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朝霧の痕跡

リビングから流れてくるテレビの音に、私は思わず耳を澄ませた。


「明日の朝は、各地で濃い霧の発生が予想されます。特に内陸部では視界不良に......」


天気予報の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。思わず息を呑む。霧。それは私にとって、新しい可能性を意味する言葉だった。


おとといの出来事が、まだ鮮明に残っている。工事予定地の土管の中で体験した、雨に濡れた体操服の感触。泥の温もり。一度洗濯しても消えない記憶。そして、消えきらなかった痕跡。


時計を見ると、七時を少し回ったところ。お風呂の前に、明日の準備をしなければ。


クローゼットを開け、洗濯して干してあった体操服を取り出す。幾度か洗っても完全には落ちなかった泥のシミが、かすかに残っている。白い半袖にまだらに残る茶色がかった跡。エンジ色のブルマのサイドの白線に残る、薄い染み。指でそっと跡をなぞると、あの日の感触が鮮やかに蘇ってきた。


泥に濡れた布地が肌に張り付く感覚。じっとりと染み込んでいく温もり。思い出すだけで、体が小さく震える。


今日は、これに長袖のジャージと長ズボンも重ねる。より多くの布地が、より多くの感覚をもたらしてくれる。そう確信していた。


体操服を一つずつベッドの上に並べていく。左胸の校章と名札ゼッケン。黒枠二段の文字が、薄暗い部屋の中でもはっきりと読める。「1年2組 岡田陽葉」。シミの染みた制服を見つめながら、私は小さくため息をついた。もう戻れない。でも、戻りたくもない。


下着とスクールハイソックスも、あの日のものを用意した。何度洗っても消えない泥シミが、かすかに、しかし確かに残っている。その跡に触れるだけで、あの時の感覚が蘇ってくる。


「ひよりー、お風呂あいたわよー」


母の声に、私は慌てて背筋を伸ばした。いつもと変わらない声で返事をする。


「はーい。今行きます」


シャワーを浴びながら、私は明日のことを考えていた。薄く残った泥のシミが、新しい体験の予感を誘う。おとといよりも、もっと......。湯気の立ち込める中、私の心は既に明日の霧の中へと飛んでいく。


お風呂から上がると、脱衣所の鏡に自分の姿が映った。まだ幼さの残る体。でも、その体が確かに体験した、あの日の感覚。タオルで体を拭きながら、私は少しずつ気持ちを高めていく。


用意しておいた体操服に着替える。湯上がりで温かい肌に、シミの残る布地が触れる。その感触に、小さな戦慄が走る。ブルマの上からジャージをはくと、二枚の布地の重なりが新しい質感を生む。半袖の上から長袖を重ねると、腕の動きに合わせて布地同士が擦れ合う。まるで、あの場所が私を呼んでいるみたい。


鏡に映る自分の姿を見つめる。普段と同じ体操服。でも、薄く残った泥のシミが、ただの体操服ではないことを主張している。シミを指でなぞると、心臓が大きく跳ねた。


「ねえちゃん、明日も早起きするの?」


突然聞こえた声に、私は小さく飛び上がった。振り向くと、部屋の入り口に美咲が立っていた。妹の眼差しには、いつもの好奇心が浮かんでいる。


「......うん」


答えながら、さりげなく明日用の着替えの入ったかばんに目をやる。その時、美咲の視線が私の体操服に向けられた。


「あれ、その体操服...ここ、まだ汚れてるよ?」


美咲が指さす先には、薄く残った泥のシミ。心臓が大きく跳ねる。


「洗濯しても、結構シミのこっちゃったね」


「ううん、これは...」


言葉に詰まる。妹に指摘された泥のシミ。その存在を誰かに認識されたという事実に、背筋がゾクゾクとする。頬が熱くなるのを感じながら、同時に不思議な高揚感が体の中を駆け抜けていく。嘘をつくのは得意じゃない。特に美咲には。妹は私の趣味を理解してくれる子だけど、これは違う。今の私には、誰にも話せない秘密がある。


「大丈夫。お母さんにも言わない」


美咲はそう言って、少し意味ありげな笑みを浮かべた。


「またお勉強?」


突然話題を変える妹の声に、私は小さくうなずいた。


「そう。夏休みの宿題」


嘘をつくのは得意じゃない。でも今は必要なことだと言い聞かせる。美咲は少し首を傾げたけれど、それ以上は何も聞かなかった。


「おやすみ、おねえちゃん」


「おやすみ」


ドアが静かに閉まる音を聞きながら、私は小さくため息をついた。シミの残る体操服が、肌に心地よく馴染んでいく。


就寝時刻まであと少し。私は明日の計画を頭の中で何度も確認する。カーテンの隙間から覗く夜空を見上げる。雲が低く垂れ込めている。明日の朝、きっと霧が出る。目覚まし時計を、いつもより30分早い5時にセット。これなら家族が起きる前に出られる。


