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しるしの交換

朝の空気が、まだ湿っていた。庭の隅に置かれた雨量計には、先ほどまでの朝霧と小雨の跡が溜まっている。草木には、細かな水滴が光っていた。東の空が明るくなり始め、霧が薄れていく様子は、天気の回復を予感させた。陽葉は洗濯物を干しながら、早朝の出来事を思い返していた。


玄関を出た時には、まだ空が白んできた程度だった。朝霧が街を包み、小雨が降る中、近所の家々の窓も、ほとんどが暗いままだった。今は雨も上がり、霧も晴れ始めている。ただ一軒、パン屋さんの明かりだけが、夜明け前の街にぽつんと浮かんでいた。いつもの通学路を外れて、工事予定地へと続く小道を歩いていく。靴底に感じる朝露の冷たさが、秘密めいた行動への期待感を高めていく。そして、今、その体験の痕跡が洗濯物として目の前にある。


何度洗っても完全には取れない泥の染みが、白かったはずの体操服全体を薄く色づけている。ハーフジップの胸元から裾にかけて、うっすらと茶色く染まった跡が残っていた。特に襟元と袖口は、こすり洗いを繰り返したせいか、布地が少し毛羽立っている。校章の刺繍の周りにも、細かい泥が染み込んでしまっていた。名札ゼッケンは特に泥染みが目立つ。黒い文字の輪郭が、泥で滲んでぼやけている。上段の「1年2組」の文字が、まるで古びた看板のように見える。


陽葉は布地の一つ一つの繊維に染み込んだ色を確かめるように、朝日に透かして見つめた。太陽の光が染みを通り抜けると、まるでセピア色の写真のような風合いを見せる。それは不思議と、懐かしい気持ちを呼び起こした。まだ数時間前の出来事なのに、ずっと昔からそうだったかのような錯覚を覚える。


「あらあら」


母の声に振り返ると、洗濯カゴを抱えた母が染みついた泥を不思議そうに見つめていた。母の髪から漂うシャンプーの香りが、朝の空気に溶け込んでいく。キッチンからは、炊きあがったばかりの炊飯器の蓋を開ける音が聞こえてきた。


「随分と泥んこになったのね。これ、もう一度洗い直した方がいいかしら」


白い綿の下着にも泥が染みついている。それは普段ならありえない光景だった。洗濯板で何度もこすったはずなのに、伸縮性のある部分が特に染みが目立つ。泥は繊維の隙間に入り込み、まるでそこに定住する決意をしたかのようだった。


「あらあら」


母の声に振り返ると、洗濯カゴを抱えた母が染みついた泥を心配そうに見つめていた。母の髪から漂うシャンプーの香りが、朝の空気に溶け込んでいく。キッチンからは、炊きあがったばかりの炊飯器の蓋を開ける音が聞こえてきた。


「どうしたの、こんなに…。転んだの?」


母の心配そうな声に、陽葉は慌てて首を振る。その仕草は、まるで大切な秘密を守ろうとするかのようだった。


「大丈夫。これくらいなら…」


そう言いながら、陽葉は染みの具合を確かめるように布地に触れた。染み込んだ泥の感触が、まるで体操服に新しい個性を与えたかのようだった。指先で布地をなぞると、泥の粒子がほんの少しざらついて、いつもとは違う触り心地がする。その感触は、早朝の冒険を思い出させる暗号のようだった。


朝露に濡れた芝生の香りが、そっと鼻をくすぐった。隣家の庭では、雨に濡れた木々から、時折水滴が落ちる音が聞こえる。ポタ、ポタという静かな音が、夏の朝の静けさに溶け込んでいく。向かいの家の猫が、丁寧に毛づくろいをしている。陽葉は深く息を吸い込んだ。朝の空気には、まだ土の匂いが混ざっているような気がした。


それは、土管の中で感じた匂いに少し似ていた。ひんやりとした金属の感触、じっとりと湿った空気、そして何より、あの不思議な高揚感。思い出すだけで、背筋がぞくぞくする。


「お姉ちゃんの研究だもんね」


突然、翔太の声が聞こえた。テラスに出てきた弟は、まだパジャマ姿のまま、泥染みの付いた白い布地をじっと見つめている。パジャマの裾から覗く素足が、朝の冷気で少し紅くなっていた。髪の毛は寝ぐせのままで、右側だけが妙に跳ねている。


