31 伯爵令嬢のご多忙事情
魔塔での魔法研究の日々は、アイリーンの想像以上に忙しかった。
くだんのプロジェクトは、当然ながら、カルヴァンの固有魔法をアイリーンが視るところから始まった。
固有魔法の範囲ぎりぎりに近づいて、以前は禁じられた魔法陣のスケッチを、魔塔の研究員たちに見守られながら、描く。
何しろ精緻で複雑な文様なので、何段階にも分けて、「こういう模様の黒い鎖が組み合わさって」「こういう網目で束になって」「全体的な形はこんな風で……」と描き出して説明していく。貴族令嬢の教養で、絵を軽くたしなんでいてよかった、と思う瞬間だった。
その間、カルヴァン殿下は、アイリーンに長時間じろじろ見られてスケッチされるモデルに徹し、ノエリアやレオン主任、ティムなど、魔力のある者はカルヴァンの近くから作業を見守っていた。事情を知らないものが見たら、ちょっと奇妙な空間だっただろう。
アイリーンの描き出す図に、研究者たちは「こんな複雑な魔法陣が自動的永続的に組まれているのか?」「これがそのまま視えるってどういうことなんだ」と口々に言っていたが、やがてダリルが別紙を手に取り、
「全体的なアウトラインはこういうパターンの組み合わせじゃないかと思うんですが……」
と、アイリーンの絵画的なタッチの鉛筆画を、概形だけ抽出して描いてくれた。分かりやすく簡潔な、しかし的確に特徴をつかみあげている図示に、アイリーンは感心してしまう。なるほど、研究者とはこういうこともできないといけないのか。
ダリルの図を片手に、黒い球を凝視し、《反魔法》の文様と見比べると、確かにアウトラインはぴったりだ。
「ここはもう少し角度が付いていますが、確かにここと、ここの、パターンはそのまま視えますね」
アイリーンの補足や手直しも入れて、概形の抽出が進む。それをノエリアたちが興味津々で覗き込む。
「意外ね……正五角形を主に組み合わせた凸多面体に見える」
「てっきり、完全円の組み合わせか、七角形メインの多面体を想像してたな」
「属性関係なく魔力を消せるって話でしたからねぇ」
「五属性……思い切って、フリントの拡散収縮論を検討するべきでは?」
「うっ、光と闇の属性は、魔力の拡散収縮に過ぎない、真の魔法元素は風火土金水である、ってアレかぁ……。眉ツバだと思ってるんだけど私は」
「好き嫌いなんて言ってられんだろ。実際にこれが視えてるってんなら」
「属性に対応しているかどうかは、やはりそれぞれの純粋魔力を当てたときの反応をアイリーンさんに視てもらうべきでは? せっかくレオン班の実験設備があるんですし」
「おっ、やるんすか? やるんすね?」
「そうだな、計測器外して殿下にそこ座ってもらうか」
さすがに専門的すぎる話についていけずに、アイリーンとカルヴァンがぽかんとしていると、不意に呼ばれて、ここに座れ、これを視ろ、変化があれば知らせろ、などと指示される。
言われるがままのアイリーンの説明を、熱心に聞き取りメモを取る一同。そしてまた議論が始まる。
「そもそもだ、ノエリアの七属性はどう視えてるんだ?」
「確かに。あ、でも、アイリーンに私を直接視てもらうのはダメよ」
「九割程度カットできる魔力遮蔽物を置いて視てもらうのはどうでしょう。主任の魔力単位からもっと正確に許容範囲を計算しましょうか」
「ああ、そうね。それはアリね」
なぜかノエリアのことも改めて観察させられたりする。
自分にもっと知識があって、視たものの意味をきちんと説明できれば、とアイリーンには歯がゆいが、研究者たちは、アイリーンの曖昧な見地を解釈するのすら楽しそうだ。
研究は当然、一日二日では終わらず、アイリーンとカルヴァンは、彼らが何か新しい見地を思いつくたびに、魔塔に呼ばれて実験と検証に付き合うことになった。
日々空気が夏色に暑くなりゆく中、アイリーンは家庭教師の授業を休みがちになり、連日のように馬車で魔塔に向かった。その多くで、カルヴァンは送り迎えを買って出てくれた。