ベッドに横たわると、シミの残る体操服が私の体を優しく包み込む。布団の重みで服が肌に押し付けられる感覚。体を少し動かすたびに、布地が肌の上でこすれる。その度に、あの日の記憶が少しずつ鮮明によみがえってくる。


期待と不安が交錯する。明日は、きっともっとすごい体験ができる。でも、本当にこんなことをしていいの?枕に顔を埋めると、かすかに残る泥の匂いが私を包む。その香りは、もう後戻りできないことを告げているよう。



目覚まし時計の音で、私は静かに目を開けた。外はまだ暗い。窓の外を見ると、予報通り霧が立ち込めている。心臓が高鳴るのを感じる。


暗闇の中で、ゆっくりと体を起こす。布団から出た瞬間、冷えた空気が体操服越しに肌を撫でる。深夜の静けさの中、布地の擦れる音が妙に大きく聞こえる。


一度ジャージのズボンを脱ぐ。シミの残るハイソックスを履き、改めてズボンをはいていく。布地の重なりが、期待感を高めていく。


家族の寝息を聞きながら、できるだけ音を立てないように動く。引き出しを開ける音、かばんのファスナーを閉める音、どれもが普段より大きく感じられる。緊張で手が少し震える。でも、その緊張さえも心地よかった。


かばんを手に取り、部屋を出ようとした時だった。


突然の違和感が、下腹部から広がった。トイレに行きたい。けれど、なぜか足が動かない。今、この瞬間に行くのは、何かが違う気がした。この感覚。この緊張。それはおとといの、土管の中で感じた興奮に、どこか似ている。


脳裏に、鮮明な記憶が蘇る。濡れた体操服が肌に張り付く感触。泥の柔らかさ。そして、あの解放感。今も着ている体操服の泥のシミが、その記憶をより確かなものにする。


心臓の鼓動が、少しずつ早くなっていく。今日は、おとといよりもっとすごいことができるかもしれない。その予感が、下腹部の違和感と混ざり合って、新しい期待になっていく。


「今、止まってはいけない」


誰に言い聞かせるでもなく、私は小さくつぶやいた。廊下に一歩を踏み出す。家族の寝息が聞こえる中、そっと玄関へと向かう。


その一歩が、床板のきしむ音を生んだ。私は息を止めて立ち止まる。音は、夜の静けさの中で不自然なほど大きく響いた気がした。でも、家族の寝息は乱れていない。


意を決して、また一歩を踏み出す。今度は、足の力を細かく調整しながら。体育の跳び箱の着地のように、つま先から慎重に体重を移動させる。床板は今度は静かだった。


廊下を進むごとに、下腹部の圧迫感は強くなっていく。でも不思議と、その感覚は私の期待を高めていった。いつもなら避けたい不快感が、今は違う意味を持ち始めている。


玄関に着く前に、最後にもう一度美咲の部屋の前で立ち止まる。ドアの向こうから聞こえる規則正しい寝息。妹の言葉を思い出す。「お母さんにも言わない」。その時の美咲の表情が、まるで私の秘密を知っているかのようだった。


でも、本当の秘密は誰も知らない。これから向かう場所のこと。土管の中で感じる特別な感覚のこと。そして今、この瞬間に感じている、この奇妙な高揚感のこと。


靴箱から通学靴を取り出す。白い紐の部分に残った泥のシミを見つめる。何度洗っても完全には落ちない染みは、まるでその日の記憶を封じ込めているかのよう。指先でそっと紐をなぞると、布地に染み込んだ感触が、あの日の興奮を呼び覚ます。かばんのファスナーを閉める音が、決意を固める合図のように響く。


玄関の鍵を回す時、手が少し震えた。金属音を最小限に抑えようと、普段よりもずっとゆっくりと。その分、鍵の歯が溝を擦る感触が、手のひらを通じて全身に伝わってくる。


ドアを開ける。朝霧を含んだ空気が、一気に玄関に流れ込んでくる。湿った空気が顔を撫で、首筋を濡らす。思わず、小さな吐息が漏れた。まるで、あの場所が私を歓迎しているかのよう。


外に一歩踏み出した瞬間、下腹部がきゅっと締め付けられる。この感覚は、もう否応なしに私の意識を支配していた。でも、それは苦しいというよりも、むしろ期待を高めるものに変わっていた。


自転車を取り出す時、サドルが濡れているのに気づく。小雨が細かな水滴となって降り注ぎ、朝霧と混ざり合って独特の湿り気を作り出している。でも不思議と、拭く気にはならない。むしろ、その湿った感触を、これから始まる冒険の予兆のように感じた。雨粒が私の顔を優しく撫でる。


自転車に跨がると、ジャージとブルマの二枚の布地の間に、湿ったサドルの感触が染み込んでくる。ペダルを踏む度に、その感触が波のように広がっていく。下腹部の圧迫感と相まって、否応なしに意識が集中していく。


