初めての跡
「お姉ちゃん、もう一回!」
翔太の声に、私は目を細めながら頷いた。昨日までの梅雨空とは打って変わって、今日は強い日差しが照りつける。それでも空気の中にはまだ、じめじめとした重さが残っている。
野球の練習だから、今日も私は体操服姿だ。白い半袖にエンジ色のブルマ。左胸の校章の下には、黒い縁取りのゼッケンが付いている。弟や妹と違って、私は体操服を着るのが好きだ。制服より動きやすいし、なにより生地の感触が心地いい。
「はい、投げるよ」
私は身体を斜めに構えて、下投げでボールを放った。小学3年生の翔太には、まだそれくらいがちょうどいい。弟の真剣な横顔を見ながら、白い体操服の袖口をぴんと伸ばす。汗で少し湿った生地が、肌に心地よく張り付いていた。
七月も下旬に入り、夏休みまであと数日。近所の空き地で野球の練習をするのは、この頃の日課になっていた。美咲は小学5年生だけど、翔太より上手に打てる。今日も二人は交代で打席に立ち、私の投げるボールを打ち返していく。
正直に言えば、私は野球が得意なわけじゃない。でも、下投げなら翔太も打てるし、体操服が汚れる心配もない。それに何より、この空き地での時間が好きだった。近所のおばあちゃんたちの井戸端会議も、ここまでは聞こえてこない。
通りがかりの人に挨拶をする必要もない。ただ、弟と妹の成長を見守っていればいい。
「すごーい!」
美咲の歓声に、私は我に返った。翔太が放った打球が、きれいな放物線を描いて飛んでいく。空き地の向こう、工事予定地に積まれた土管の近くまで転がっていった。
「取ってくるね!」
翔太が駆け出そうとするのを、私は制した。
「私が行くわ。そっちは工事現場だから」
きちんとした言葉遣い。これは意識してというより、自然とそうなる。学校でも、家でも、私はいつもこんな調子だ。担任の先生からは「岡田さんは、いつも模範的ね」と言われる。クラスメイトたちは私のことを、真面目で優等生な子だと思っているらしい。
それは間違いじゃない。でも、本当の私のことは、誰も知らない。
土管の近くまで歩いていく。夏の日差しを遮るものがないせいで、アスファルトからの照り返しが強い。額に滲んだ汗を拭おうとして、私は思わず動きを止めた。
汗で湿った体操服の袖が、腕に張り付く感触。
(これ、好き)
心の中でつぶやく。誰にも言えない秘密。でも、これは私の一部。
少し前までは、この感覚を受け入れられなかった。普通じゃない。変わっている。そんな思いに苛まれていた。けれど今は違う。これが私なんだと、少しずつ認められるようになってきた。
蒸し暑い空気の中、遠くで雷鳴が轟いた。
土管の陰でボールを見つけた時、私は不思議な足跡に目が留まった。靴跡ではない。泥の中を、誰かが這いずり回ったような跡。
(これ、まるで……)
でも、その考えを最後まで追うことはできなかった。
「お姉ちゃーん!」
美咲の声に、私は慌ててボールを拾い上げた。空を見上げると、西の方が妙に暗い。
「もうすぐ雨が来そう。今日はここまでにしましょう」
私の言葉に、二人は素直に頷いた。片付けを手伝おうとする翔太の手を制しながら、私は空き地の隅に目を向けた。土管の向こうに、誰かの気配を感じたような。
でも、そんなはずはない。
ここは私たちだけの空き地。昔から、ずっとそうだった。
けれど、さっきの足跡が気になって仕方がない。まるで私の心の中を、誰かが覗き込んでいるような。そんな気がして。
最初の雷鳴から、それほど時間は経っていなかったはずだ。
にもかかわらず、空は見る見るうちに暗くなっていった。西の方角から押し寄せる黒い雲は、もう私たちの頭上に迫っている。初夏の夕立は、こんなにも早く形を変えるものなのか。
「美咲、翔太、先に帰りなさい」
私は二人の手に、それぞれバットとグローブを握らせた。
「でも、お姉ちゃんは?」
心配そうな美咲の表情に、私は微笑みかけた。
「私は後片付けがあるから。すぐに追いつくわ」
実際には、片付けるものはほとんどない。ただ、この場所に残りたかった。今の私には、理由を説明できない衝動。でも、確かにそう感じていた。
