フライ・オフ・ザ・ブリッジ
橋の上からぶん投げられた。瞬間、あ死んだな、と思った。
くだらねえ。最期までこんな感じかよ。くだらねえ。本当にくだらねえ。でも、まあ、しょうがない。いろんなツケが回ってきたんだ。それにしたってくだらねえ。おれってやつは本当にくだらねえ。くだらねえがしょうがねえ。これがおれの人生だったんだ。
一瞬の思考。これが走馬灯ってやつの正体か。そんな風に思った。自分の諦めの早さが、すこし面白かったし、さすがおれ、みたいな妙な満足感があった。恐怖はまったくなかった。いざってとき脳ってやつはとんでもない仕事をするもんだ。
ものすごいスピードだった。落ちる、と言うよりも、地面に吸い寄せられていくという感じ。引力を身体で実感した。空前絶後のスピード感だ。半端じゃない。
ふぎゃっ、地面に叩きつけられたと同時に情けない声が出た。頭から落ちていったと思っていたのに、地面が近づいてくるのをこの目で見ていた記憶があるのに、なぜか背中から落ちていた。脳ってのはよくわからん。
幸い頭は打っていなかった。もし打っていたら間違いなくさようならだった。無意識で受け身を取っていたのだと思う。立ち上がろうとした時、腰に稲妻が走り、また変な声が出た。
立ち去ろうとする橋の上のやつに向かって叫んだ。逃げんじゃねえよこら、かかってこいよ、このやろう。文字通りの負け犬の遠吠えってやつだった。本心では、早くどこかに消えてくれ、頼むからこっちにくるなよ、そう願っていたのだから。
知らない女性がおれに駆け寄ってきた。彼女は、大丈夫ですか、大丈夫ですか、死んじゃうかと思った、死んじゃうかと思った、泣きながら、何度もそう言っていた。一部始終を見ていたのだ。かなり動転していた。
おれはとにかく彼女を安心させようと思い、渾身の笑顔で、大丈夫です、なんともないです、たいしたことないです、よくあることですから、と言った。よくあることですからってのはちょっとした冗談のつもりだったのだが、彼女には通じなかったようだった。
彼女はもう泣きじゃくりながら、なぜかおれの手を握って、大丈夫ですか、あの人なんであんなことするんですか、まともじゃない、まともじゃないですよ、死んじゃうかもしれないのに、なんでこんなひどいこと、なんでですか、警察を呼びましょうか、これって犯罪ですよね絶対、あっそれより病院行かないと、近くにわたしの車があるから病院まで送りますから。とにかくもう、まくしたててきた。
おれはうっとうしいやら恥ずかしいやらで、彼女に早くどこかに行ってほしかった。本当に大丈夫ですから、お気持ちだけで十分ですから、ほらこんなに元気でしょ。そう言って屈伸までして見せた。
本当は大丈夫ではなかった。身体のあちこちから、ちょっとやばいですよー、洒落になってませんよー、って知らせが脳に届いていた。ねっとりとした汗が頭皮から額に流れてくるのを感じていた。だがおれはもう意固地になっていた。なにがなんでも彼女に甘えるわけにはいかない。それだけは勘弁。そう思っていた。
後から考えてみれば、素直に彼女の言うことを聞いていた方が彼女にとってもよかったのかもしれないと、そう思う。当然そこまで気の回るおれではなかった。もしおれがそんなやつだったのなら、橋の上からぶん投げられるはずがない。
しばらくすると、彼女も落ち着きを取り戻し、引いてくれた。最後まで心の底からおれの心配をしてくれていた。おれはよたよた歩いて病院を目指したが、途中でどうにも動けなくなり、結局タクシーを呼んで病院まで運んでもらったのだった。
おれは別にあのときに死んだってよかった。その頃もうすでに人生に前向きな気持ちをもっていないかわりに、人生に後悔もまったくなかった。むしろ満足していた。なんだかんだで、ずっと幸運だったと思うし、今もそうだ。他のやつが見ればとてもそうは思えないだろうが、おれはずっと運に恵まれてきた。おれはおれなりに日々幸せなのだ。おれ自身に関しては。
だが世界はどうにも残酷で理不尽だ。ときに絶句してしまうようなことが人間に降りかかる。それが命や尊厳に関わることならもう最悪だ。なんでだ、どうしてだ、問うてみたって誰も答えられやしない。どうにかできないのか、なにか手はないのか、そう言ってみたってどうにもこうにも。そんなことがある。そこらじゅうにある。おれならいい。おれはもう十分。だが他の人たち、それも若い人だったりすると、やるせないなんてもんじゃない。怒りすら湧いてくる。どこにもぶつけようのない怒りが。
おれが見下してやまない類の物語がある。おれが見下してやまない連中がいる。なにしろぬるい。ぬるすぎる。だが。
だが、その温度こそを救いにしている人がいた。生きる糧にしている人がいた。ぎりぎりで踏みとどまる支えにしている人がいた。その事実に、おれはぶっ飛ばされた。たったの一発で、気を失うかってくらいの衝撃。とんでもないパンチだった。おれがやっていたのは、熱中症のやつをサウナにぶちこもうとするようなもんだった。みんななにかしらを抱えて生きている。辛いのはリアルだけで十分、か。あのとき橋の上から投げ出された命が、あなたに届けることができたなら。都合のいいリアルがどうして存在しないのか。
神はいないのか、って思う。いてほしい、って思う。おれが祈ろうが祈るまいが、なにも変わりやしない。そんなことはわかっている。それでも。祈っても祈らなくても、なにも変わらないのなら、祈るしかないじゃないか。願うしかないじゃないか。無力な自分を呪いながら、それでもすがりつくしかないじゃないか。
ひだまりのねこさん、あなたに神のお恵みを。ゴッド・ブレス・ユー。