表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/49

第2話:スパルタ×カタラウヌムの戦い 〜神の鞭とローマの盾〜

紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。


 スパルタ王レオニダスは、まどろみの中で、耳に残る轟音を聞いていた。


 ……アウ! アウ! アウ!

 我々の雄叫びか? いや、もっと野太い、一人の男の怒号だった気がする。

 橋の上で、虎のような髭の巨漢と酒を酌み交わしたような……。


 だが、その記憶は朝霧のように急速に薄れていく。

 残っているのは、喉の奥に残る強い酒の熱さと、戦意の高揚だけだ。


「……王よ」

 副官のアステリオスが、槍の柄で地面を叩く音で、レオニダスは覚醒した。


 目を開けると、そこはテルモピュライの岩場ではなかった。

 見渡す限りの大平原だった。


 空は高く、雲が速い。風が草原を波打たせている。

 テルモピュライの熱気はない。ヨーロッパ内陸部特有の、乾燥した冷涼な風だ。


「……また飛んだか」

 レオニダスは身を起こし、マントの埃を払った。


 夢うつつの感覚。だが、体は軽く、筋肉は漲っている。

 目の前には、緩やかな丘陵地帯が広がっていた。

 そして、その丘を挟んで、二つの巨大な軍勢が対峙しているのが見えた。 


「王よ、あれを」

 アステリオスが指差す先、片方の軍勢の旗印を見る。


 黄金のアクィラ

 そして、整然と並ぶ重装歩兵の方陣。


「……ほう」 

 レオニダスは目を細めた。


 どこの国の軍かは知らん。だが、その整列した姿、鉄の規律。

 ただの烏合の衆ではない。自分たちと同じ、厳しい「ノモス」に生きる戦士の匂いがする。


 だが、彼らの装備は、レオニダスが知るギリシャのそれとは違っていた。

 盾は長方形スクトゥムではなく楕円形で、鎧も簡素化されている。


 そして何より、彼らからは「覇気」よりも「悲壮感」が漂っていた。


「追い詰められているな」

 対する敵を見る。


 地平線を黒く染めるほどの騎馬軍団。

 小柄な馬に乗り、奇妙な弓を持った、おぞましい数の蛮族たち。


 彼らが放つ殺気は、かつてのペルシア軍以上に野蛮で、貪欲だった。


「気に入らんな」

 レオニダスは兜を被り直した。


「あの盾持ちたちは知らん顔だが、向こうの馬乗りの連中はもっと知らん。そして、俺は馬と弓だけで戦う卑怯者が大嫌いだ」


西暦451年。ガリア(現在のフランス)、カタラウヌムの野。


 「最後のローマ人」と称される将軍、フラウィウス・アエティウスは、生涯最大の危機に直面していた。


 敵は、フン族の王アッティラ。

 「神の鞭」と恐れられ、ユーラシア大陸を蹂躙してきた破壊の化身である。


 対するローマ軍は、かつての宿敵である西ゴート族、フランク族、ブルグント族などをかき集めた、呉越同舟の連合軍だった。


 総数は互いに五万前後。だが、フン族の騎兵の機動力と、悪魔的な強さは桁違いだった。


「将軍! 中央のアラン族が崩れそうです!」

 伝令が叫ぶ。


 アエティウスの顔色が蒼白になる。

 アッティラの戦術は単純にして残酷だ。戦意の低い中央部隊(アラン族)を狙い撃ちにし、そこを突破口としてローマ軍を分断するつもりだ。


「支えろ! 今ここを抜かれれば、ローマは終わる!」

 アエティウスは叫んだが、戦況は絶望的だった。


 ヒュン、ヒュン、ヒュン!

 独特の風切り音と共に、空が黒く染まる。


 フン族の「複合弓」から放たれる矢だ。動物の腱と骨で作られたその弓は、ローマの弓よりも遥かに強力な貫通力を持っていた。


 ドスッ、ガッ!

