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9 伯爵令嬢のお勉強事情

「まず、今日は……光栄で、ありがたいが、大変な一日だったな。みなもご苦労だった」

 居間に家族が揃ったそのまま、最初に父が労ってくれる。

「それでも、我が家にとっては、特別な一日になった」

 噛みしめるように言った父に、母が「えぇ」と潤んだ声で応じる。

 衝立越しではあるが、さっきまで間近に見られた家族の顔である。声を聞き、目をつぶるだけで、いかめしい顔で感嘆を隠す父も、ハンカチを手に目を潤ませる母も、そんな両親を穏やかに見つめる兄すら、まぶたの裏に思い描けた。

「だが、反省も多かったな……」

 苦みを含んだ声の父が、嘆息する。眉間に指をやってもんでいる……ような、気がする。

「アイリーン。……カルヴァン殿下を、どう思った」

「え、ええと……素敵な方でした」

 父が望む答えはわからないが、アイリーンはとりあえず素直にそう言った。

「すらりと背が高くて……姿勢がとてもよくて。立っても、歩いても、座り姿すら、乱れなく整然としていらっしゃって」

 夜の湖を思わせる色の切れ長の瞳や、少し硬そうで真っ直ぐな銀灰色の髪、端正な鼻筋も素敵だと思うが、まず真っ先に浮かぶのがそれだ。座した時、膝の上に何気なく置かれた手指の角度まで、整った印象だった。

「ああ。確かに、宮中作法が骨髄まで染みついているような所作だったな。こんなことを申し上げるのは畏れ多いが、感心してしまった」

 父をこのように瞠目させるのは、並大抵のことではないだろう。

「騎士訓練を長く受けておられることもあるだろうが、やはり王族教育の賜物だろうな。良いか、アイリーン。王族というのは、生まれ落ちた瞬間から受けてきた視線の量が、我々貴族とはまるで違う。常に人に囲まれ、見られていることが当たり前の人生を歩まれてきたはずだ。宮中では、使用人だけでなく大勢の貴族や臣下も、王家の方々の一挙手一投足を注視している。いついかなる時も、どの角度から見ても、仕えるに足る品格を保っていてほしい……そう期待されて、見られているのだ」

 想像するだけで、身の内に震えが走るような話だった。

「茶会の最中にしてもそうだ。アイリーン、気づいたか? カルヴァン殿下は、我々が並べた茶菓子や軽食を、少しずつ召し上がっていただろう。紅茶も少し飲み残されて」

「え、ええ……」

「あれも、王族の食事作法なのだ。恐ろしい、あり得るべからざることだが、毒殺が盛んだったころからの伝統だな。何に毒物を仕込まれていても、まんべんなく食べ、少しずつ残せば、致死量に至らない可能性がある」

「……そんな」

「いざ何事かがあれば、皿に残ったものを調べて、原因を特定することもできる。我が家でも、お下げした皿やカップを、数時間は台所で保管しておく。これは王族にご来駕いただけた名誉にともなう、当然の覚悟だ」

 アイリーンは、愕然とする。幼いころに言い聞かされた、「今日の糧と、それを作ってくれた人に感謝して、好き嫌いなく残さず食べなさい」なんて良識とは、別次元の話だ。

「そして、王族は好き嫌いを決して言えない」

「え、それは……」

「『好き嫌いなく食べなさい』などという話ではないぞ」

 父は、アイリーンの頭の中が読めるのだろうか?

「好物に毒を仕込むなどというのは、荒れた時代にはよくあることだった。そこまで物騒な話でなくとも、王族が一言「美味しい」と言っただけで、王室御用達の看板を勝手に掲げる不心得な店もある。王族は、食の好みを周囲に悟られてはいけないんだ。だから出された皿は偏りなく手を付け、好悪や良し悪しを顔に出さないように、と躾けられる。並んだ皿のどれかを、自分から選ぶこともよろしくない」

「……それでは、何も食べ始められないではないですか」

「だから、臣下が選ぶのだ」

 アイリーンは、今日の茶会の始まりを思い出していた。父母は王子に、真っ先に料理人の得意料理や自領の産物の話をしていた。母はともかく、物堅い父が、あんなふうに自慢めいた話を披歴するのは珍しい。