霧の向こうに、街灯の明かりがぼんやりと揺らめいている。その光が、私の行く先を指し示しているよう。ペダルを踏み始めると、次第に体の中に奇妙な高揚感が広がっていく。


工事予定地まで、いつもの道のりとは全く違って見える。見慣れた風景が、霧のベールに包まれて非現実的な姿を見せている。街灯の光が作る光の輪が、まるで別世界への入り口のよう。


ペダルを漕ぐ動作に合わせて、長袖と半袖が重なり合い、布地同士が擦れ合う。その度に、シミの残る箇所が肌を刺激する。下腹部の違和感は、今や快感と混ざり合って、私を奇妙な興奮状態へと導いていく。


後戻りはできない。いや、したくない。この期待感、高揚感、そして少しの不安。それらが混ざり合って、特別な時間を作り出していく。いつもの私ではない、秘密の私が、今、目覚めようとしている。


土管のある場所まで、あと少し。下腹部の圧迫感は極限に達していた。でも、その感覚さえも、今の私には大切な何かに思えた。おとといの体験を超える、新しい感覚との出会い。その予感に、体の芯から震えが走る。


ついに目的地が見えてきた。霧で輪郭がぼやけた土管が、まるで異世界への入り口のように佇んでいる。自転車のペダルを漕ぐ足に力が入る。下腹部の圧迫感が、その動きに合わせてさらに強まっていく。


工事予定地に近づくにつれ、街灯の光は遠ざかっていく。代わりに、朝霧と小雨が作り出す不思議な明るさが、私を包み込んでいく。まだ夜が明けきらない空の下、すべてのものが灰色がかった色調を帯びている。


自転車を止めて、おそるおそる地面に足をつく。靴底が、湿った土を柔らかく押しつぶす。その感触に、小さな戦慄が走る。


長袖のジャージの袖が、すでに小雨で湿り気を帯びていた。霧の粒子が、布地に細かな水滴となって付着している。腕を動かす度に、その湿った布地が肌をなぞっていく。下に着ている半袖も、徐々に湿り気を帯びていくのが分かる。


工事予定地に入っていく。足を踏み出す度に、靴が地面を押す感触が新鮮だった。いつもより柔らかい。雨で湿った土が、私の足跡をくっきりと受け止めていく。


歩みを進めるたび、下腹部の圧迫感が波のように押し寄せる。でも今は、その感覚を意識的に楽しもうとしている自分に気づく。普段なら必死で我慢するはずの不快感が、今は期待感と混ざり合って、違う色を帯びていく。


土管まであと数歩。視界の端で、白いハイソックスが泥はねで少しずつ汚れていくのが見える。その様子に、背筋がゾクゾクとする。汚れていく。でも、それは汚れというより、むしろ特別な色に染まっていくような気がした。


ジャージの裾が、湿った地面に触れる。布地が水分を吸って、少しずつ重みを増していく。その感覚が、私の意識をさらに研ぎ澄ませていく。


土管まであと数歩。下腹部の圧迫感が、もう限界に達している。ここで、という直感が私の中で強まっていく。意識的に力を入れたり緩めたりするだけで、小さな快感が走る。普段なら恥ずかしくて考えられないようなことが、今の私には特別な意味を持ち始めていた。


その場に立ち止まる。小雨が静かに降り続けている。朝霧の向こうに土管が佇む。誰にも見られることのない、この特別な時間。


ゆっくりと、意識的に力を抜いていく。最初は小さな染みが、温かい液体となって広がっていく。白いショーツが、徐々に濡れていくのが分かる。


「あっ...」


思わず漏れた声が、霧の中に吸い込まれていく。温かい液体が、太ももを伝って流れ落ちていく。ハイソックスが、少しずつ染みを吸収していく。靴の中まで、その温もりが広がっていく。


一歩、また一歩と歩を進める。靴の中でグチュグチュという音が鳴る。その音が、私の中の何かを解き放っていく。濡れたショーツが肌にまとわりつく感触。ハイソックスを伝う生温かい感覚。ジャージの布地が、濡れた下着の上をこすっていく。すべてが、私の意識を昂ぶらせていく。


土管の前に立つ。入り口に手をかける。冷たい金属の感触が、掌を通じて体中に伝わる。小雨が作る水滴が、ポツポツと音を立てて土管を叩く。その音が、まるで私を招き入れるような。


振り返る。霧の向こうに、家のある方角を見やる。誰も私を追いかけては来ていない。この時間、この場所は、完全に私だけのもの。その確信が、新たな大胆さを呼び起こしていく。


土管の中に入る。外の光が遮られ、一瞬だけ暗闇に包まれる。目が慣れてくると、土管の向こう側に漂う朝霧が、ぼんやりとした光となって浮かび上がってきた。


長袖のジャージの上から、そっと自分の腕をなでる。布地が湿っているせいで、いつもより鮮明な感触が返ってくる。その下の半袖も、徐々に湿り気を帯びている。二枚の布地が肌の上で重なり合い、こすれ合う。その感覚だけで、体が熱を帯びていく。