アイリーンが恐縮すると、彼は初日と同じように、「きみが心配な俺のためだ」と言い張った。これは直截に「きみのため」と言われるよりも恥ずかしいと思うのだが、カルヴァンには自覚はないのだろうか? ……ないかもしれない。
また、これを見越して、騎士団には時短勤務申請をしておいたのだとも。
一度、馬車の乗り降りの隙に、いつもカルヴァンに付き添っている侍従の青年が「今まで、殿下が真面目で万事スケジュールが優良進行すぎて、自分がずいぶん楽をしてたんだな、と思い知りましたよ。これを機に、調整と根回しの限界に挑みます。俺の有能を知らしめてやるつもりで」とこっそり耳打ちしてくれた。
母とメアリーは嬉しげにいそいそとアイリーンの外出着を増やし、魔道具の素材や薬剤の相談に、ときどき兄もアカデミーから呼ばれる。
このように多くの人の協力を得て、続く日々。
多分に不謹慎なのだが――正直に言えば。アイリーンは、楽しかった。
誰かと協力してチームを組んで、何事かを成すために一丸となる。
そんな経験を、今までしたことがなかったからだ。
研究者たちの情熱のおすそ分けをもらって、努力する過程に、夢中になった。
それに、ほぼ三日とあけずに、カルヴァン殿下に会える。彼の周囲の美しい黒い鎖を、どれだけ凝視しても許される。
それをつい役得と感じてしまう。不謹慎の極みだ。
そうした不純さを力強い陽光の影に包み隠して、夏は過ぎて行った。暑さの盛りは徐々に朝夕にゆるんで晩夏の様相を示すようになり。社交のハイシーズンも終盤に近付いたころ。
十数作目の試作品として、『それ』は完成した。
それは一見、細かな斑模様の光を呈する、黒瑪瑙のようだった。
うずらの卵ほどの大きさの、つるりと丸い黒石だ。ただし。アイリーンの眼には、周囲三十センチほどが黒い紗の球に覆われて視える。――まさにカルヴァンの周囲にあるのに似た、細かく編み込まれた黒い鎖の球だ。
「魔銀鋼で《反魔法》の魔法陣を再現したものを、投射レジンで包んであるわ。私が魔力を込めて魔銀鋼そのものを形成しても、三日程度しかもたない消耗品だけど……実用段階には達したと思う」
徹夜したのかもしれない、少し目元の赤いノエリアが自慢げにそう説明してくれる。このように「試作品ができたから効果を視て欲しい」と魔塔に呼ばれるのも、もう何度目になるか。
「……ええ。殿下のものと同じ、黒い鎖の文様が視えるわ」
このあたりに、と黒い紗の表面近くを撫でる仕草をすると、ノエリアたちが「計算通りの効果範囲ね」と頷き合う。
「耐用日数以外にも、もうちょい小型化軽量化したいっすけどねー。目の近くに置くなら、イヤリングとか髪飾りにしたいすけど、この重さだとペンダントトップが精々っす」
言いながら、ペイスが器用に黒石を銀色の台座に固定し、その台座に細い銀鎖を通す。彼の実家はジュエリーの加工職人をやっていると、この二か月の間に世間話で聞いた。幼いころから貴金属の鍛造や細工物の加工に慣れ親しんだ彼は、ノエリアの金魔法を実技的にサポートしてくれていた。
「はいっ、付けてみてくださいっす!」
ペイスに渡された黒い石のペンダントは、顔に近づけ、黒い紗の膜を超えると、つぷ、と領域を超える感覚がある。これも、カルヴァンの《反魔法》と同じだ。
今日も付いてきてくれていたメアリーが「お嬢様、わたしが」と進み出て、アイリーンの首にペンダントのチェーンを掛けて留めてくれた。
改めて、周囲を見渡す。ペイスやシャーリーの、わずかに視えるはずの魔力は、視えない。実験室内の視界は静かなままだ。
試金石として卓上に置かれていた何種類かの魔石も、光らないただの半透明な石に見える。
「よさそうね。よし、じゃあティムから試しましょ」
ペイス、シャーリー、ダリルら以外の魔力持ちは、カルヴァンの周りに固められていた。これももうこの二か月で慣れた布陣だ。
確認のために、魔力の弱い順にノエリアがカルヴァンの周囲五メートルから追い出していく。
最初にティムが、続いてレオン主任が、そして、ノエリアが。
アイリーンは、思わずノエリアに駆け寄り、彼女の両手を取った。
「ノエリア……! 私、大丈夫だわ。この距離でも、あなたの顔を見られる!」