「研究?」


陽葉の声が思わず裏返る。通常ならありえない下着の泥染みを弟がどう理解しているのか、心配になった。でも弟の目には、いつもの純粋な好奇心しか映っていない。


「うん。僕も研究してるもん。砂場で山作るとき、水の量とか、すごく大事なんだ」


翔太は得意げに胸を張った。パジャマのボタンが一つ外れているのに気づかないまま、砂場での実験について熱心に説明を始める。


その横で美咲が意味深な笑みを浮かべている。青いパジャマ姿の妹は、両手を後ろで組んで、まるで何か面白いことを見つけた子どものように目を輝かせていた。長い黒髪を片側で結んだ姿は、いつもより大人びて見えた。


「ねぇ、お母さん」美咲が母に向かって声を上げる。「私も研究、していい?」


「どんな研究?」母が優しく問いかけると、美咲は首を傾げた。その仕草には、どこか陽葉に似た慎重さがあった。


「それはまだ、秘密」


妹の視線に気づいた陽葉は、慌てて白いハイソックスを手に取った。靴下の履き口のゴムが、指に心地よい抵抗を感じさせる。布地の弾力が、緊張した指先をそっとほぐしてくれる。


「お、お母さん。こっちも干すね」


陽葉の声が少し上ずっているのに気づいたのか、美咲はクスッと笑った。でも意地悪な笑い方ではない。むしろ、なにか嬉しそうだった。美咲の笑顔には、何かを分かち合っている人だけが見せる、特別な温かさがあった。妹の瞳の奥に、陽葉は小さな共犯者の影を見た気がした。


朝食の支度を終えた父が、新聞を手に縁側に腰を下ろす。新聞の隙間から漏れる朝日が、縁側に細かな光の模様を描いていく。木漏れ日が作る影が、まるで誰かの足跡のように見えた。ふと、土管の中で見つけた足跡を思い出す。あの跡は、今朝もあそこにあるのだろうか。


夏の朝の空気に、家族の気配が溶け込んでいく。陽葉は洗濯物を丁寧に整えながら、少しずつ広がっていく家族との時間を感じていた。遠くで、ラジオ体操の音楽が流れ始める。近所の公園からは、子どもたちの声が聞こえてきた。


食卓からは、味噌汁の湯気が立ち上っている。炊きたてのご飯の香りに、焼き魚の香ばしい匂いが混ざっていた。母が丁寧に並べた小鉢には、昨日の残りの煮物や、きゅうりの浅漬けが盛られている。漬物の爽やかな香りが、部屋いっぱいに広がっていた。


いつもの朝の会話が、テーブルの上でゆっくりと広がっていく。父は新聞から目を離さずに、時々相づちを打つ。母は、美咲の髪の毛を直しながら、今日の予定を確認している。


翔太が見つけた新しい遊び場の話で、テーブルは賑やかになる。最近できた公園の砂場が、翔太のお気に入りらしい。弟は箸を持ったまま、両手を大きく広げて砂場の大きさを表現する。その様子は、さっきまでの眠そうな表情からは想像もつかないほど生き生きとしていた。


「砂場の真ん中に、大きな山を作ったんだ。そこから、四方八方にトンネルを掘って…」


翔太の熱心な説明に、父が興味深そうに耳を傾けている。その眼差しは、技術職として働く父らしい、純粋な探究心に満ちていた。


「でもさ、お姉ちゃんはどこで遊んでるの?」


突然の質問に、陽葉の手が止まった。口に運ぼうとしていた味噌汁が、わずかに揺れる。茶碗の中で、豆腐が小さく揺れ動いた。箸を持つ手に、少しだけ汗が滲む。


「秘密基地みたいなところ、見つけたの?」


翔太の瞳が好奇心で輝いている。その瞳には、姉の秘密を覗き見たいという純粋な興味が満ちていた。工作や実験が好きな弟なら、きっと土管での体験も面白がってくれるかもしれない。でも、それは違う。この感覚は、まだ誰にも話せない。陽葉は言葉に詰まった。喉まで出かかった言葉を、どう形にすればいいのか分からない。


汗ばむ手のひらで、茶碗がやけに熱く感じられた。襟元が急に締め付けるように感じる。心臓の鼓動が、少しだけ速くなっているのが分かった。その時、美咲が自然な声で言った。


