして無慈悲だった。
対するフランク軍は、歩兵が主体。機動力では勝負にならない。
「閣下、敵が動きます!」
側近が叫ぶ。
七日間の睨み合いの末、ついにアッラフマーンが動いた。
散兵戦術から一転、中央突破のための密集隊形をとり始めたのだ。
数万の騎兵が、サーベルを掲げ、独特の雄叫びを上げながら坂を駆け上がってくる。
「動くな」
カールは、氷河のように冷徹な声で命じた。
「一歩も引くな。一歩も出るな。我々は壁だ。氷の壁となり、あの熱砂の波を砕くのだ」
カールの戦術は単純にして、実行困難なものだった。
地の利(丘と森)を活かし、密集陣形で敵の突撃を正面から受け止める。
騎兵は、停止した歩兵の堅固な壁を突破することはできない。馬が本能的に衝突を避けるからだ。
だが、それには絶対条件がある。
歩兵全員が「死の恐怖に打ち勝ち、槍衾の前で一歩も動かない」ことだ。
一人でも逃げ出せば、そこから壁は決壊し、虐殺が始まる。
敵の騎兵が迫る。
「アッラー・アクバル(神は偉大なり)!」
大地を揺るがす蹄音。太陽を反射して輝く湾曲刀。
フランク兵たちの間に、緊張が走る。
彼らは勇敢だが、多くは農民上がりの徴募兵だ。この音圧に耐えられるか。
(……神よ、我らに力を)
カールが愛用の大戦斧を握りしめた、その時。
陣形の最前線、最も圧力がかかる中央部に、異変が起きた。
フランク兵たちがどよめき、左右に道を開ける。
そこへ、見たこともない一団が割り込んできたのだ。
真紅のマント。半裸の筋肉。そして巨大な円盾。
寒風吹きすさぶ丘の上に、季節外れの姿をした三百人の男たちが現れた。
彼らは極寒の空気などものともせず、燃えるような体温を発散させていた。
「な、なんだ奴らは!?」
「森の精霊か!?」
フランク兵たちが動揺する。
だが、彼らは無言のまま、フランク軍の最前線に陣取った。
ザッ! という音が揃う。
盾を重ね合わせ、長槍を突き出す。その動作は、機械のように精密で、長年連れ添った夫婦のように息が合っていた。
先頭に立つ男――レオニダスが、カールの方を振り返った。
そして、顎で敵の大軍をしゃくった。
続いて、自分の足元を槍の石突でドンと叩いた。
『ここを一歩も動かん』。
その意志は、言葉の壁を超えてカールに伝わった。
カールは、口元に凶暴な笑みを浮かべた。
どこの誰かは知らん。だが、あの目は「同類」の目だ。
死ぬまで引かぬと決めた、頑固者の目だ。
「いいだろう! その場所は任せたぞ、赤マント!」
ドオオオォォォン!!
激突の瞬間が訪れた。
イスラムの重装騎兵が、トップスピードでフランクとスパルタの混成壁に激突する。
衝撃。
骨が砕ける音。馬の悲鳴。
だが、壁は崩れなかった。
フランク兵は屈強な肉体で盾を支え、スパルタ兵はファランクスの技術で衝撃を分散させた。
「止まったぞ!」
スパルタ兵が叫ぶ。
勢いを止められた騎兵は、ただの「高いところに座っている的」だ。
スパルタの長槍が、馬上の兵士を正確に突き落とす。
落ちた兵士を、フランク兵の戦斧が叩き割る。
「……強い」
レオニダスは、隣で戦うフランク兵を見て感心した。
洗練された技はない。だが、腕力が凄まじい。
鎖帷子ごと敵を両断するそのパワーは、ヘラクレスの末裔を自負するスパルタ兵も舌を巻くほどだ。
「おい、毛皮の大男!」
アステリオスが、隣のフランク兵の背中を盾で小突く。
「盾が下がっているぞ! もっと上げろ! 顔を守れ!」
言葉は通じないが、フランク兵は怒鳴られた意味を理解し、盾を掲げ直した。
「ガハハ! 余計なお世話だ、裸のチビ! 寒くないのかお前らは!」
フランク兵も笑い返し、斧を振るう。
槍と斧。
南の青銅と、北の鋼鉄。
異なる武器、異なる時代、異なる民族。
だが、「馬上の敵を引きずり下ろして殺す」という目的の前では、彼らは完璧な戦友だった。
スパルタ兵が敵の動きを止め、フランク兵がトドメを刺す。
即席とは思えぬ連携が、イスラム軍の前衛を粉砕していく。
戦いは数時間に及んだ。
イスラム軍は何度も波状攻撃を仕掛けたが、その度に「氷の壁」に跳ね返された。
彼らの機動力は、密集した歩兵陣形と、深い森という地形の前では無力だった。
総督アブド・アッラフマーンは焦った。
「なぜだ! なぜあの歩兵どもは崩れない! 恐怖を感じないのか!」
特に中央に陣取る赤いマントの集団は異常だった。
矢を受けても倒れず、馬が体当たりしても微動だにしない。
あれは人間ではない。青銅でできた悪魔だ。
「ええい、私が自ら切り開く! 親衛隊、続け!」
業を煮やしたアッラフマーンは、最強の精鋭部隊を率いて中央突破を図った。
狙うは、フランク軍の旗印、カール・マルテルの首。
猛烈な勢いで突っ込んでくる親衛隊。
だが、その前に立ちはだかったのは、二人の巨漢だった。
巨大なウォーハンマーを構えたカール・マルテル。
血濡れの青銅槍を構えたレオニダス。
「アッラー!」
アッラフマーンのシミターが閃く。
神速の一撃。レオニダスの首を狙う。
だが、レオニダスは半歩も引かず、盾の縁で斬撃を弾き上げた。
カァン!