土管の中に腰を下ろす。濡れたジャージとショーツが、さらに密着して肌を刺激する。普段なら最悪の状態のはずなのに、今はむしろその感覚を楽しんでいる自分がいる。足を動かす度に、靴の中で水音が響く。その音が、私の中の何かをさらに掻き立てていく。


小雨の音が、リズミカルに土管を打つ。外からの光が朝霧によって拡散され、幻想的な空間を作り出している。その光の中で、私は自分の両腕を見つめる。長袖と半袖が重なり合った布地が、湿り気を帯びて肌に張り付いている。


指先で、そっと布地の表面をなぞってみる。二枚の服が重なることで生まれる、不思議な質感。雨と霧の湿り気が、その感触をより鮮明にしていく。腕を動かす度に、布地同士が擦れ合い、その音が土管の中で小さく響く。


立ち上がる。靴の中の湿り気が、足の動きに合わせて広がっていく。この感覚。この音。この匂い。すべてが、私の意識をさらに高めていく。土管から外に出ると、朝霧の湿り気が、新たな刺激となって肌を包み込む。


周りを見回す。霧で視界は限られているけれど、それがかえって私の世界をより特別なものにしている。この狭い空間の中で、私は何をしてもいい。その思いが、新たな冒険への衝動を呼び覚ます。


地面に膝をつく。湿った土が、ジャージを通して肌に触れる。布地が土を吸い込んでいくのが分かる。でも今は、それを避けようとは思わない。むしろ、もっと感じたい。その欲求が、私の中でどんどん大きくなっていく。


手のひらを地面につく。朝露と小雨で湿った土が、指の間からはみ出していく。長袖の袖が、少しずつ土の色に染まっていく。その様子を見ているだけで、背筋に小さな震えが走る。


体を前に倒す。両手を地面につき、そのまま体重を預ける。服が地面に触れる面積が増えていく。布地が土の湿り気を吸収していくのが、手に伝わってくる。


「もっと...」


小さなつぶやきが、霧の中に溶けていく。長袖の下の半袖まで、湿り気が染み込んでいくのが分かる。二枚の布地の間で、泥が不思議な感触を生み出していく。


そのまま、ゆっくりと体を横たえる。背中から地面に触れていく感覚。ジャージと体操服が、泥の重みを含んで肌を包み込んでいく。普段なら絶対に許せない状態。でも今は違う。この感覚こそが、私の求めていたもの。


仰向けになり、霧がかかった空を見上げる。小雨が顔に降り注ぐ。閉じた瞳から、水滴が頬を伝っていく。全身が、泥と雨の重みに包まれている。この感覚が、私の中の何かを解き放っていく。


もう、きれいな体操服の女の子には戻れない。でも、それでいい。むしろ、その事実が心地よかった。泥に濡れた布地が肌に張り付く感覚。その重みが、新しい私を作り出していくよう。


体を起こす。服が泥の重みを含んで、いつもより重たく感じる。その感覚が、さらなる期待を呼び起こしていく。まだ、これで終わりじゃない。もっと、もっと先まで行ける。その確信が、私の中で芽生えていく。


土管の前に立ち、深く息を吸い込む。小雨が作り出す微かな音が、耳に心地よく響いてくる。周囲は相変わらず霧に包まれ、世界は灰色の中に溶け込んでいく。


私は両手を広げ、顔を上げる。小雨が、まるで祝福するかのように降り注いでくる。雨粒が長袖のジャージに当たる感触。それは霧の湿り気とは違う、よりはっきりとした刺激。一つ一つの雨粒が、布地に小さな衝撃を与えていく。


ゆっくりと腕を動かしてみる。湿った長袖が、下に着ている半袖とこすれ合う。二枚の布地の間に、不思議な感触が生まれていく。乾いた布地同士では決して味わえない、新しい質感。その感覚に、思わず小さな吐息が漏れる。


雨に濡れた長袖の袖を、そっと指でつまんでみる。布地が水分を含んで、わずかに重みを増している。引き延ばしたり、絞ったりする度に、水分の含み具合で触感が変化していく。その様子に見入っていると、布地の一つ一つの繊維が、まるで生き物のように感じられてくる。


「あっ...」


突然の発見に、小さな声が漏れる。長袖の白いラインの部分が、泥で薄く色づいているのに気がついた。いつの間に?と思ったけれど、すぐに理解できた。さっき地面に寝転がった時に付いたに違いない。


でも不思議と、その染みは私の心を乱すどころか、むしろ安心させた。まるで、私の体験が確かなものだったという証。指先で染みをなぞると、布地の表面に微かな凹凸を感じる。泥が乾いて、繊維の間に入り込んでいるのだろう。


改めて自分の姿を見下ろす。長袖のジャージは、小雨で全体的に湿り気を帯びている。その下の半袖も、徐々に水分を吸収していくのが分かる。二枚の布地が重なり合う場所では、異なる湿り方が独特の感触を生み出していく。