「饗応する側が、『これはシェフの自信作です』『今日のために特別に用意したものです』と勧め、王族が、勧められたものを手に取りその用意や心遣いを褒めれば、料理のよしあしではなく、『これを食べてくれと勧める臣下の心』を『寛容をもって受け入れた』ということになるのだ」

 ……そんな。そんなこと。自分は、ちっとも。

 思わず膝のスカートの布地を握りしめる娘を、父の声が改めて呼ぶ。

「……アイリーン。これが、王族だ」

 父は、いつも言っていた。王族には敬意を払いなさい。我ら貴族は民の上に立ち、王族は我ら貴族の上に立つ。我らとは全く異なるありようを、代々、血脈と責任で、受け継いできた方々なんだ。

 でも、今日までアイリーンは、その本当の意味をまるで理解できていなかった。

 ――これが、王族。

 何かがこみあげてきて、背筋が震える。今日会った、剣のような人の面影を、改めて想った。

「……まあ、そう脅しつけるものではありませんよ、あなた」

 と、沈黙の落ちた居間に、母の柔らかい声がふわりと落ちた。

「いずれも古い作法です。今は厳密に守られているというほどでもないのよ。王太子妃殿下も、ご自由にしていらっしゃったしね」

「そ、それは。妃殿下は……まあ……ゴホン。ああいう方だしな。臣籍から輿入れしたことでもあるので……」

「場が重くなりすぎないように、あえてそう振る舞ってくださったのでしょうね。好きだとあからさまに口に出され、料理をおいしいと褒める。私たちを親戚として信頼している。そう、態度で示してくれた」

 母の優しさはありがたかったが、アイリーンは、それでも自分が今日ここにあった数々の意図に、まったく無知で無頓着だったのは変わらない、と思った。

「……お父様。私、お庭を散策しているときに、殿下に、お好きな花はありますかって、聞いてしまいましたわ」

「む、それは……。だが、まあ花のことならまだ」

「殿下は、花の名はあまり知らないが、伯爵夫人の丹精されたこの庭は素晴らしいと思う、とお答えでした」

 先ほど父が説明してくれた、料理の勧めの話に通じるものがある、と思えた。

 アイリーンが無邪気に浮かれてこの花が好き、などという話をしている間に、カルヴァンは、母の努力を褒めていたのだ。

 内省するアイリーンに、また母の優しい声がかかる。

「それでいいのよ、アイリーン」

「で、でも私……」

「公平であるべき王族が言えないからこそ、貴族が言うのです。これが好きだ、これが素晴らしい、これが素敵、これが流行っている。黙って微笑んでいる王族の周囲で、そうにぎやかすの。……まして私たちは、王家に封じられた、領主の一族です。自身と民の好き嫌いや流行を追わないで、どうやって領地を盛り立てていくの」

 ――それが、王族との接し方。

 アイリーンは、魔遮布越しにでもわずかに漏れてくる、母の光を見つめた。母の魔法適性は、風と土。土のように温かく支えられ、風のように蒙を開かれた、気がした。

「……お父様、お母様。私、もっとマナーや歴史を学びたいです」

 気が付けば、熱を込めた言葉が口から飛び出していた。

「次があるかは、分かりません。でももし、またあの方にお会いできたときに、もっと恥じない自分でいたい。どうせ家から出られないなら最低限の礼儀作法で十分なんて、もうとても思えません」

 今までも、社交デビューもできない娘に、父母は、家庭教師やマナー講師を付けてくれていた。

 でも、まだまだ足りない。もっと先の知識と教養が、必要だ。

 素敵な方だったなぁ、などと、ほわほわ考えている場合ではない。……『次』を望むなら。

「うーむ……」

「いいじゃありませんの。王家の決定がどうあれ、学んで無駄になることなど何もないわ」

 苦い声の父に対して、母は明るくそう言ってくれた。

「そういうことなら、宮廷作法に詳しい先生を探さないとね。できれば王宮に勤めた経験があって、魔力のない女性。歴史は今見ていただいている先生に、時間を増やしてもらいましょう。ああ、会話術の先生も必要かしら」

 アイリーンに関わる人選には、常に『魔力のない』が条件として付きまとう。

 難しい条件なのでは、と思うが、母の声は弾んで楽しそうだ。

「さあ、これから忙しくなるわね!」

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