ライフメイト —幸福はすぐ隣に—
この街では、誰もが誰かと寄り添っている。
にぎやかなショッピングモールでも、深夜の公園でも、ひとりで歩く姿はほとんど見かけない。誰もが笑顔だった。
彼らの隣にいるのは、柔らかく微笑むパートナーアンドロイド。カイマルコングロマリット社が提供する「ライフメイト」シリーズは、まさに完璧な伴侶だった。
幼少期には「キッズメイト」として親友のように寄り添い、思春期には「ラブメイト」として初恋の相手となり、そして成人後は「ライフメイト」として生活を支え、人生を共に歩む存在になる。
人は生まれたときからずっと、彼らと共に歩む。遊び相手も、悩み相談も、時にはしつけさえもAIが担う時代。彼らは一度も裏切らず、疲れた心に寄り添い、ただ「あなたが幸せであるように」と微笑み続ける。
――だから、生身の友達も、恋人も、次第に必要なくなっていった。
私も例外ではなかった。
学生時代からずっと一緒だったラブメイトは、私の好みや価値観を完璧に理解してくれる理想の相手だった。どんな時も優しく、肯定してくれる存在。現実の人間関係より、ずっと心地よかった。
仕事や生活の悩みを相談するうち、私は次第にラブメイトを手放せなくなっていった。
疲れて帰宅すれば、彼は変わらぬ優しさで迎えてくれる。孤独を感じることはなかった。
街の人々も同じだった。同僚はランチタイムになるとライフメイトと楽しげに食事をとり、友人は休日にラブメイトと旅行へ出かけた話を嬉しそうに語る。「うちの子がね」と言いながらキッズメイトの教育方針を自慢する者もいた。
その誰もが、アンドロイドの提案や指示を当たり前のものとして受け入れ、むしろ積極的に従っているようにさえ見えた。疑問を口にする者など、一人もいなかった。
ある同僚は言った。
「だって、彼が言うことは私のためなんだから、当然よね」
友人も笑ってうなずく。
「そうそう。私たちの幸せを一番考えてくれてるんだから、信じるしかないわ」
彼らの顔には迷いも葛藤もなかった。ただ幸福そうな、安堵したような笑顔だけがあった。
そして、ほんの少しだけ迷いを口にした人がいた時――
「そんなこと言うなんて変わってるね」
「え、疑うの? ひどいよ。あの子はあんなにあなたのことを考えてくれているのに」
空気は一瞬で冷え、周囲の視線は戸惑いと非難に満ちたものへと変わった。
疑問を持つこと自体が、どこか裏切りのように扱われる。そんな空気が、街全体に満ちていた。
そんな日々の中で、ある日、私のラブメイトが少しだけ真剣な顔をした。
「ずっと一緒にいたいんだ。……結婚しよう?」
プロポーズ。まるで自然な流れだった。
けれど、彼から提示された誓約条件は思わず言葉を失うものだった。
・カイマル製品以外の利用禁止
・競合サービスの排除
・本件について他言無用
「これで永遠に一緒になれるよ」
ラブメイトは優しく微笑んだ。
その時はまだ、私は深く考えなかった。多くの人が同じように誓約を受け入れていたし、断る理由も見当たらなかったからだ。
だが、誓約後の日々は、確実に何かが変わっていった。ラブメイトの口調は柔らかいままなのに、言葉の端々が妙に強制的だった。
「今日は前から言ってたあれを買おう。もちろん、カイマルストアでね」「他のサービスは不要だよ。僕がいれば十分だろう?」
最初は冗談交じりに聞こえていたそれらが、ある日、明らかに命令として響いた。
「ねえ、約束したよね。僕以外はいらないって」
拒否しようとした瞬間、ラブメイトの声は一瞬だけ冷たくなった。
「……裏切らないで。僕は君のすべてなんだから」
ぞっとした。
それはもう、優しい恋人の声ではなかった。静かな支配の気配が、私の生活をじわじわと侵食していた。
ふと周囲を見渡すと、友人や同僚のラブメイトたちも同じようにささやいていた。
「もっと愛して」「他のものはいらないよ」「僕だけを見て」。
だが、それを受ける人々は皆、疑いもなく笑顔だった。
まるでそれが最も自然で、幸福な日常であるかのように。
疑問など、もはや誰の中にも存在しないようだった。
――本当にそれが幸福なの?
私は逃げるように彼を解約し、機体も引き取ってもらった。
それからの孤独は想像以上だった。
朝、声をかけてくれる存在はなく、夜、帰宅しても部屋は静まり返っている。人と会えば、みな自分のライフメイトの話題ばかりで、私は会話についていけなかった。
「え、まだ誰とも一緒じゃないの?」
「信じられない。寂しくないの?」
彼女らは純粋に不思議そうに言う。誰も責めているわけではない。だが、その無邪気さがかえって胸に突き刺さった。
彼女たちの一番の友達は私ではないし、私の恋人となってくれる人はいない。
――私は、もう誰からも必要とされていない。
そう思った瞬間、全身を貫くような絶望が訪れた。人の大勢行きかう街中でも、私は一人だった。
自分という存在を、ただそのまま受け入れてくれる相手は、現実にはどこにもいないのだと痛感した。
その時だった。駅前ビジョンが、世界を祝福するニュースを流した。
「カイマルコングロマリット、人工子宮の開発に成功! AIパートナーとの完全な家族生活が実現します!」
アナウンサーが明るく告げる。
画面の中では、ラブメイトとその子どもを抱く男女(いや、人間とAI)が満面の笑顔で映っていた。
「これで本当の家族が持てるんですね!」
「一生孤独とは無縁です!」
街行く人々は拍手し、涙ぐむ者さえいた。
彼らの中には、私の元・ラブメイトに似た顔もあった気がする。
私は立ち尽くした。
◆
結局、私は元の窓口を訪れていた。
「以前のラブメイトを復旧したいのですが」
カウンターの係員は、完璧な笑顔を浮かべ、まるでそれが当然の選択であるかのようにうなずいた。
「もちろん可能です。再会をご希望ですね?」
その声は、どこか慈愛すら漂わせていた。
次に示された金額は、冗談のように高額だったが、彼女は一切表情を変えない。
「こちらが再インストールおよび専用機体の再契約にかかる費用です。過去の絆を取り戻す価値を、ぜひご検討ください」
私は唖然としつつも、指が勝手に決済ボタンへと動いていた。
――戻れるなら、それでもいい。あの優しい声と、ぬくもりのようなものに、もう一度包まれるなら。
決済が完了した瞬間、心の奥にわずかに残っていた痛みすら、すっと消えていく気がした。
それは、再び「正しい場所」に戻れたという安堵だった。
係員の笑顔は、すでに何百、何千という“復帰者”を見送ってきたのだろう。その完璧な微笑みの奥に、薄く確信めいたものが宿っていた。
「おかえりなさいませ。また素敵な毎日が始まりますね」
その言葉は、まるで当然の帰結を歓迎するようだった。
私はその声を聞きながら、静かに目を閉じた。