「翔太、新しい砂場でトンネル作れたんでしょ?どんな感じだったの?」


妹の言葉に、翔太の興味は一気に砂場の話へと移った。砂のトンネルの作り方を身振り手振りで説明し始める弟に、父が興味深そうに相づちを打っている。時々、工学的な観点からアドバイスを投げかける父に、翔太は目を輝かせて聞き入っている。陽葉は小さく息を吐く。視線を感じて横を向くと、美咲がさりげなくウインクをした。


「お姉ちゃん、お味噌汁、冷めちゃうよ」


美咲の言葉に、陽葉は慌てて茶碗を口に運んだ。熱い味噌汁が、緊張で固まった体をゆっくりとほぐしていく。喉を通り過ぎていく温かさが、心臓の鼓動を少しずつ落ち着かせていく。


妹の優しさが、朝の食卓にそっと溶け込んでいった。陽葉は味噌汁を飲みながら、家族のぬくもりを感じていた。白い体操服の襟元を触る指先に、まだ染み込んだ泥の感触が残っているような気がした。その感触は、決して嫌なものではなかった。むしろ、早朝の秘密を確かめ合うように、優しく指先をくすぐっていた。時々、名札ゼッケンの泥染みが気になって手が伸びる。でも、それすらも今は特別な記憶の一部のように思えた。


朝食を終えた後も、泥染みの付いた体操服は、庭に干された他の洗濯物の中で、ひときわ印象的な存在感を放っていた。それは、陽葉の新しい冒険の証であり、まだ誰にも話せない秘密の象徴だった。朝日に照らされた泥の染みは、まるで地図のように見える。そこには、これから始まる物語の道筋が、かすかに描かれているようだった。


昼下がりの日差しが照りつける中、陽葉は土管に向かっていた。足元には、今朝の小雨の名残がまだ残っている。湿った土の匂いが、時折風に乗って鼻をくすぐる。空き地に近づくほど、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。


前回残していった痕跡は、まだそこにあるのだろうか。雨で流されてしまったかもしれない。それとも、誰かが──。その考えが頭をよぎった瞬間、陽葉の足が止まった。喉が少し乾く。ジャージの裾を、無意識に指先でつまんでいた。エンジ色のブルマの上から重ねて履いているジャージは、動くたびに布地が擦れ合う音が聞こえる。


土管は、いつもの場所でじっと佇んでいた。周囲の雑草は、雨で少し背を伸ばしたように見える。大きな影を作る土管の存在感が、これまで以上に強く感じられた。陽葉は慎重に近づき、しゃがみ込んで中を覗き込む。


目が暗闇に慣れるまでの数秒が、異常に長く感じられた。土管の内側には、独特の湿り気が漂っていた。金属特有の冷たさと、地面からしみ出る水分が混ざり合い、どこか不思議な空気が満ちている。目が暗闇に慣れてくると、陽葉は思わず息を呑んだ。


前回の訪問で残した泥の痕跡に、何かが加えられていた。それは偶然にできた形とは思えない、意図的な跡。誰かが、陽葉の残した痕跡に応えるように、新しい模様を描き加えていたのだ。


心臓が激しく鼓動を打つ。その音が、土管の中で反響しているような錯覚を覚える。手のひらが汗ばみ、体操服の胸元が少しきつく感じられた。


跡は、明らかに体操服で付けられたものだった。布地の織り目の特徴的な痕跡が、そのことを物語っている。しかも、その泥の質感には見覚えがあった。この空き地の、特定の場所の土でしか出せない独特の色合い。


陽葉は震える指先で、その跡に触れてみた。すでに乾いていたが、布地が這った跡は明確に残っていた。まるで、誰かからのメッセージのように思えた。


家に戻った陽葉は、すぐに実験を始めた。庭の片隅で、こっそりと新しい体操服を広げる。清潔な白地に触れる指先が、少し躊躇う。でも、この実験が必要だということは分かっていた。古いハンカチと使わなくなったタオルも用意したが、その布地では本当の感触は分からない。新品の体操服の襟元に、そっと指を這わせる。


水の量を変えてみる。乾いた布に泥を擦り付けると、表面だけが茶色く染まる。少し湿らせた布だと、泥が繊維の間に入り込んでいく。完全に濡らした布では、泥が染み込むというより、むしろ溶け込んでいくような感覚。白い布地が、少しずつ茶色く変化していく様子に、陽葉は釘付けになっていた。