体を動かす度に、服が肌の上でこすれ合う。その音が、朝の静けさの中で妙に鮮明に聞こえてくる。布地が擦れ合う音。水滴が服を叩く音。泥に足を踏み入れる音。すべての音が、この特別な時間をより深いものにしていく。


もう一度土管の中に入ってみる。外の光が遮られた分、服の湿り気がより鮮明に感じられる。長袖の上から腕をなでると、布地の表面に細かな水滴が付着しているのが分かる。その一つ一つが、私の指先に反応を返してくる。


土管の中で、ゆっくりと体を伸ばしてみる。湿った服が、動きに合わせて肌の上を滑っていく。特に脇の下や肘の内側では、布地の重なりがより複雑な感触を生み出す。そこでは長袖と半袖が密着し、まるで一枚の布地のように振る舞う。でも、少し動くだけでその錯覚は崩れ、二枚の布地がそれぞれの存在を主張し始める。


両腕を上げ、土管の内側に手をつく。冷たい金属の感触が、掌を通じて体中に伝わってくる。腕を伸ばすと、服の重みで布地が下にずれ、手首が露出する。その時、長袖と半袖の袖口が重なって作る締め付け感。それは普段なら不快に感じるはずの感覚なのに、今は心地よく感じられる。


深いため息をつく。吐き出した息が、狭い空間に広がっていく。土管の中は、外よりも湿度が高いように感じる。その湿った空気が、私の肌と服の間に染み込んでいく。まるで、もう一枚の見えない布地を重ねているよう。


土管の向こう側に目を向けると、朝霧が作り出す光が、淡い円を描いている。その光の輪の中で、小雨の粒子が銀色に輝いて見える。私は、その景色にしばらく見入ってしまう。今までこんな風景を見たことがなかった。


「こんなに、きれいだったんだ...」


つぶやいた言葉が、土管の中でかすかに反響する。その音に、微かな違和感を覚える。何か、いつもと違う。私は、もう一度意識して耳を澄ませた。


通常、土管の中での音の反響は、金属的で無機質なはずだ。でも今の響き方は、どこかぬくもりのようなものを感じる。まるで、誰かが残していった温もりが、まだ残っているかのよう。


その考えが頭に浮かんだ瞬間、背筋が小さく震える。今までの土管は、完全に無人の空間だと思っていた。でも、もしかしたら...。その可能性に、期待と不安が入り混じった感情が湧き上がってくる。


私は、土管の内側をより注意深く観察し始めた。小雨の光を頼りに、金属の表面を目で追っていく。最初は何も変わったところは見つからない。でも、角度を変えて見てみると、かすかな痕跡が目に入った。


土管の内側、入り口から少し奥まったところに、薄い線が何本も刻まれているのが見えた。まるで、誰かが爪で引っかいたような跡。一本一本は細いけれど、確かにそこにある。私は思わず、その跡に指を這わせてみる。


指先に伝わってくる微かな凹凸。それは決して偶然にできたものではない。規則的で、どこか意図的な印象を受ける。爪で刻まれた跡は、上から下へと平行に並んでいる。まるで、誰かが自分の存在を示すために残していったよう。


その痕跡に触れていると、不思議な感覚が湧き上がってくる。これは、私と同じような誰かが残していったものなのだろうか。それとも、全く違う目的を持った人のものだろうか。想像力が駆り立てられ、様々な可能性が頭の中を駆け巡る。


長袖の袖が、土管の表面でこすれる音が響く。湿った布地が作り出す音は、普段より大きく感じられる。その音に意識を向けていると、また新しい発見があった。土管の底の部分に、うっすらと泥が付着している。


これは昨日の私の痕跡ではない。色が違う。昨日の泥は赤みがかった茶色だったけれど、これはより黒ずんでいる。まるで、もっと前からそこにあったかのよう。指でそっと触れてみると、完全に乾ききっていた。


泥の付き方にも、何か意図的なものを感じる。ただ単に足跡が残っているわけではない。むしろ、誰かが意識的にこすりつけたような跡。その形は不規則だけど、どこか芸術的な印象さえ受ける。


私は、自分の長袖の袖に付いた泥を見る。まだ湿っていて、鮮やかな茶色をしている。昨日の染みは、もう少し暗い色になっていた。時間の経過と共に、泥の色が変化していくのだろう。その考えに、妙な感動を覚える。


土管の中で、もう一度体を動かしてみる。湿った服が、より大胆に肌の上を滑っていく。泥の付いた部分では、布地の質感が全く違って感じられる。清潔な布地とは異なる、土の粒子が作り出す摩擦。その感覚が、私の意識をさらに研ぎ澄ませていく。


長袖の上から腕をこする。布地が擦れ合う音が、土管の中で反響する。その音は、先ほど見つけた爪跡と何か通じるものがあるように感じられた。誰かが、同じようにしてこの場所で服をこすったのだろうか。その想像に、背筋がゾクゾクとする。