白く霞むことがない穏やかな視界の中で、従姉の美しい顔がくしゃりと歪む。笑顔なのに、泣きそうな顔に見えた。
「成功ね。――よし、期限ぎりぎり! これを試作品提出しましょう!」
ノエリアの宣言に、室内がわっと沸いた。どの顔にも、疲れとそれ以上の充足感が見える。
「いやぁ、できるものなんすね、二か月!」
「投射剤に行き詰ったときは、どうしようかと思いましたけどねぇ」
「ウォルターくんの助言もらえて助かったよな」
「せっかくですからレポートも添えましょう。属性分類論の部分はぜひ触れておきたいです。論文化の許可が下りるといいんですが」
「よしよし、意欲的でいいわね、シャーリー」
「ダリルの実験ノートがあれば、レポートも論文もすぐに書けそうですからね」
アイリーンは、そんな彼らを見つめながら、首元に下がった黒い石を両手で握る。ひんやりと冷たい、滑らかな感触があった。
「あの、ノエリア。私、これを付けて、少し歩いてみたいわ」
思わずそう言うと、従姉が嬉しそうに笑う。
「そりゃそうよね。気持ちはわかるわ。いいわよ、この建物の周辺くらいなら試しに歩いてきなさいな。……カルヴァン、付いて行ってあげて。もし何か不具合があったら、あなたが助けるのよ」
ノエリアに言われて、少しぼうっとして見えたカルヴァンが、頷いて進み出る。
いつものようにエスコートの手を差し出しかけて、
「ああ、いや、俺が近くにいると効果を試せないんだな」
と、手を引いて数歩下がった。アイリーンから五メートルと少しの距離。実験を繰り返すうち、アイリーンとカルヴァンは、すっかりこの距離感を覚えてしまった。
でも、今はこの距離でもカルヴァンの黒い鎖は視えない。《反魔法》再現の試作品が正しく動作している証左だが、それが少し残念のような気もする。
「少し後ろから付いていくから、好きにしてくれ。アイリーン嬢」
「……はい!」
アイリーンは、自然と弾む足取りで、実験室のドアを開けた。
廊下に人気はないが、廊下の先を見つめても、天上を振り仰いでも、ちりりと眼を焼く魔力の気配は感じられない。魔塔ともなれば高魔力の研究員も多いのに、他階にいるひとの魔力が透けない。
こんなに身軽な気分で歩くのは、いつ以来だろうか。カルヴァンとの距離すら、今は気にしなくていいのだ。廊下を進みながら、ときどきカルヴァンを振り返って、微笑む。彼は黙って少し後ろを付いてきてくれた。
わざと少し遠回りをして玄関を出て、無駄に建物の周囲をぐるりと歩く。
殺風景な、庭ともいえない魔塔の敷地内の景観も、新鮮に見える。
やがてアイリーンは、原理研の建物を一周し、簡素なオープンテラスで足を止めた。
二か月ほど前、この研究が始まった日にもカルヴァンと座ったベンチがそこにある。
「……少し座るか?」とカルヴァンに確認されて、アイリーンは頷いた。
古びた木のベンチにカルヴァンがハンカチを敷いてくれて、それに礼を言い、並んで腰かける。
「すごいですね、これ。本当にできちゃったんですね」
「そうだな」
黒いペンダントを示すと、カルヴァンが目容をやわらげる。
そして、和んだ紺碧の目をふと空に移した。日が傾きかけた時刻、空はまだ夏のものらしく青一色で、けれど秋空の高さも交え始めている。
「――楽しかったな」
ぽつりと言われて、アイリーンはカルヴァンの横顔を見上げた。
「何かを夢中になって成し遂げる、というのは、こういう感覚なんだな。もちろん、成し遂げたのは彼らで、俺は隣で実験台になっていただけなんだが。それでも、楽しかった」
それは。
(殿下、それは、私も)
このかたも同じ気持ちだったのだ、と思うだけで、喉元に何かがせり上がってくるようで、とっさに声が出なかった。
空から宵の星が滑り落ちてくるように、紺色の視線が流れる。
「アイリーン嬢。つまらない、俺の思い出話を、してもいいだろうか」
彼の思い出話が、アイリーンにとってつまらないものであるはずがない。
頷きもできず、アイリーンはただ少し首をかしげて耳を向け、聞く姿勢を取ったのだった。