 矢がローマ兵の盾を貫き、鎖帷子を突き破る。


「ひぃッ! 盾が役に立たん!」

 兵士たちが次々と倒れ、陣形に穴が開く。


 そして、矢の雨の直後、黒い奔流が押し寄せた。

 アッティラ親衛隊の重装騎兵だ。


 彼らは馬上で槍を振り回し、崩れかけた歩兵の列に突っ込んでくる。

 蹄の音が、死へのカウントダウンのように響く。


「終わりだ……」

 前線の百人隊長が、剣を落として膝をついた。


 防衛線が崩壊する。

 ローマの光が、今日ここで消える。


 誰もがそう思った、その時だった。

 戦場の空気が変わった。


 崩れかけた中央戦線の裂け目に、突如として「赤い染み」が広がったのだ。


 アエティウスは目を疑った。

 逃げ惑うアラン族の兵士たちの間から、整然とした隊列を組んだ一団が現れたのだ。


 数は三百ほど。

 だが、その異様さは群を抜いていた。


 真紅のマント。青銅の兜からはみ出した長髪。そして、半裸の筋肉。

 彼らは、フン族の騎兵が迫る最前線に、散歩でもするかのように割り込んだ。


「……古代の彫像が歩いているのか?」

 アエティウスは呆然と呟いた。


 彼らの装備は、数百年、いや千年近く前のギリシャ様式だ。博物館の中にしかないはずの「重装歩兵ホプリタイ」が、生きた肉体を持ってそこにいた。


 先頭に立つ巨漢――レオニダスが、崩れかけたローマ軍の陣地に足を踏み入れた。

 彼は、腰を抜かしているローマ兵のクリペウスを拾い上げ、コンコンと叩いた。


「木枠に革か。軽いな」

 そして、鼻で笑って投げ捨てた。


「こんな板切れで、あの蛮族の突撃を防ぐつもりか? 紙で火を防ぐようなものだぞ」

 言葉はラテン語ではない。だが、その仕草には明白な侮蔑と、それ以上の自負が含まれていた。


 レオニダスは、自分の円盾を掲げた。

 分厚い青銅と、幾重にも重ねられた革と木材。

 表面には無数の傷が刻まれているが、それは歴戦の勲章であり、決して砕けぬという証明でもあった。


「どいていろ、ひ弱な盾持ちたちよ」

 レオニダスは、ローマ兵たちを後ろへ追いやった。


「盾というのは、こうやって使うのだ」

 彼は槍を振り上げ、部下たちに号令をかけた。


 「ファランクス(密集陣形)! 壁を作れ!」

 ザッ!

 三百の盾が隙間なく噛み合い、一枚の巨大な青銅の壁が出現した。

 それは、崩壊寸前のローマ軍中央に打ち込まれた、決して砕けぬくさびだった。


 フン族の王アッティラは、突撃の最中で眉をひそめた。

 目の前の敵が、急に「硬く」なった気配を感じたからだ。逃げ腰だった歩兵たちが消え、代わりに赤色の壁が立ちはだかっている。


「構わん! 踏み潰せ!」

 アッティラが鞭を振るう。


 数千のフン族騎兵が、咆哮と共にスパルタの陣列へ突っ込む。

 馬の質量と速度。それが槍の穂先となって一点に集中する。


 ドォォォォン!!