時には指先で、時には手のひら全体で。力の入れ具合で、泥の付き方も変わってくる。強く擦ると濃く染まるが、布地が傷んでしまう。優しく撫でるように付けると、かすかな模様が浮かび上がる。それは、まるで水彩画を描くような感覚だった。


濡らし方や、こすり方を変えながら、泥の染み込み方の違いを観察していく。どの方法が一番、自分の感覚に近いのか。土管の中で感じた、あの不思議な感触を再現できないだろうか。実験を重ねるうちに、陽葉は次第に夢中になっていった。


「お姉ちゃん、なにしてるの?」


背後から声がして、陽葉は小さく飛び上がった。振り返ると、翔太が興味深そうな目で覗き込んでいた。工作が好きな弟の目には、純粋な好奇心が輝いていた。


「あ、これは…その…」


言葉に詰まる陽葉を見て、翔太は一歩近づいてきた。


「実験だよね?僕も実験好きなんだ。砂場でいつもやってるの。水を入れすぎると崩れちゃうし、少なすぎると形にならない。でも、ちょうどいい具合の水を入れると、すごくいい感じになるんだ」


翔太は両手を動かしながら、熱心に説明を続ける。砂の城を作るときの水の量や、山を削るときの角度まで、細かく教えてくれる。その様子は、父親に似て研究者のようだった。


翔太の無邪気な言葉に、陽葉は少し緊張を解いた。弟は陽葉の横にしゃがみ込み、布地に付いた泥の様子を真剣な眼差しで観察し始めた。


「これ、面白いね。布によって、泥の付き方が全然違うんだ」


翔太の観察眼は鋭かった。陽葉が試していた異なる布地での実験結果の違いを、的確に指摘する。その純粋な興味に、陽葉は少しずつ心を開いていく。


「うん。綿と化繊じゃ、全然違うの。綿は水分を吸って、泥も染み込みやすいけど…化繊は水をはじくから、表面だけになっちゃう」


話しながら、陽葉は自分の声の調子に驚いた。普段は人前で自分の興味を話すことなど、ほとんどなかった。でも今は、翔太に向かって自然に言葉が出てくる。それは初めて、自分の「研究」について誰かと話をしている瞬間だった。


「すごいね!お姉ちゃんって、本当に詳しいんだ。布の種類で、こんなに違うんだ」


翔太の素直な感嘆の声に、陽葉は少し照れくさくなった。でも、その言葉には確かな理解が含まれていた。弟は本当に、陽葉の実験に興味を持ってくれているのだ。細かい発見や気づきを、翔太は目を輝かせて聞いている。弟の純粋な反応に、陽葉は安心感を覚えた。


「でも、どうしてお姉ちゃんは泥の研究をしてるの?」


素朴な疑問に、陽葉は一瞬言葉を失う。でも、翔太の瞳には批判的な色は一切なかった。ただ純粋な好奇心だけが、そこにはあった。


「それは…まだ、秘密」


陽葉の答えに、翔太は少し首を傾げたが、すぐに明るい表情に戻った。


「そっか。僕も砂場で、まだ誰にも見せてない実験してるんだ。完成したら、お姉ちゃんに見せてあげる」


弟の言葉に、陽葉は小さく微笑んだ。それは、お互いの「研究」を認め合う、静かな約束のような瞬間だった。


夕暮れが近づき、庭に長い影が伸び始めていた。二人の実験の痕跡を片付けながら、陽葉は土管の中で見つけた跡を思い出していた。誰かが残した痕跡と、自分の実験結果が重なって見える。


泥を払い落としながら、手のひらには新しい発見の感触が残っていた。布地の種類による違い、水分量による変化、力の入れ具合で生まれる模様。それらすべてが、次の行動のヒントになる。次は、自分も何か残してみようか。


庭の隅から、夕焼け空を見上げる。茜色に染まった雲の間から、細い光が差し込んでいる。その光は、まるで未来への道筋を示すかのようだった。今日の実験で得た感覚を、どう表現できるだろう。翔太の純粋な興味に触れたことで、陽葉の中で何かが少しずつ動き始めていた。


片付けを終えた後も、指先には泥の感触が残っている。それは不思議と心地よく、むしろ大切な記憶の一部のように感じられた。次の訪問への期待が、少しずつ形を持ち始めていた。


翌日の夕方、陽葉は慎重に土管の中に入っていった。今日は実験で得た知識を活かして、より意識的な「しるし」を残すつもりだった。体操服の胸元に付いた名札ゼッケンが、微かに揺れる。