土管の外から、小雨の音が聞こえてくる。規則正しい音のリズムに、私は耳を傾ける。雨の強さは変わっていないけれど、地面に染み込む量は確実に増えているはず。それは、新しい可能性を示唆していた。


もう一度、土管の外に出てみる。案の定、地面はさらに柔らかくなっていた。足を踏み出す度に、泥が靴の周りで小さな音を立てる。その音が、私の期待を高めていく。


数歩歩いただけで、靴の裏に泥が厚く付着しているのが分かる。歩く度に、重みが増していく。その感覚が、私の足取りをよりゆっくりとしたものに変えていく。まるで、地面が私の動きを制御しているかのよう。


ふと、土管の周りを見渡してみる。霧は相変わらず濃く、視界は限られている。でも、よく目を凝らすと、地面に何かが見えた。私は、その場所にゆっくりと近づいていく。


それは、明らかに足跡だった。でも、私が今朝付けたものとは違う。サイズも形も、微妙に異なっている。そして何より、泥の固まり方が違う。これは、かなり前に付けられた跡なのだろう。雨で少し崩れかけているけれど、まだはっきりとその形を留めている。


私は、その足跡の横に自分の足を置いてみる。サイズは私のものより少し大きい。でも、それほど大人の足跡というわけでもない。中学生か、せいぜい高校生くらいだろうか。その推測に、心臓が少し早くなるのを感じる。


足跡は一つだけではなかった。よく見ると、土管を中心に円を描くように、複数の足跡が残されている。まるで、誰かが土管の周りをゆっくりと回るように歩いていったかのよう。その跡を目で追っていくと、土管のもう片側に消えていた。


長袖の袖が、雨でさらに重くなっているのを感じる。その重みが、私の動きをより慎重なものにしていく。まるで、この場所の秘密を一つ一つ丁寧に読み解くように。


私は、見つけた足跡と同じように、土管の周りをゆっくりと歩いてみる。足を置く場所を慎重に選びながら。自分の足跡を、発見した足跡の隣に並べていく。その行為に、どこか儀式めいた感覚を覚える。


歩く度に、ジャージの裾が泥で汚れていく。長袖も半袖も、徐々に泥の色に染まっていく。でも今は、その変化を恐れるどころか、むしろ歓迎している自分がいる。この汚れは、私がここにいた証。そして、誰かと同じ体験を共有している証。


土管の向こう側まで来ると、足跡はさらに奥へと続いていた。工事予定地の、もっと人目につきにくい場所へ。私は、その先を追いかけるべきか、少し迷う。時計を見ると、もう予定の時間の半分が過ぎていた。


でも、この発見は私に新しい可能性を示唆していた。私は一人じゃない。同じような興味を持つ誰かが、確かにここに存在する。その事実が、私の中に不思議な安心感を生み出していく。


空を見上げると、霧の向こうに朝日の気配が感じられた。小雨は相変わらず降り続いている。その雨粒が、泥で重くなった服をさらに濡らしていく。二つの重み、二つの感触。その感覚が、私の体験をより深いものにしていく。


今朝の発見は、私の秘密に新しい意味を与えた。それは、単なる個人的な体験から、誰かと共有できる可能性を持つものへと変化していく。その予感に、心が大きく揺れるのを感じた。


土管の中から外に出ると、霧の向こうから微かな光が差し始めていた。夜明けが近い。でも、まだ周りは十分に暗く、私の秘密は守られている。


長袖の袖を見つめる。泥と雨で、布地が不思議な模様を描いている。乾いていく部分と、新しい雨粒が染み込んでいく部分が混ざり合って、まるで生きているような印象を受ける。その変化を見つめているだけで、気持ちが落ち着いていく。今の私には、この感覚を味わうことだけで十分。


でも、その静寂は長くは続かなかった。


「カサッ」


突然の物音に、私は息を飲んだ。霧の向こうで、何かが動いた気がする。心臓が大きく跳ねる。誰かいる?でも、この時間に。動物かもしれない。そう思いながらも、私の意識は否応なしにその方向に引き寄せられていく。


体が、わずかに震えている。それは恐怖というより、むしろ期待に近い感覚。もしかしたら、あの足跡の主かもしれない。その可能性に、背筋がゾクゾクとする。


息を殺して、じっと耳を澄ます。雨の音が邪魔をして、細かな音は聞き取りにくい。でも確かに、人の気配のようなものを感じる。それは、私の想像かもしれない。でも、心臓の高鳴りは嘘をつかない。


服が雨を含んで重くなっているせいで、動きが鈍くなっている。その重みが、今は妙に心強く感じられる。まるで、私をこの場所に繋ぎとめているかのよう。私は、ゆっくりとその音のした方向に一歩を踏み出した。


靴が泥の中に沈んでいく。その音が、朝の静けさの中で妙に大きく響く。でも今は、その音を隠そうとは思わない。むしろ、誰かに聞こえても構わないような、そんな大胆な気持ちさえ湧いてくる。


