第1話:スパルタ×大坂の陣 〜兵どもが夢の跡〜
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紀元前四八〇年。ギリシャ、テルモピュライ。
その場所は「熱き門」の名に相応しく、灼熱と死臭に支配されていた。
スパルタの王レオニダスは、青銅の円盾に付着したペルシア兵の血を、無造作に拭い取った。
眼下には、既に数千の死体が転がっている。だが、地平線を埋め尽くすクセルクセスの大軍勢からすれば、それは砂浜の砂粒を数個減らしたに過ぎない。
だが、スパルタ王の心に絶望は微塵もなかった。あるのは、心地よい徒労感と、これから訪れる永遠の静寂への予感だけだ。
「王よ」
副官が兜の煤を払いながら近づいてくる。
「ペルシアの斥候が見えました。次は『不死隊』が出てくるようです」
「そうか」
レオニダスは口元の髭を撫でた。
「不死隊とは大きく出たものだ。首を切り落としても死なんのか、それとも死ぬまで悲鳴を上げんのか。試してやろう」
兵士たちの間に、乾いた笑いが広がる。
彼らはスパルタの選ばれし三百人。生きて帰ることを想定していない、死に場所を求めて集った狼たちだ。
その時、異変が起きた。
太陽が、不自然なほど強く輝き出したのだ。
エーゲ海からの海風が止み、大気が飴細工のようにねじ切れ、視界が揺らぎ始める。
蜃気楼か?いや、違う。
足元の岩盤が消失し、代わりに赤茶けた乾いた土の感触が伝わってくる。
「……総員、盾を構えろ」
レオニダスの低い声が、異常事態を切り裂いた。
光が弾け、世界が反転する。
次の瞬間、彼らが立っていたのは、狭い海岸線ではなかった。
広大な平原だった。
湿度の高い、脂っこい風。耳をつんざくような轟音と、聞き取れない言語の怒号。
そこは、明らかにギリシャではない。
「王よ、あれを!」
兵士の一人が前方を指差す。
土煙の向こうから、赤い津波のような騎馬軍団が、猛烈な速度で突っ込んできていた。
鎧も、馬飾りも、槍の穂先さえも、すべてが朱色。
その先頭には、鹿の角のような飾りをつけた鬼神の如き男がいる。
レオニダスは目を細め、その光景を冷静に分析した。
「派手な連中だ。クセルクセスめ、東方の騎馬民族まで金で雇ったか」
彼にとって、相手が誰であろうと関係はない。
王の前に立ちふさがる者、あるいは王に向かってくる者は、すべからく敵である。
「いい速度だ。だが、挨拶がなっていないな」
レオニダスは槍を石突きで地面に叩きつけ、腹の底から声を張り上げた。
「ここを通行したくば、通行料を置いていけ! スパルタ人、方陣を組めェッ!」
ザッ! という音が一つに重なる。
三百枚の盾が隙間なく噛み合い、呼吸する巨大な城壁が出現した。
◇◇◇
一方、慶長二十年五月七日。大坂、天王寺。
正午の太陽が、地獄の窯の蓋を開けたように大地を灼き焦がしていた。
土煙と硝煙、そして濃厚な血の匂いが入り混じる戦場で、真田左衛門佐信繁――幸村は、愛馬・白河原毛の腹を蹴った。
「狙うは家康の首ただ一つ! かかれェェッ!」
裂帛の気合いと共に、真田の赤備えが奔る。
その勢いは、まさに赤い稲妻だった。松平忠直の軍勢を一撃で粉砕し、幾重にも張り巡らされた徳川の防衛線を、紙を裂くように食い破っていく。
死兵と化した真田勢の狂気じみた突撃に、敵兵は恐怖し、海が割れるように道を開けた。
見えた。
土煙の向こう、遥か彼方に煌めく金色の扇。徳川家康の馬印だ。
あと少し。あと数町駆け抜ければ、天下人の喉元に槍が届く。
「逃がさぬぞ、古狸……!」
幸村が勝利を確信し、さらに速度を上げようとした、その時だった。
不意に、戦場の音が遠のいた。
真夏の陽炎のように空間が歪み、景色がぶれた。
家康の本陣があるはずの丘が、揺らぎの中に溶け――その代わりに、荒涼とした赤茶色の岩場が出現した。
そして、そこには金扇の馬印ではなく、異様な「壁」が立ちはだかっていた。
「な……!?」
幸村は手綱を強く引き、急制動をかけた。
眼前に現れたのは、数百人の歩兵の集団だった。だが、日ノ本の足軽ではない。
異様だった。纏っているのは血染めの如き赤布と、陽光を弾く黄金色の兜のみ。胴には鎧ひとつ着けず、剥き出しの肉体が、鋼鉄の甲冑よりも硬質に波打っている。人間というよりは、青銅と筋肉で鋳造された彫像が、呼吸し、殺意を放っているようだった。
何より異質なのは、彼らが構える巨大な円盾だった。
人間一人をすっぽりと隠すほどの巨大な盾が、隙間なく鱗のように並べられ、そこから無数の長槍が突き出している。
それは軍隊というより、青銅と筋肉でできた「動く城塞」だった。
「南蛮の……傭兵か!?」
幸村は歯噛みした。
家康め、最後の最後でこのような隠し玉を用意していたとは。
言葉は通じぬ異国の兵であろうと、あの威圧感は只者ではない。一糸乱れぬ隊列は、まるで一つの生き物のようだ。
だが、止まるわけにはいかない。
ここで止まれば、真田の武名は地に堕ち、豊臣の命運も尽きる。
敵が何者であろうと、突き崩し、踏み潰すのみ。
「ええい、邪魔だ! 蹴散らせェッ!」
幸村は采配を振り下ろした。
真田の騎馬隊は、咆哮と共にその謎の歩兵集団へ向けて、全速力で突っ込んだ。
ドォォォォォン!
