4 第二王子殿下の散策事情
こちらの小道から庭を回れるんです、と説明するアイリーンの細い声に従って、緑の多い裏庭から植え込みと花の並ぶ小道に入る。
手を重ねたときの彼女のあまりの華奢さが心配で、エスコートのために腕を差し出せば、伯爵令嬢は恐縮したように手を添えてくれた。さほどエスコートに慣れていない様子だ。親しい男性はあまりいないのだろうか。……いや、デビューもまだだと言っていたか。それなら当然か。
そしてこうなってみると、自分も『令嬢をエスコートをする』ということに不慣れなのだと気づかされてしまって、カルヴァンは己を深く反省した。
もちろん、王子として教育を受けた身だ。紳士としての作法は叩き込まれているし、王宮で母や妹をエスコートしたこともある。が、初めて会う未婚の令嬢を相手にするのはあまりに勝手が違った。
植えてある花の名を教えてくれる彼女の声は、相変わらず耳をくすぐるように感じられたし、小さな彼女の歩に合わせて揺れるスカートのすそが自身の脚をかすめる度に緊張した。見下ろせば、彼女の黒髪が光の輪を作っているのが見える。伯爵夫人も小柄だったが、彼女も同じくらいだろうか。男にしても背が高い方のカルヴァンと並ぶと、頭一つ分は優に身長差があるだろう。その背丈のせいか、十八と聞いた年齢よりは、ひとつふたつ年下に見えた。
そんな小さな彼女が、見上げるように振り返ってくれると、大きな紫の瞳と目が合い、また数秒大きく見開かれた後、恥じらうように目を伏せられる。……目を見開いて凝視するのは、彼女の癖なのだろうか。
そういえば、彼女が立ち現れたときから、なんとなくすっきりとしたシルエットに見えていたカルヴァンだが、単に露出や装飾の控えめなデイドレスだからだな、とここでやっと思いついた。考えてみれば、今まで会ってきた令嬢は王宮に招待していたため、例え茶会でも参内にふさわしい格の装いだった。でも、今日は彼女の邸宅での私的な茶会だ。もちろん、王族を迎えるにふさわしい来客用のドレスではあるだろうが、襟も詰まっているし、黒髪も複雑に結い上げるでもなく、一部をまとめて飾る程度で流されている。襟元や袖がレースと小花を散らしたリボンで飾られているやわらかそうな生地のワンピースは、彼女の穏やかな雰囲気と、春の庭園にとても合っていた。
それにしても。せっかく二人にされたというのに、ご令嬢を喜ばせるような話題がまったく思いつかない。ただ黙って立っているだけの案山子になった気分だ。カルヴァンは再度、己を深く反省した。
これが兄なら――と、カルヴァンはいつもの癖でつい考えてしまう。華やかな笑顔と軽妙な会話術を持った兄なら、ものの数秒で誰のことも笑顔にさせ寛がせることができるはずなのに。自分は、表情も硬いし口下手だ。その自覚はある。
もっとも、もしその兄が今ここにいてカルヴァンの思考を解していたら、「バカかカルヴァン! 今おまえが考えてることをそのまま言えばいいんだよ! 髪が美しいですね、とか、そのワンピースお似合いですね、とか! いっそもう、じっと見つめてくるのは癖ですか? って聞いてもいいよ! どう見ても好感もたれてるだろうが! その好意を自ら口に出させろ! 自覚させろ!」とわめいたことだろうが、残念ながらその兄はここにはいない。
ノエリアがいたときには勝手に立て板に水のごとく流れていた話題に苦慮していると、令嬢から「あの」と遠慮がちに声がかかった。
「……殿下は、騎士団にも所属されていると聞きました」
それは先ほどノエリアが言っていたことだ。基本的なカルヴァンの身上はアディンセル家に送ったから、事前にも聞かされていたかもしれないが。
「ああ、王族の男子には最低三年、軍に所属する義務があるからな。いざことあれば統帥権は国王にある。継承権を持つ者は軍事経験がなければ――っと、あ、いや。……失礼」
慌てて自身の口元を押さえる。兄にすがるような余計な考え事をしていたせいで、口調が乱れてしまった。カルヴァンの身分ならば本来許されるが、淑女には丁寧に接するべき、という紳士の基本マナーに従うつもりだったのに。
だが、アイリーンはどこかほっとしたように笑った。
「いえ――そのお話の仕方がいつものものなら、どうぞお楽になさってください。私も実は、先ほどから、王族の方にふさわしい言葉遣いをしなければ……と思うと、緊張で上手く話せないでいたのです」
「それは……令嬢こそ、楽にして欲しい。もっと……」
もっと声が聞きたい、なんて初対面の令嬢に言ってはいけないよな、とカルヴァンは思った。(「むしろ言えよ!」と彼の兄がいたら以下略)
「その、もっと話をした方がいいと思われて俺たちはこうして散策に送り出されただろうに、言葉遣いが気になって話せないのは、本末転倒だ」
「そう……ですね。あの、お父様には秘密にしていただけますか? もちろん王家への忠誠心からですが、父は礼儀作法に厳しいのです。今日は特に、殿下と妃殿下を我が家にお招きできることになって、非礼があってはいけないとよくよく言い含められておりましたのに……」
薄紅色の唇からこぼれる可憐な苦笑と『秘密』の響きに、カルヴァンは妙に心がざわざわした。
「それなら、俺の非礼もガーランド夫人に黙っていてくれるだろうか。彼女から俺の指導役に話が行くと厄介だ……」
「まあ、ふふふ」
鈴を転がすような、とは、なるほど、これのことを言うのか。そう思わせる令嬢の笑い声だった。
「一応、断っておくが、伯爵やガーランド夫人がいない場で言葉を崩したからといって、決してきみを軽んじているわけではない」