再び「カサッ」という音。今度は、さっきよりも少し近くで聞こえた気がする。その音に合わせて、私の心拍はさらに早くなる。恐怖と期待が入り混じった感情が、体の中を駆け巡っていく。


濡れた長袖が、動きに合わせて肌に張り付く。その感触が、今の私の緊張感をより一層高めていく。下着の湿り気も、まだはっきりと残っている。普段なら気になるはずの不快感が、今はむしろ私の意識を研ぎ澄ませていく。


霧の向こうを、必死に目を凝らす。視界は相変わらず悪いけれど、それでも何かが見えるかもしれない。誰かの姿が。誰かの痕跡が。その期待に、指先が小さく震える。


長袖の袖口を握りしめる。布地が水分を含んで、指の間から染み出してくる。その感触に意識を集中させることで、少しずつ落ち着きを取り戻していく。今の私には、この感覚が最高の安心材料。


周りの景色が、少しずつ明るくなってきている。霧は相変わらず濃いけれど、空からの光が徐々に強くなっているのが分かる。その光の中で、泥で汚れた服がより鮮明に見えてくる。


私は、自分の体をゆっくりと見下ろした。長袖も半袖も、泥と雨で思っていた以上に汚れている。特に膝から下は、完全に茶色く染まっていた。白のスクールハイソックスも、もはや元の色を留めていない。


でも不思議と、その姿に嫌悪感は覚えない。むしろ、今の私にはこの姿こそが相応しく感じられる。きちんとした清潔な服装を好む普段の私。その私が、今こんな姿になっている。その事実に、背筋が小さく震える。


体の中に、これまで感じたことのない感覚が広がっていく。恥ずかしさと快感が混ざり合ったような、奇妙な高揚感。それは、誰かに見られているかもしれないという意識が、さらに強めているのかもしれない。


再び、霧の向こうを見つめる。さっきの物音がした方向に、まだ何か動きがあるような気がする。それは、私の期待が生み出した錯覚かもしれない。でも、その可能性だけで十分だった。私は、その存在を信じたかった。


土管の近くまで戻ってくる。爪で刻まれた跡を、もう一度確認する。指先で一本一本なぞっていく。その跡には、明確な意図を感じる。これは決して偶然ではない。誰かが、私に向けてメッセージを残したのだ。


「私も、ここにいたよ」


そんな声が聞こえてくるような気がした。その瞬間、全身に小さな戦慄が走る。私の感覚は特別なものじゃない。誰かが、同じように感じている。その確信が、私の中で静かに、でも確実に広がっていく。


手のひらを、泥で汚れた長袖の上から胸に当てる。心臓の鼓動が、布地を通して伝わってくる。その鼓動は、今までにない期待と高揚を告げていた。私の秘密は、もう秘密ではないのかもしれない。


再び土管の周りをゆっくりと歩き始める。足跡の痕跡を、より注意深く観察していく。歩幅や深さ、泥の付き方。それらの一つ一つに、残した人の意図が隠されているような気がした。


雨に濡れた靴が、新しい足跡を刻んでいく。私の痕跡は、発見した足跡と少しずつ重なり始めている。その重なりに、不思議な親近感を覚える。まるで、時間を超えて誰かと対話しているよう。


土管の内側に、新しい跡を付け加えることを決意する。長袖の袖で、慎重に模様を描いていく。湿った布地が、金属の表面に独特の痕跡を残していく。それは、他の誰にも気付かれないような、でも確かにそこにある印。私からの返信。


服が泥で汚れていく過程にも、意識的になっていく。これは単なる汚れではない。私の体験の証。そして、誰かと共有できる可能性を持った痕跡。腕を動かす度に、布地が描き出す模様が変化していく。その様子に見入っていると、まるで誰かと一緒に絵を描いているような感覚さえ覚える。


霧の中で、光が少しずつ強くなってきている。時間の経過を告げるその光に、心が少し焦る。でも、まだ帰りたくない。この感覚を、もう少しだけ味わっていたい。


土管に背中を預け、ゆっくりと体を滑らせながら座り込む。長袖と半袖が、動きに合わせて肌の上でこすれ合う。その音が、今は特別な意味を持って響いてくる。私の秘密は、もう完全な秘密ではなくなっていた。


目を閉じ、深くため息をつく。耳に届く音のすべてが、誰かの存在を暗示しているように感じられる。雨の音。風の音。服の擦れる音。そして、どこからともなく聞こえてくる、かすかな気配。


布地に染み込んだ泥の匂いを、意識的に嗅ぐ。その香りの中に、土の生命力とでも呼べるようなものを感じる。それは、誰かが同じように感じているかもしれない匂い。その考えに、心が大きく揺れる。


手のひらを地面に押し付ける。湿った土が、指の間からはみ出していく。この感触は、きっと誰かも同じように味わったはず。その確信が、私の孤独を少しずつ溶かしていく。


朝日が昇る前に、ここを離れなければならない。でも、これで終わりじゃない。むしろ、新しい何かが始まろうとしている。その予感に、心が高鳴るのを感じる。


土管を後にする前に、最後にもう一度内側を見つめる。爪痕と、私が付け加えた跡。それらが重なり合って、まるで会話のように見える。いつか、この跡を誰かが見つけてくれるだろうか。その期待が、次の訪れへの約束となっていく。