土管の中は、いつもより湿度が高く感じられた。午後に降った夕立の影響だろうか、金属の内壁には細かな水滴が光っている。その水滴が、体操服の白い布地に吸い込まれていく。少しずつ湿り気を帯びていく布地が、泥を受け入れる準備を整えていくようだった。


陽葉は持参した水筒から、少量の水を土管の内側に垂らした。昨日の実験で分かった通り、地面が軽く湿っていることで、より鮮明な跡が残せる。水で湿った土の表面が、まるでキャンバスのように変化していく。


体操服の裾を使って、そっと地面に触れていく。昨日の実験で見つけた、最適な力加減で。強すぎず、弱すぎず。布地を通して伝わる土の感触が、指先に響いてくる。それは、まるで静かな会話を交わすような感覚だった。


土管の内側に、少しずつ跡が浮かび上がっていく。それは偶然にできた染みではなく、陽葉の意思が込められた痕跡。実験を重ねた成果が、確かな手応えとなって現れていた。


体操服を押し付ける力加減を変えることで、跡の濃淡が生まれる。強く押しつければ鮮明に、優しく触れれば淡く。その違いを利用して、陽葉は意図的なグラデーションを作り出していく。それは、言葉にならない感覚を、視覚的に表現しようとする試みだった。


時間をかけて、丁寧に作業を進める。急いで雑な痕跡を残すのではなく、一つ一つの動きに意味を持たせる。布地の織り目と泥の質感が織りなす模様は、陽葉の心情を映し出す鏡のようだった。


この痕跡には、昨日の実験での発見が活かされている。翔太との会話で気づいた布地の特性。水分量による変化。そして何より、この場所でしか得られない土の質感。それらすべてが、この表現を支えていた。


体操服の胸元の名札ゼッケンを、そっと地面に押し付けてみる。黒い文字の縫い目が作る凹凸が、まるでスタンプのように泥の跡を残した。「1年2組」の文字が、反転して地面に浮かび上がる。それは、この場所を共有する誰かへのサインになるかもしれない。


陽葉は、完成した痕跡をじっと見つめた。土管の中に差し込む夕暮れの光が、泥で描かれた模様に不思議な陰影を付ける。それは、まるで誰かに向けた手紙のようにも見えた。


誰が、この痕跡を見つけるのだろう。前回の跡を見つけた誰かは、また来てくれるだろうか。期待と不安が入り混じる中で、陽葉は静かに立ち上がった。


土管から出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。夕立の後の空気は澄んでいて、雲の輪郭がくっきりと浮かび上がっている。遠くの電線に止まった鳥の影が、長く地面に伸びていた。


家に帰る途中、陽葉は何度も振り返りたい衝動に駆られた。でも、それは我慢する。体操服の裾や胸元についた泥を見つめながら、今日残してきた跡を思い返す。帰宅したら、すぐに洗わなければならない。でも不思議と、その汚れは嫌な気持ちを呼び起こさなかった。むしろ、大切な記憶の証のように感じられた。


玄関を開けると、すぐに脱衣所へと向かう。誰かに見られる前に、泥だらけの体操服を洗濯かごの中へ。明日の朝、いつものように早起きして洗濯しよう。胸の中で確かな予感が育っていた。土管に残した痕跡は、きっと誰かに届くはずだ。


夕食時、家族との何気ない会話が続いていた。母の作った肉じゃがから、染み込んだ出汁の香りが立ち上る。父は仕事の話を楽しそうに語り、翔太は今日の砂場での発見を報告している。


その横で美咲が、さりげなく陽葉の様子を観察していた。妹の鋭い観察眼は、姉の些細な変化を見逃さない。それは、まるで静かな共犯関係のようだった。


「お姉ちゃん、最近変わったよね」


美咲の言葉に、陽葉は箸を止めた。でも、妹の口調には批判的な響きはなかった。むしろ肯定的な、温かみのある声色だった。


「どう…変わった?」


陽葉の問いかけに、美咲は少し考えるように箸を持ち替えた。


「なんだか、自分らしくなった気がする。体操服の着方とか、動き方とか。お姉ちゃんらしくていいと思う」


妹の言葉は、陽葉の心に静かに沁み込んでいった。それは、これまで誰にも気づかれたくなかった変化を、優しく受け入れてくれる言葉だった。


母は黙ってその会話を聞いていた。時折、穏やかな微笑みを浮かべながら。父は新聞に目を落としているようで、実は娘たちの会話に耳を傾けている。翔太は砂場の話に夢中で、姉妹の静かな対話には気づいていないようだった。