体勢を崩すアッラフマーン。
その隙を見逃すような、北の英雄ではなかった。
「粉砕!!」
カールの戦槌が唸りを上げた。
横薙ぎの一撃が、アッラフマーンの馬の頭を直撃する。
グシャッ!
頭蓋骨の砕ける音と共に馬が崩れ落ち、総督が地面に放り出される。
そこへ、スパルタ兵たちの槍衾が殺到した。
回避不能。防御不能。
無数の槍が、イスラム軍の総大将を串刺しにした。
「将軍が討たれたぞ!」
「逃げろ! この森は呪われている!」
総大将の死により、イスラム軍はパニックに陥った。
さらに、フランク軍の別動隊が敵の本陣を襲撃し、略奪品を奪い返しているという情報が流れ、戦線は完全に崩壊した。
「追えェッ! 一匹も逃がすな!」
勝利を確信したフランク兵たちが、陣形を崩して追撃に移ろうとする。
だが、カールは大声で制止した。
「待て! 深追いするな! 陣形を崩すな!」
敵は騎兵だ。夜の森での乱戦になれば、また形勢が逆転するかもしれない。
勝った今こそ、規律を守らねばならない。
その命令を、誰よりも忠実に守ったのがスパルタ兵だった。
彼らは背中を見せて逃げる敵に見向きもせず、その場でザッ! と音を立てて整列し直したのだ。
血刀を下げ、乱れた呼吸を整え、再び完璧なファランクスを組む。
その姿を見て、興奮していたフランク兵たちも冷静さを取り戻した。
カールは安堵の息をついた。
「……見事な規律だ。我が軍の手本にしたいほどだな」
夜になった。
イスラム軍は闇に乗じて撤退し、戦場にはフランク軍の勝利の歌が響いていた。
焚き火が焚かれ、冷え切った体を温める兵士たち。
カール・マルテルは、戦場の中央でレオニダスと対峙していた。
カールは、愛用のウォーハンマーを肩に担ぎ、レオニダスに尋ねた。
言葉は通じないが、戦士としての意志は通じている。
「貴殿らは何者だ。傭兵か? それとも、古の戦士の亡霊か?」
レオニダスは兜を脱ぎ、夜風に髪をなびかせた。
その顔には、心地よい疲労感と、満足げな笑みが浮かんでいた。
「ただの通りすがりだ。……お前、いいあだ名を持っているな。『鉄槌』とか」
カールは眉を上げた。
「なぜそれを?」
「見ればわかる。お前の戦い方は、騎士の剣術ではない。鍛冶屋が熱した鉄を叩くような、無骨で、迷いのない打ち方だ」
レオニダスは、カールの槌を指差して笑った。
「敵を『砕く』。いい響きだ。俺たちの槍も、そうありたいものだ」
カールは、無愛想な顔を少しだけ崩し、ニヤリと笑った。
「貴殿らの盾こそ、北海の氷河のごとく硬かった。……名は?」
レオニダスは答えず、北の空を見上げた。
オーロラのような光のカーテンが揺らめいている。
次の戦場への招待状だ。アテナが呼んでいる。
「俺たちはスパルタ。……覚えておく必要はない。俺たちは、ただそこに『在った』だけの壁だ」
光が彼らを包み込む。
フランク兵たちが驚きの声を上げる中、三百人の戦士たちは幻のように消え失せた。
残されたのは、踏み固められた大地と、彼らが倒した大量の敵の死体だけ。
カールは、彼らが消えた空間を見つめ、呟いた。
「スパルタ……か。古の最強国家の名だな」
彼は槌を握り直し、まだ見ぬ未来を見据えた。
「我らも負けてはいられん。このフランクの国を、鉄の壁で守り抜いてみせる」
後にシャルルマーニュ(カール大帝)を輩出し、西欧世界の礎を築くカロリング朝。その始祖となる男の瞳に、新たな決意の火が灯った。
トゥール・ポワティエ間の戦い。
イスラム勢力の西欧侵入を食い止め、キリスト教世界を守ったこの戦いは、歩兵が騎兵を打ち破った金字塔として歴史に残る。
当時の年代記作家イシドールスは、勝者であるフランク軍をこう称えた。
『彼らは微動だにせず、互いに密着し、まるで氷の壁のごとく凍りつき、アラブ人を剣で打ち砕いた』
その「氷の壁」の核に、熱い血潮の流れる青銅の男たちがいたことを知る者は、鉄槌の王ただ一人であった。