私は静かに立ち上がる。服の重みが、今までとは違う意味を持って体に伝わってくる。それは、もう後戻りできない変化の重み。でも、その重みは私を不安にさせるどころか、むしろ心強く感じられた。誰かと共有できる秘密の重み。


空が白みはじめてきた。朝日が昇る前に、ここを離れなければ。心臓が小さく跳ねる。


私は慎重に、土管の周りの足跡を確認していく。特に、先ほど自分が付けた新しい跡。それらを完全に消してしまうのは惜しい気もしたけれど、ここでの出来事は、まだ誰にも知られてはいけない。


長袖の袖で、そっと地面を撫でていく。泥で重くなった布地が、足跡を少しずつ均していく。完全には消えない。でも、それでいい。かすかな痕跡として残っていく方が、むしろ自然。誰かが見つけた時、「偶然」だと思えるように。


土管の内側も、最後にもう一度確認。私が付け加えた跡は、他の痕跡と溶け合うように調整する。爪痕の間に、新しい線を重ねていく。まるで、誰かと交わした文字のない手紙のよう。


かばんから薄手のヤッケを取り出す。泥で汚れた体操服の上から羽織る。青色の生地越しでも、泥の染みは透けて見えるけれど、それ以上の隠し方はできない。これくらいの方が、むしろ自然。


空を見上げると、霧が少しずつ薄くなってきている。その向こうに、確実に朝が近づいてくる。自転車のサドルは、さっきより湿り気が増していた。でも今は、その感触も大切な思い出の一つ。


ペダルを踏み始める。下着の湿り気が、まだはっきりと残っている。その感覚が、帰り道の道標になっていく。いつもの景色が、少しずつ朝の光を取り戻していく中、私の体は今朝の記憶を確かに留めていた。


家が見えてきた時、空はまだ十分に暗かった。でも、東の空がうっすらと明るくなってきている。庭に自転車を止めると、チェーンの音が朝の静けさの中で妙に大きく響いた。


かばんからビニール袋を取り出す。誰かに見られる前に、急いで服を脱がなければ。ヤッケを脱ぎ、長袖と半袖を一緒に脱ぐ。湿った布地が肌から離れる感触に、最後の名残惜しさを感じる。ジャージを脱ぐと、エンジ色のブルマが露わになる。サイドの白いラインが、泥で茶色く染まっていた。


白いショーツを脱ぐ手が、少し躊躇う。布地全体が泥で染まり、本来の色が判別できないほど。それは今朝の体験の、何よりも確かな証。指先で優しく触れると、まだ生温かい湿り気が残っていた。白のハイソックスも同様に、泥の染みが複雑な模様を描いている。


すべての服をビニール袋に入れ、しっかりと口を縛る。


玄関の鍵を開ける時、手が少し震えた。金属音を最小限に抑えようと、いつも以上に慎重に。家の中は、相変わらず静か。家族の寝息が、かすかに聞こえてくる。


廊下に入る前に、もう一度深く息を吸う。靴を脱ぎ、手に持つ。素足で歩けば、音は最小限に抑えられる。一歩、また一歩。床板のきしむ音に細心の注意を払いながら、洗面所へと向かう。


シャワーの音が気になる。でも、今この体の汚れを落とさなければ。温かい湯が体を包み込む。泥が、茶色い水となって流れていく。その様子を見つめながら、今朝の体験が走馬灯のように蘇ってくる。


体を拭きながら、鏡に映る自分を見つめる。少し赤くなった肌が、確かな体験を物語っている。でも、その痕跡も、すぐに消えていくだろう。


部屋に戻る時も、同じように慎重に。階段を上る時が一番の難関。体重をゆっくりと移動させながら、一段ずつ確実に。手すりに触れる指先が、まだ温かい。


自分の部屋に着くまで、どれくらいの時間がかかっただろう。でも、誰にも気付かれることはなかった。ドアを閉める音さえ、まるで忍び込むような静かさで。


机の引き出しから、日記帳を取り出す。この体験を、どう書き留めればいい?普通の言葉では、この感覚は表現できない。


「今朝、また不思議な夢を見た。霧の中で誰かと出会う夢。服が濡れて、体が温かくなる夢。目が覚めた時、体が少し震えていた。」


暗号のような文章。でも、これで十分。この言葉の向こうに、確かな体験が眠っている。いつか、誰かとこの言葉の意味を共有できる日が来るかもしれない。その期待が、心の中で小さく灯る。


窓の外を見ると、すっかり夜が明けていた。新しい一日の始まり。でも、この朝は私にとって、特別な意味を持っている。誰にも言えない秘密と、誰かと共有できるかもしれない期待と。その両方を、しっかりと胸に刻み込んで。

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