「うん、分かった」
美咲は翔太の手を取って、小走りで去っていく。私は二人の背中が住宅街の角を曲がるまで見送った。
その直後、最初の雨粒が落ちてきた。
ポツリ。
ポツ、ポツ。
ポツポツポツ。
まるで打楽器の演奏のように、リズムを刻みながら雨足が強まっていく。私は慌てて土管の中に避難した。
円筒形の空間が、外の世界と私を隔てる。
雨の勢いは増す一方で、今では土管の外は水のカーテンに覆われている。遠くで光が走り、しばらくして低い雷鳴が響く。
(ここなら、誰にも見られない)
その考えが頭に浮かんだ瞬間、私の身体が震えた。期待?それとも不安?どちらとも言えない感情が、心の中をかき乱す。
土管の中は涼しい。コンクリートの質感が、体操服の上からも伝わってくる。
外では雨が降り続いている。体操服は、すでにそこかしこが濡れていた。逃げ込む時に浴びた雨で、特に肩から背中にかけての部分が湿っている。
(この感覚……)
生地が肌に張り付く。いつもより、ずっと強く。
普段なら、こんな状態になることを極力避ける。でも、今の私は違った。むしろ、その感覚を確かめるように、そっと手を伸ばす。
指先が湿った生地に触れた瞬間、小さな吐息が漏れた。
これが、私の本当の姿。
いつも几帳面に整えた制服。きちんと結んだリボン。規則正しく過ごす日々。
もちろん、それも私。でも、それだけじゃない。
濡れた布地の感触に、こんなにも心が昂ぶる。触れるたびに、背筋がゾクゾクする。それも、紛れもない私の一部。
「あ……」
思わず声が出た。動いた拍子に、湿った布地が肌を撫でる。予想以上の心地よさに、目を閉じる。
雨の音が、さらに強くなる。
まるで、私の秘密を守るように。世界から、この場所を隔てるように。
その時、土管の入り口に、見慣れない影が映った。
私は息を呑む。
でも、それは人影ではなかった。土管の前の地面が、雨で削られて少しずつ崩れ落ちていたのだ。茶色い水が、細い川のように流れ込んでくる。
(泥……)
その言葉が、心の中でこだまする。
先ほどの足跡を残していたもの。あの不思議な跡を作っていたもの。
それは、この場所の泥だった。
私は、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が泥に触れた瞬間、小さな衝撃が走った。
想像以上に生暖かい。でも、それだけじゃない。指の腹に伝わる感触が、心臓を高鳴らせる。
(これが、あの跡を……)
先ほど見た不思議な足跡。誰かが這いずり回ったような痕跡。その正体が、今、私の指先にある。
ぬめりとした感触。でも、どこか懐かしい。幼い頃、砂場で遊んでいた記憶が、突然蘇る。
狭い土管の中で、私はすでに体を丸めるようにして座っていた。少し体を動かした拍子に、足が滑る。咄嗟についた手が、泥の中に沈んでいく。
「あっ」
バランスを崩して腰を落とした時、ブルマの後ろ側が泥に触れる。エンジ色の生地に、まだらな染みができた。
慌てて拭おうとした指が、新しい発見を教えてくれた。
この感触。
今まで感じたことのない、不思議な感覚。水分を含んだ布地とは違う、どこか温かみのある湿り気。
(どうして、こんなに……)
私はそっと、泥の付いた部分に触れてみる。
布地の繊維の間に泥が染み込んで、まるで生き物のように見える。いつもは気にして避けていた汚れなのに、今は違って見えた。
むしろ、もっと知りたい。
手のひらに泥を載せて、おそるおそる、ブルマの股の部分に触れてみる。指先が動くたびに、エンジ色の生地が少しずつ染まっていく。その様子に見入ってしまう。
「ん…」
思わずもらした吐息に、自分でも驚いた。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
布地が泥を吸い込んでいく感覚。その瞬間の重み。そして、みるみる変化していく色。
今まで経験したことのない刺激に、背筋が震える。
(これが、私の求めていたもの?)