「こんなに丁重にエスコートいただいているのに、そんなこと思ったりしませんわ」
そうだろうか。ただ腕を貸して歩き、彼女の語る花の名に黙然と頷いていただけなのに。
「その……言い訳になるが、確かに騎士団にいた期間が長かったことが、こういうしゃべり方に慣れてしまった一因だとは思う。十五の頃からだから、義務期間を超えて、もう七年ほど軍に籍を置いている」
「ご立派です」
「いや――そうでもない。あくまで王立騎士団の慣例なんだ。王族か公爵家の男子が、ひとりは指揮権があるポジションについているべきだ、という。今は、王族や公爵家の人間が少ないから」
五十年近く前に大陸中を荒廃させた戦乱の影響は、セムラート王国にも色濃く残っている。王族が少ないことや、後継を失って一時王家預かりになっている公爵の家名が二つもあることは、そのひとつ。初代王が蛮族を打ち倒して建国した逸話から、セムラート王室は尚武の伝統を持つ。有事には、王家や公爵家の男子こそ率先して戦地に向かうのだ。
だからこそ、兄やカルヴァンには、よい伴侶を迎えて王家の血を引く子を多くもうけることがずっと期待されてきた。この状況の王室に生まれた、義務というものだろう。
「リングストン公爵家の息子が今年十二歳になるから、あの子が従軍できる年になったら、俺と入れ替わりになるかもな。それまでは……よく勤めたいとは思っている。第二王子としての政務もあるから、訓練や任務も休みがちで、同僚や部下には悪いが」
騎士業に専心している彼らには、騎士としてとても敵わない、と思うこともあるが、それでもカルヴァンは、第二騎士団の副団長を拝命している。「王族男子に軍の指揮経験を積ませる」という慣例のためだ。
見習いのころはともに訓練に励んだ同期たちを、血筋による慣例で追い抜いていく。それは決して愉快な経験ではなかった。だがそれに耐えることも、王室に生まれた義務のひとつなのだろう。
「なんだか、言い訳の上に愚痴めいた話になってしまった。重ねて失礼した。だが、幸い、騎士団の連中は理解のあるいい奴ばかりなんだ。人には恵まれている。それは本当に、そう思う」
ずいぶん情けないことを言い並べた気がして慌てて取り繕ったカルヴァンを、アイリーンはじっと見上げてきた。
紫色。……確かに言葉にすれば同じ色だが、アイリーン嬢の瞳の方が、義姉の瞳より少し淡い色合いに見える。濃い黒髪に縁どられた淡い色彩が、どこか夢のような浮世離れを感じさせた。
強くきらめくノエリアの瞳は、よく宮中で紫水晶に例えられていたが、アイリーンの瞳は、どちらかと言えば菫を連想させる。夜の湖畔にゆれる、小さな紫色の花――
「……さきほどテラスで、あなたを初めてお見かけしたときに」
菫がささやく。
「剣のような方だ、と思いました」
剣? それは……褒め言葉なのだろうか。
「きっと、殿下が、王子としても、騎士としても、国に尽くしてこられたからでしょう。やっぱりご立派ですよ」
菫色が微笑んで、いつの間にか通り過ぎようとしていたパンジーの小道の先を指さす。
「そちらの奥に、私の好きな花があるんです。お見せしてもいいですか?」
「……それは、もちろん」
夢の中のような足取りのおぼつかない気分で、カルヴァンは歩を進めた。散策用の小道のルートからは少しそれた低木の影に、白い花が群生している。
釣鐘型の花弁の先が五枚に分かれて広がっており、白い花の真ん中で、長い花糸と黄色い花粉が揺れていた。園芸花としては素朴だが、神秘的なたたずまいを備えている花だ。
「ラティムス、と言います」
花の名を告げて、アイリーンがカルヴァンの腕から離れて、かがみこむ。
「……そう。あなた、こんな色だったのね」
花を撫でながらの声は小さく、下に向かっていて、ほとんど聞き取れなかった。冗談みたいに華奢だと思った彼女の指が、細い花の茎を摘まんだ。
「殿下。失礼でなければ、この花を、差し上げてもよいでしょうか」
そっと立ち上がり、振り返った彼女の手には、一輪の花が握られている。
菫色の目が、カルヴァンのジャケット襟のボタンホールをちらりと見やった。
それは、もっと昔の騎士の時代の軍装の名残りだ。古の騎士物語には、騎士が出征の折、親しい女性が、そこに花を飾って武勲を祈った伝承が描かれている。
今はそんな習慣は廃れて久しいが、古典的でロマンティックな逸話として覚えている者もある。
親しい女性。つまり……妻や娘や恋人、だが。
いや、古い絵物語だし、深い意味は、ないのかもしれないが。
「今日、殿下にお会いできて、私がどんなにうれしいか。とても言葉にできません。だから、その代わりに」
かすかに震える声と少し潤んだ瞳に、カルヴァンは気が付くと頷いていた。
アイリーンはうやうやしくカルヴァンに近づき、先ほど摘んだばかりのラティムスという花を、カルヴァンのボタンホールに刺す。背伸びするように掲げた白い指が、かすかにカルヴァンのジャケットをかすめ、通り過ぎて行った。
ご立派です、とさっき繰り返し言われた言葉が耳の内に返り、なんだか、花というより勲章でも贈られた気分になった。
「……ありがとう」
礼の言葉をこぼすと、緊張の面持ちだったアイリーンが嬉しそうに顔をほころばせる。
「私こそ、ありがとうございます。受け取ってくださって」
どうして彼女は、ただともに歩くだけで、花を見るだけで、花を受け取っただけで、……こんなに嬉しそうなのだろう。
飾られた花の下の心臓が、きゅうと狭くなった気がした。