 大地が揺れるほどの衝撃音。


 だが、スパルタの壁は揺るがなかった。

 彼らは地面に踵を食い込ませ、隣の兵と肩を組み、全身の筋肉をバネにして衝撃を殺したのだ。

 馬の首が折れ、乗り手が放り出される。


「なっ……!?」

 アッティラは驚愕した。


 止まった。

 天下無敵のフン族の突撃が、たった三百人の歩兵に止められたのだ。 


「突き!」

 レオニダスの号令。


 盾の隙間から、三百本の長槍ドリュが一斉に繰り出される。

 それは正確無比な死のピストン運動だった。 


 落馬したフン族の兵士、いななく馬の心臓。的確に急所を穿ち、生命を刈り取る。

 スパルタ兵の戦い方は、ローマ軍のそれとは違っていた。


 ローマ軍団は、投槍ピルムを投げてから短剣グラディウスで接近戦を行う。

 だが、スパルタ兵は「間合い」を支配していた。


 長槍で騎兵を寄せ付けず、懐に入り込んだ敵には、盾のリムでの殴打と、逆手に持った短剣で対処する。


「引くな(オティスモス)! 押し返せ!」

 スパルタ兵が一歩踏み出す。


 じり、じり、と、騎馬の大軍が押し戻されていく。

 ローマ兵たちは、その光景を呆然と見ていた。


 「嘘だろ……騎兵を歩兵が押し返している……」

 アエティウスは、震える手で剣を握り直した。


 これは奇跡だ。神が遣わした軍神マルスの軍団だ。

 この勝機を逃してはならない。


「全軍、反撃せよ! あの赤マントに続け!」

 ローマ軍の予備隊が、息を吹き返して突撃を開始する。


 一方、右翼では別の悲劇と激戦が起きていた。

 ローマの同盟軍、西ゴート族の王テオドリック一世が、乱戦の中で落馬し、戦死したのだ。


 老王の死。

 普通ならば軍が崩壊する瞬間だ。


 だが、息子のトリスムンドが叫んだ。「父の死を無駄にするな! 弔い合戦だ!」

 西ゴート軍が、復讐の鬼となってフン族の側面を食い破る。


 レオニダスは、その光景を横目で見ていた。

 老いた王が、最期まで剣を振るって散っていった姿。


 「……悪くない死に様だ」

 彼はニヤリと笑った。

 ここの連中、装備は貧弱だが、魂は腐っていない。


「行くぞ、野郎ども! あの老王のために、死出の土産を持たせてやれ!」

 「ウー! ハー!」

 スパルタ兵の気迫が最高潮に達する。


 戦場の中心で、レオニダスは笑っていた。

 飛んでくる矢を盾で弾き、斬りかかる蛮族を槍で突き伏せる。


「どうした、『神の鞭』とやらは! 痛くも痒くもないぞ!」

 アステリオスが隣で叫ぶ。


「王よ、奴ら馬の扱いは上手いが、接近戦は素人です! ペルシア人の方がまだ根性がありました!」

「ああ。馬から降りればただの小男だ。叩き潰せ!」

 スパルタ兵は、フン族の得意とする機動戦に付き合わなかった。


 ただ一点、戦場のヘソに居座り、そこに来る敵をひたすらミンチにする。

 アッティラにとって、これほど相性の悪い敵はいなかった。


 激闘は日没まで続き、夜になっても止まなかった。

 暗闇の中、叫び声と金属音だけが響く乱戦。

 だが、夜が明ける頃には、勝敗は決していた。


 フン族の死体が山のように積み上がり、アッティラはついに撤退を決断した。

 「神の鞭」が、初めて決定的な敗北を喫した瞬間だった。


朝霧が立ち込める草原。

 ローマ軍と西ゴート軍の勝鬨かちどきが上がる中、レオニダスたちは静かに血振るいをしていた。


 彼らの足元には、数え切れないほどのフン族の死体が転がっている。盾は矢だらけで、まるで針鼠のようだ。

 アエティウスが、馬を降りて歩み寄ってきた。


 彼は「最後のローマ人」と呼ばれる英雄だが、この時ばかりは、目の前の異邦人に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。


「……感謝する」


「貴公らは何者だ? どこの部族だ? その戦いぶり、古の記録にある重装歩兵ホプリタイそのものだが」

 レオニダスは、言葉の意味を正確には理解できなかったが、相手が礼を言っていること、そして自分たちに興味を持っていることは分かった。


 彼はニヤリと笑い、アエティウスの胸当てをコツンと叩いた。

「兵隊さんよ。お前たちの盾は軽すぎる」

 身振り手振りで伝える。


「国を守りたければ、もっと重い盾を持て。そして、足を止めて踏ん張ることだ」

 アエティウスは苦笑した。


 痛いところを突かれた。今のローマ軍は機動力を重視するあまり、かつての重厚な歩兵戦術を失っていたからだ。


「肝に銘じよう。……名は?」

 レオニダスは答えなかった。


 ただ、西の空を指差した。

 太陽が昇り始め、朝霧が彼らを包み込もうとしている。

 アテナの迎えだ。


「達者でな、盾持ちたちよ。次は敵として会わんことを祈る」

 スパルタ兵たちが、霧の中へと歩き出した。


 その背中は、歴史の重みを背負った者のように大きく、そして孤独だった。

 アエティウスは、彼らの姿が完全に見えなくなるまで、敬礼を崩さなかった。


カタラウヌムの戦い。


 西洋世界をフン族の恐怖から救ったこの戦いにおいて、勝敗を分けたのは中央戦線の異常な粘りであったと記録されている。


 歴史家たちは、「アラン族の予想外の奮闘」と記述したが、一部の伝承にはこう記されている。


 『中央には、赤きマントの巨人が立ち、鉄の壁となって蛮族を砕いた。彼らはローマの祖霊であったのかもしれない』と。

 翌朝、アエティウスは陣地で、奇妙なものを発見した。


 それは、青銅の槍の穂先だった。

 その鋭さは、ローマの鋼鉄すら凌駕していたという。




 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