疑問が浮かぶ。でも、それを考える余裕はない。
次の瞬間、私は両手を泥の中に押し込んでいた。
指先から手首まで、じわじわと沈んでいく。地面の中から、生暖かい感触が伝わってくる。
雨は依然として強く、土管の外は水のカーテンに覆われたまま。その音が、私の鼓動と重なって響く。
(もっと)
理性が警告を発する。でも、身体は既に動いていた。
両手を地面につき、ゆっくりと前に体重を移す。ブルマの前側が泥に触れる。女の子らしい清潔感。誰からも褒められる几帳面さ。そんなものが、今の私には遠い世界の話のように思える。
むしろ、これまでの自分を縛っていた鎖が、一つずつ外れていくような感覚。
泥は私の膝下を包み込み、白いハイソックスが、足首から上へと茶色く変化していく。
(こんなの、私らしくない)
その考えが頭をよぎる。でも、
(でも、これも私)
心の底から、そう感じていた。
雨は私の秘密を守るように、さらに強く降り続ける。遠くで光が走り、低い雷鳴が響く。
その音に合わせるように、私は両手を大きく広げて前に倒れ込んだ。
泥が私の体を受け止める。
体操服の前面が、みるみる茶色く染まっていく。左胸の校章が泥に覆われ、その下の名札ゼッケンも茶色く濁っていく。黒い縁取りではっきりと読めていた「1年2組 岡田陽葉」の文字が、次第にかすんでいく。布地の質感が変化していくのを、胸から腹部にかけて感じる。さらりとした綿生地が、しっとりと重みを帯びていく。
(すごい)
言葉にならない快感が、背筋を走る。
普段の私からは想像もできない姿。でも、それが心地よかった。
むしろ、これが本当の私なんじゃないだろうか。
いつも几帳面に整えていた制服。きちんと結んでいたリボン。誰からも褒められる生徒会役員としての振る舞い。
それも確かに私。でも、今この瞬間の解放感。予想外の心地よさ。制御できない昂ぶり。
それも、間違いなく私の一部。
泥の感触を確かめるように、そっと身体を動かしてみる。
「んっ」
思わず声が漏れる。
シャツの中に泥が入り込んで、直接肌に触れる。今まで感じたことのない刺激に、目を閉じる。
周りの音が遠くなっていく。
雨音も、雷鳴も、全てが遠ざかっていく。
ただ、私の心臓の鼓動だけが、大きく響いていた。
その時。
「誰か、いるの?」
女の子の声が聞こえた。
私は息を止めた。
動きを封じられたように、その場に凝固する。雨音が激しいはずなのに、さっきの声だけが、異様に耳に残っていた。
(誰かいる?)
心臓が高鳴る。でも、それは恐怖だけのものじゃない。どこか期待に似た感情も、確かに混ざっていた。
「だれか……」
もう一度、声が聞こえる。
今度ははっきりと、土管の外から。距離にして、せいぜい数メートル。女の子の声。年齢は、私と同じくらいだろうか。
私は身動きもせず、息を潜めていた。体操服の生地が泥を吸って、全身がじんわりと重たい。その感覚が、今の状況をより鮮明に伝えてくる。
(見つかったら)
その考えが頭をよぎる。でも、なぜか慌てる気持ちはない。むしろ、この状況に、ある種の高揚感すら覚えていた。
背筋をゾクゾクさせる生暖かい感触。鼓動に合わせて全身を包み込む泥の重み。そして、誰かに見つかるかもしれないという緊張感。
それらが混ざり合って、今までに感じたことのない昂ぶりを生み出していく。
「……いないのかな」
声が遠ざかっていく。
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
両手を大きく広げ、思い切り体重を預ける。泥が私の身体を受け止め、やさしく包み込んでいく。
「はぁ……」
吐息が漏れる。
体操服の質感が変化していくのを、全身で感じる。靴下まで染み込んだ泥の重み。ブルマにじわじわと広がる染み。シャツの中まで入り込んできた生暖かい感触。
すべてが、私の感覚を昂ぶらせていく。
(これが、私の本当の姿)
その思いが、確信に変わる瞬間だった。
目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。周りの音が遠のいていく。ただ、自分の鼓動だけが、大きく耳に響く。
その時、目に入ったのは、さっきより大きくなった足跡の群れ。土管の周りに、不思議な模様を描いている。
(これって……)
私は息を呑んだ。
その跡は、間違いなく誰かが這いずり回った痕跡。しかも、一回だけじゃない。何度も何度も、繰り返された形跡。
(私と、同じ)
その考えが、心の中で大きく広がっていく。
私だけじゃない。私と同じように、この感覚を求める人が、確かにいる。
「あ……」
思わず声が漏れる。全身を貫くような、大きな昂ぶり。
今まで感じたことのないような解放感が、私を包み込んでいく。
両腕を大きく広げ、ゆっくりと回転するように寝返りを打つ。泥が私の動きに合わせて、優しく身体を撫でていく。
白い体操服が、みるみる茶色く染まっていく。でも、もう気にならない。むしろ、その変化を楽しんでいた。
普段の私なら、考えられない。
でも、今は違う。