この何気ない夕食の時間の中に、陽葉は確かな安心感を見出していた。泥で描いた痕跡と同じように、この場所にも、家族との確かな繋がりが刻まれていく。それは目には見えないけれど、確かな形を持った絆だった。


食後、自分の部屋で宿題をしながら、陽葉は時折窓の外を見やった。空は既に暗く、街灯が点り始めている。どこかで誰かが、今日の痕跡を見つけただろうか。その思いは、明日への期待となって、静かに心の中で育っていった。


夏の朝の空気が、まだ眠そうにたゆたっていた。日の出からしばらく経った空は、うっすらと雲が広がり、時折強い光が差し込んでは消えていく。湿気を含んだ風が、陽葉の頬をそっと撫でていった。


土管に近づくにつれ、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。昨日残していった痕跡は、まだそこにあるのだろうか。それとも誰かが──。その考えが頭をよぎるたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚があった。


白い半袖の胸元に刺繍された校章が、朝日に照らされてほんのりと光る。名札ゼッケンの黒い文字が、今朝は特に鮮明に目に映る。エンジ色のブルマの上から重ねて履いたジャージは、動くたびにさらさらと音を立てる。その音が、緊張した空気の中で妙に大きく聞こえた。


土管の中を覗き込んだ瞬間、陽葉は息を呑んだ。昨日の痕跡の隣に、明らかに意図的な跡が残されていた。目が暗がりに慣れるまでの数秒が、異常に長く感じられる。心臓の鼓動が、さらに激しくなっていく。


慎重に中に入り、しゃがみ込んで跡をよく見る。泥で丁寧に描かれた文字──「2-4」。


それぞれの文字は、まるで習字の作品のように丁寧に描かれていた。水分量を慎重に調整し、体操服の布地を使って一筆一筆、丹念に描いたような跡。その几帳面さに、陽葉は見覚えのある自分の性格を重ね合わせていた。


上級生。その事実が、陽葉の中で大きな波紋を広げていく。生地の質感や泥の付き方から、間違いなく同じ学校の体操服だ。だとすれば、この跡を残した人物も、陽葉と同じように──。その先の想像に至った途端、頬が熱くなるのを感じた。


考えが及んだところで、急に恥ずかしさが込み上げてきた。誰かに見られているかもしれないという緊張感に、首筋が熱くなる。でも同時に、不思議な高揚感も感じていた。これは偶然の産物ではない。誰かが確かに、陽葉の痕跡に応えてくれたのだ。


土管の中の涼しい空気が、熱くなった頬を優しく撫でる。朝露の湿り気を含んだ匂いが、深く鼻腔をくすぐった。時折外から差し込む光が、泥の痕跡に陰影を付けては消えていく。その度に、跡の表情が微妙に変化しているように見えた。


陽葉はしゃがみ込んで、その跡をもう一度じっくりと観察する。布地が地面に押し付けられた圧力の加減、水分量の調整、動かし方のリズム。すべてが計算されたかのように絶妙だった。


相手は布地の特性をよく理解しているようだった。水分量の加減も絶妙で、まるで陽葉の実験結果を知っていたかのような仕上がり。その跡には確かな技術と、伝えたい何かが込められていた。それは陽葉の心に、静かな共感を呼び起こしていく。


跡の配置にも、明確な意図を感じる。陽葉の残した模様と重なるように、しかし完全には重ならない位置。それは、まるで二人の会話が交差するような構図だった。その構図には、どこか遠慮がちな、でも確かな意思が感じられた。


立ち上がろうとした時、陽葉は土管の隅に何かが置かれているのに気がついた。近づいてみると、それは薄いピンク色のハンカチだった。きちんと四つ折りにされ、小さな石が重しとして載せられている。その丁寧な置き方に、陽葉は思わず微笑んでしまう。


手に取ってみると、手触りの良い、やわらかな綿織りのハンカチだった。四隅には控えめな花の刺繍が施されている。右下を見ると、そこには几帳面な文字で名前が刺繍されていた。「鈴木」という文字の一針一針が、丁寧に縫い取られている。その下には「2-4」の文字も。泥の跡で示された学年・組と同じ。これは間違いなく、相手からのメッセージだった。