肉と金属、そして質量と意地が正面衝突した轟音が、大坂の空気を震わせた。
幸村の目の前で、信じられない光景が展開された。
先頭を駆けていた騎馬武者たちが、まるで岩盤に衝突したかのように、弾き返されたのだ。
「なに……ッ!?」
吹き飛んだのは、歩兵ではなく騎馬の方だった。
激突の瞬間、スパルタ兵たちは一斉に姿勢を低くし、大地に根を張る巨木の如く足を踏ん張った。数百の円盾が少しもずれることなく連結し、馬の質量を点ではなく「面」で受け止める。
骨が砕けるような轟音と共に、真田の騎馬が空中で停止したかのようにひしゃげ、自らの速度に殺されて跳ね飛ばされた。
「押し返せ!」
レオニダスの号令が飛ぶ。
スパルタ兵たちが一斉に呼気を吐き、盾を前へと突き出した。
ジリ、と赤い騎馬の波が押し戻される。
落馬した真田の兵たちが、即座に刀を抜いて斬りかかってくるが、スパルタ兵はそれを冷徹に処理していく。盾の縁で顎を砕き、隙間から槍かっこを突き入れる。無駄のない殺戮作業。
「馬鹿な……! 人の身で、騎馬の突撃を受け止めたというのか!?」
幸村は戦慄した。
大坂城の石垣ですら、これほど絶望的な「硬さ」は感じさせなかった。
馬では無理だ。この壁を崩すには、一点突破しかない。
「ええい、邪魔だ! 俺がこじ開ける!」
幸村は白河原毛から飛び降りた。
彼は十文字槍を構え、乱戦の中を疾走した。
「そこをどけェェッ!」
幸村の咆哮と共に繰り出された一撃が、スパルタ兵の盾を大きく弾いた。
人間離れした膂力と技量。
崩れた陣形の隙間に、幸村が躍り込む。
次々と突き出されるスパルタの槍を、彼は紙一重で躱し、あるいは十文字の鎌で払い落とした。
その只中に、一際巨大な男が立っていた。
真紅のマント。兜には横向きの鶏冠。
武器も構えず、ただ腕を組んで立っている。
「貴様、何奴だ!」
幸村は槍を突きつけ、叫んだ。
「徳川の手の者か?それとも異国の将か?その面構え、只者ではないな!」
レオニダスは、目の前の「赤鬼」を見下ろした。
言葉は通じない。だが、その殺気と、ここまで切り込んできた武勇は本物だ。
レオニダスは円盾を地面に突き立て、ニヤリと笑った。
「ここは通さん」
重厚なギリシャ語が響く。
幸村は苛立ちを募らせた。
「問答無用か! 俺の狙いは、貴様の後ろにいる古狸……徳川家康の首ただ一つ! そこをどけ!」
身振り手振りと、指差した蜃気楼の先にある本陣。そして「首」を求める仕草。
レオニダスは眉をひそめた。
後ろへ通り抜け、誰かの首を求めているのか。
ペルシアの犬め。よほどスパルタの土地が欲しいらしい。レオニダスは自身の胸を親指で指し、傲然と言い放った。
「後ろには何もない。あるのは俺の祖国と、自由民の誇りだけだ」
そして、王としての名乗りを上げる。
「貴様が求めているのが『支配者』の首ならば、探す手間が省けたな。――俺がスパルタの王、レオニダスだ」
幸村はハッとした。
言葉はわからない。だが、男が己を指差し、堂々と何かを宣言した気迫は伝わってきた。
その風格。王者の如き威圧感。
一介の兵卒ではない。間違いなく、この軍団を統べる「将」の器だ。
幸村の脳内で、戦況の分析が走る。
(家康め……やはり本陣は既に退いたか)
古狸と恐れられる家康が、真田の突撃を前に、ここまで無防備に姿を晒しているはずがない。
ならば、目の前のこの異様な軍団は何だ?