これが、本当の私。
「はぁ……」
深いため息が、自然と漏れる。
全身を包み込む泥の感触。生暖かい重み。そして、誰かと秘密を共有しているような高揚感。
それらが混ざり合って、今までに感じたことのない快感を生み出していく。
(もう少しだけ)
心の中でつぶやく。
雨はまだ強く降り続いている。遠くの雷鳴も、時折響いている。
私は、ゆっくりと両手を胸の前で組んだ。
泥に覆われた体操服が、全身を優しく締め付けるような感覚。その心地よさに、目を閉じる。
(ここなら)
誰にも見られない。
(このままなら)
誰にも知られない。
そう信じていた。
でも。
「やっぱり、誰かいるんだ」
その声は、確実に土管の中まで届いた。
私は息を止めた。
心臓が、激しく鼓動を打つ。でも、不思議なことに、慌てる気持ちはない。むしろ、ある種の期待感すら湧いてくる。
声の主は、さっきと同じ女の子。年齢は、やはり私と同じくらいに聞こえる。
「私も……同じなの」
その言葉が、私の心に深く突き刺さった。
同じ。
その言葉の重みが、全身を震わせる。
私は、ゆっくりと上体を起こした。泥がしとしとと流れ落ちていく音が、雨音に混ざって響く。
土管の入り口に、人影が見えた。
でも、その時。
「陽葉!」
遠くから、母の声が響いた。
「こんな雨の中、どこにいるの?」
その声に、私は我に返った。時計を見る。
「あっ」
予想以上の時間が経っていた。
慌てて立ち上がろうとして、私は足を滑らせた。勢いよく泥の中に倒れ込む。
「んっ」
思わず声が漏れる。
泥が、最後の贈り物をくれたような気がした。
土管の入り口の人影は、既に消えていた。代わりに、新しい足跡が、私の目に入る。
それは間違いなく、誰かが這いずり回った痕跡。
(次は、いつ)
その問いが、自然と心に浮かぶ。
私はゆっくりと立ち上がった。全身が泥まみれ。白かった体操服も、エンジ色のブルマも、もはや本来の色は分からない。
でも、不思議と焦りはなかった。
むしろ、この姿こそが、本当の私のような気がしていた。
「陽葉!」
母の声が、さらに近くから聞こえる。
私は深く息を吐いた。
泥に覆われた体操服が、全身を心地よく締め付ける。その感覚を、最後にもう一度、確かめるように。
明日は、ここに来よう。
その決意が、静かに心の中で形を成していった。
土管の外では、雨がまだ降り続いていた。
母の声は、もう目の前まで迫っていた。
私はゆっくりと土管から這い出る。全身を覆う泥の重みが、最後の別れを惜しむように肌を撫でていく。雨は小降りになっていたけれど、それでも十分な量が残っていた。
「ごめんなさい、母さん」
申し訳なさそうに声を上げると、母の姿が見えた。透明な傘を差しているその目が、私の姿を認めて大きく見開かれる。
「まあ」
一瞬の驚きの後、母は小さく笑った。
「泥んこ遊び?」
その言葉に、私は息を呑む。でも母は、ごく自然な表情で続ける。
「美咲と翔太が心配して。でも、陽葉のことだから、どこかで雨宿りしてるって思ってたのよ」
母は私の頭上に傘を差しかけながら、泥まみれの体操服をじっと見つめた。
「気持ちよかった?」
その問いかけに、私は言葉を失う。心の中で様々な感情が渦を巻く。でも、母の目には優しい光が宿っていた。
「うん」
小さく頷く。その瞬間、これまで気付かなかった解放感が、全身を包み込んだ。
母は黙って頷き、家の方へ歩き始める。私もその後に続く。泥に濡れた靴下が、歩くたびにじゅわっと音を立てる。
「お風呂、沸いてるからね」
何気ない母の言葉に、心が温かくなる。
玄関を開けると、美咲と翔太が飛び出してきた。
「お姉ちゃん!」
「うわ、すっごい泥んこ!」
二人の目が輝いている。そこに非難の色はなく、純粋な驚きと興味だけがあった。
母は私の背中を優しく押した。
「さ、お風呂に入りましょう。体操服、洗濯機に入れる前によく予洗いしないとね」
その言葉に、私は小さく頷いた。でも、不思議と焦りはない。むしろ、この体操服の変化を一つ一つ確認したい気持ちで満たされていた。
浴室の床に落ちる泥水。白かったタオルが茶色く染まっていく様子。シャワーの温かさと、少しずつ洗い流されていく重み。
すべての感覚が、今日の出来事を追体験させてくれる。
「陽葉、体操服置いておくわね」
母の声が、浴室の外から聞こえた。きっと、明日のために新しいものを用意してくれたのだろう。
その気遣いに、胸が熱くなる。
お風呂から上がって、部屋に戻る。窓の外では、まだ小雨が降り続いていた。
布団に入り、目を閉じる。
体は清潔になったはずなのに、まだどこかに泥の感触が残っているような気がした。それは不快なものではなく、むしろ心地よい余韻として全身を包んでいる。
(あの足跡の主は、誰だろう)
その疑問が、期待に変わっていく。
明日も、あの場所に行こう。
そう決意して、私はゆっくりと目を閉じた。
救われたような、そして解放されたような、不思議な安心感に包まれながら。
明日は、きっと晴れる。
そんな予感と共に、私は深い眠りへと落ちていった。