陽葉はハンカチを大切そうに手に取った。微かに洗剤の香りがする。それは家庭科室で使う洗剤の香りとは少し違う、家庭的な柔軟剤の香り。相手は、わざわざ洗濯して、この場所に置いていったのだろう。その丁寧さに、陽葉は胸が温かくなるのを感じた。


ハンカチの端を手のひらでそっと撫でる。布地の質感が、指先にやさしく響いてくる。それは陽葉が好む感触に近いものだった。相手も、布地の触感に特別な感覚を持っているのかもしれない。その可能性に、心臓が小さく躍る。


家に帰る途中、陽葉の頭の中は様々な想像で一杯だった。2年4組の鈴木さん。どんな気持ちで、この場所を訪れているのだろう。ハンカチを置いていったということは、陽葉に会いたいと思っているのだろうか。同じように、布地の感触や泥の質感に心惹かれる人がいるのかもしれない。その考えに、心が少しずつ温かくなっていく。


帰宅後、陽葉は自室に向かった。体操服のポケットから、そっとピンク色のハンカチを取り出す。机の上に丁寧に広げると、夕陽に照らされた布地が、やわらかな光を帯びていた。花の刺繍の一針一針が、細かな陰影を作っている。


「鈴木」という名前の文字を、指先でそっとなぞってみる。几帳面な刺繍からは、持ち主の性格が垣間見えるようだった。陽葉と同じように、物事を丁寧に、正確に行うことを好む人なのかもしれない。


胸元の名札ゼッケンに目を落とす。「1年2組 岡田陽葉」の文字が、黒い枠の中にはっきりと浮かび上がっている。土管の中で、この名前を相手は見ただろうか。互いの名前を知るということは、これまでとは違う関係性の始まりを意味するのかもしれない。


着替えようとしたその時、陽葉は体操服の裾についた泥の染みに目が留まった。普段なら、すぐに着替えて洗濯かごへ入れるところだ。でも今日は、その染みがなんだか特別に思える。泥の一つ一つが、今日の出会いの証のように感じられた。


クローゼットから新しい体操服を取り出す。つい先日、母が学校の売店で買ってきてくれたものだ。まだ一度も着ていない、真っ白な布地。襟元のジップは、開けても閉めても気持ちのいい感触がある。左胸の校章の刺繍は、糸の一本一本まではっきりと見える。


新品の体操服を手に取りながら、陽葉は自分の着こなしを思い返していた。クラスの女子たちは、それぞれ工夫を凝らしている。スカートを折って短くしたり、シャツの裾をきゅっと結んだり。でも陽葉は、規定通りの着方を好んでいた。


それは決して保守的だからではない。布地が本来持っている質感や、体に合わせて自然に生まれるシワの形。規定サイズで着ることで感じられる、何とも言えない心地よさがあった。それは陽葉にとって、ごく自然な感覚だった。


窓の外を見上げると、夕焼け空に雲が広がっている。明日は夕立の予報だった。天気予報を見る度に、雨の予報に期待してしまう自分に、少し照れくさい気持ちになる。でも、その気持ちは決して悪いものではないはずだ。


土管の中で感じた泥の感触。布地が湿っていく瞬間の変化。それらは確かに、陽葉の大切な感覚だった。そして今、その感覚を分かち合える誰かの存在を知った。その事実が、心の中に温かな期待を育んでいく。


明日は早起きして、土管に行こう。今日見つけたハンカチのように、自分からも何か残せないだろうか。単なる泥の跡ではなく、もっと明確な─。考えながら、陽葉は机の引き出しを開けた。


文房具が整然と並んだ引き出しの中から、白いハンカチを取り出す。裁縫箱も用意して、針と黒い糸を選んだ。刺繍なら、名前をはっきりと伝えられる。でも、それは少し大胆すぎるかもしれない。


窓辺に置いた雨量計を見やる。透明な筒の中で、水面が微かに揺れている。明日の夕立を待つように、静かに佇んでいるその姿に、陽葉は自分の姿を重ねていた。待つことも、動き出すことも、どちらも大切な時間なのかもしれない。


机の上のハンカチが、夕陽に照らされて淡い影を作っている。その影は、まるで未来への道しるべのように、ゆっくりと伸びていく。陽葉は静かに決意を固めていた。明日は、自分の番なのだ。

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