水野辺
この話は、私が中学生になり、夏休み期間を利用して祖母の家でしばらく過ごした時のことです。
私の祖母の家から十数メートル離れたところには、注連縄が何本も張られた倉庫が建っています。周りをアスファルトで囲まれた倉庫の扉は厳重に鍵がかけらていて、幼い頃から私は、祖母に「絶対にあの倉庫には近付いちゃいけないよ。用も無いのにあの中に入ったら、死んだ人が行く国へ連れて行かれてしまうからね」と言われて育ちました。
そんなある日、その倉庫の鍵が錆びて壊れ、アスファルトの上へ落ちていました。しかも、鍵が壊れたことで観音開きの扉が僅かに開き、昏い内部が見えていたのです。
ちょっと中を見てみるくらいなら……膨れ上がる好奇心を抑えられ無かった私は、祖母の言いつけを破って倉庫に近付いてしまいした。
そして、あろうことか扉を開いて倉庫の内部へと入ってしまったのです。
……ですが、期待に胸を膨らませた私の目に飛び込んできたのは、地下へと続く大きな石造りの階段だけでした。窓一つ無く、扉から差し込む太陽の光に照らされたその階段は、大人が横向きに寝てもまだ少し余裕があり、暗闇へと続くその先からは轟々と水の流れる音が響いていました。
私は、階段があるだけのその光景に拍子抜けしつつも、数段下へと降りて階段の先に目を凝らしました。
その時です。青白い手のようなものが、ゆらゆらと手招くように揺れたのです。同時に祖母の言葉が私の脳裏をよぎり、途端に怖くなった私は慌てて倉庫の外へ引き返し、すぐに扉を閉めて祖母の家へと帰りました。
その日の夜。不可解な出来事が立て続けに起きました。右に置いたはずのものが左に移動していたり、誰か居たと思ったら誰もいなかったり。お風呂では、排水溝の奥から轟々と水の流れる音が聞こえたりもしたのです。怖くなった私は、さっさと寝てしまおうと髪を乾かすのも早々に布団へ潜り込みました。
深夜、いつの間にか寝ていた私は、寝返りを打てないことに気付いて目を覚ましました。
あれ? おかしいな……。
そう思ったとき、私の頬にぽたりと水滴が落ちてきました。思わずびっくりして目を開けると、横向きに寝た私の視界に、青白い手と長い髪の毛が飛び込んできたのです。まるで顔を近づけるように長い髪がゆっくりと降りてきて、さらに何滴もの水滴が私の顔に落ちてきました。
すると突然、耳元で「おいで……」と何度も繰り替えす声が聞こえたのです。
あまりの恐怖に私は悲鳴を上げることも出来ず、ただただ必死で目を閉じました。目を閉じながら、約束を破ったからよくないものが来てしまったんだ。約束を破ってごめんなさい。早く帰って下さいとずっと念じていました。
次の日の朝。ぐっしょりと濡れた私の枕を見た祖母は、「怖い思いをしたみたいだね。絶対近付いちゃダメだって言ったでしょう」と、安堵した声で私を優しく窘めると、私の頭を撫でながら、あの倉庫のある場所は、大昔、死者を地下水脈へと流して水葬する為に作られた「水野辺」と呼ばれる場所だったということを私に教えてくれたのです。
その夜、祖母は私の髪を一房巻いた「形代」と呼ばれるものを仏壇に置くように言いました。
言われたとおりにすると次の日の朝、ぐっしょりと濡れた仏壇の前にはボロボロになった形代だけが残り、私の髪は姿を消していました。
それ以来、不可解な出来事は起きなくなりましたが、今でも鍵のかかった倉庫を見ると、あの日の夜のことを思い出して胸が締め付けられます。