答えは一つ。――「殿」だ。
家康は南蛮の金に物を言わせて、最強の傭兵団を雇い入れたのだ。そして、彼らをこの天王寺口に捨て置き、自らが逃げるための「蓋」とした。
幸村は、目の前の赤マントの巨漢を見上げた。
この男も、それを分かっているはずだ。自分が主君の盾として使い潰される運命にあることを。
だというのに、この男の目に「やらされている」ごとき悲壮感はない。あるのは、自らの意志でここに立っているという、高潔な戦士の誇りだけだ。
「……そうか。貴様、その身を犠牲に主を守るか」
幸村の瞳に、深い敬意の炎が宿った。
金で雇われただけの傭兵ではない。これは、命のやり取りを知る「武士」の魂だ。異国の民といえど、その覚悟、見過ごすわけにはいかない。
「あっぱれなり!」
幸村は叫んだ。
「雇い主のために命を捨てるその忠義、真田左衛門佐信繁、しかと受け取った! ならば礼儀は一つ!」
レオニダスは首を傾げた。
敵が突然、感極まったような顔をして叫んでいる。降伏勧告か?
いや、違う。気迫が倍増した。純粋な闘志だ。
レオニダスは口元を緩めた。俺の首が欲しいなら、力ずくで奪ってみろと言っているのだな。
「全力で、貴様を殺して通る!」
幸村の体が沈み込む。
「モローン・ラベ(来たりて取れ)!」
レオニダスもまた、盾を構えた。
刹那、幸村は紅い雷と化した。
十文字槍の神速の突き。
ガギィィィン!
火花が散る。
一突き目が盾に弾かれた反動を利用し、回転しながら二突き、三突き。驟雨の如き連撃。
力任せではない。盾の隙間、筋肉の継ぎ目、視界の死角を正確に狙ってくる。
「そこだァ!」
幸村が跳躍した。
盾の上縁を足場に蹴り、レオニダスの頭上へ。義経の八艘飛びの如く、空から兜の頂点を狙う。
だが、レオニダスは空を見上げず、戦士の直感だけで短槍を上空へ突き出した。
相打ち覚悟のカウンター。
キィン!
鋭い金属音が空中で交差し、幸村は後方へと宙返りして着地した。
幸村の頬には、槍が掠めた一筋の血。
レオニダスの兜には、鍬形を切り裂かれた深い傷。
砂塵が舞う中、二人の男は対峙したまま動かなかった。
周囲の兵たちも、その気迫に飲まれ、槍を出すことができない。
「……はは」
幸村が口元の血を拭い、獰猛に笑った。
「硬いな。家康の守りは、大坂城の石垣より硬いとみえる」
「……フン」
レオニダスもまた、愉快そうに鼻を鳴らした。
「ペルシアの不死隊よりも、死ぬ気で掛かってくるとはな。気に入ったぞ、赤鬼」
言葉は通じない。
誤解は解けない。
だが、互いに「こいつは最高に手強い」という一点のみで、魂が共鳴していた。
その時だった。
再び空間が揺らぎ始めた。
赤茶色の荒野が薄れ、元の天王寺の丘が透けて見えてくる。
風に乗って、「大御所様を守れ!」「真田を討て!」という徳川勢の怒号が聞こえ始めた。
レオニダスは、背後の「歪み」が消えていくのを感じた。
どうやら、神々の悪戯は終わりのようだ。
彼は槍を収め、幸村に背を向けた。そして、道を開けるように一歩横へ退いた。
「行け、赤鬼。貴様の獲物は、俺ではなかったようだ」
幸村は目を見開いた。
影が道を譲った? いや、違う。
蜃気楼が晴れ、その向こうに、慌てふためく本物の徳川本陣が見えたのだ。
この男は、役目を終えたのか。あるいは、俺の覚悟を認めて通したのか。
幸村は槍を掲げ、一礼した。
「かたじけない! 貴殿の名、あの世へ行っても忘れぬぞ!」
レオニダスは何も答えず、ただ背中で手を振った。
霧が晴れるように、スパルタの三百人が消えていく。
最後に残った残響のような熱気。
「……行くぞォォォッ!」
幸村は吼えた。
あの鉄壁の盾に比べれば、徳川の旗本など、豆腐の如し。
真田幸村は再び駆け出した。
日ノ本一の兵としての最期の輝きを、歴史に刻みつけるために。
大坂夏の陣。
「日本一の兵」と称えられた真田幸村の突撃は、徳川家康を自害寸前まで追い詰めながらも、あと一歩及ばず散った。
だが、徳川方の史料『駿府記』の異本には、この日の戦いについて不可解な記述が残されている。
『真田の赤備えの前に、突如として南蛮の鬼神のごとき巨人が立ちはだかり、激しく槍を交えた』と。
そして現代。
激戦の地であった茶臼山の古戦場跡からは、折れた日本刀の破片と共に、当時の日本では使用していなかった純度の「青銅の円盤」の欠片が出土している。
その歪んだ金属片は、まるで何か重い衝撃を真正面から受け止めたかのように、ひしゃげていたという。
東西の最強たる「赤」が激突した瞬間の熱量は、四百年の時を超えてなお、大阪の地深くに静かに眠っている。
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