23 伯爵令嬢のお支度事情
カルヴァン殿下に会うのは、魔塔に行った日以来だった。なんだか久しぶりの気がする。
手紙で、彼のほうから「登城の準備で忙しいだろうから、しばらくお誘いや訪問は控える」と書き送られてきたのだ。特訓に明け暮れていたアイリーンとしては、ありがたい配慮ではあった。その分、特に用件のない日常をつづった手紙のやり取りは細々と続き、アイリーンの特別にとってある文箱には、宝物がひとつずつ増えて行った。
そして、今日。アディンセル邸に迎えに現れたカルヴァンは、王子としての正装姿だった。
濃いナイトブルーの襟の詰まったジャケットに、金の肩章や飾緒がまぶしい。肩から斜めに掛けられたサッシュは、『セムラートの雫』を模した鮮やかな青だ。胸元と襟を飾る勲章は、騎士団で与えられたものだろうか。
伝統と格式、そして威厳が、王子の長躯を隙なく彩っている。
白手袋の手を差し出して、カルヴァンが言う。
「迎えにあがらせていただいた。アイリーン嬢、今日のきみは、季節外れの雪の精だな」
これも白い長手袋に包まれた指を彼の手に重ねたアイリーンは、純白のドレス姿だった。デビュタントの代わりに、と伝え聞いた王妃陛下のお言葉に甘えて、母が諦めきれずに仕立ててくれていた、デビュタント用の衣装を形を直して使わせてもらうことにしたのだ。
デビュタントのドレスは本来、舞踏会用だ。露出が高く謁見にはあまり向かないので、首から胸元にかけてシフォンを足して、肌を覆った。一方で、裏布を取り換え芯を抜き、初夏の装いに寄せた。元々、一月のドレスにしては軽やかに仕上げるのがデビュタントの正当スタイルだから、さほどの違和感もなく仕上げられた。
「恐れ入ります。……殿下は……なんというか、言葉になりません」
ただただ、この方は王子なのだ、と改めて認識させる姿に胸が詰まり、褒め言葉一つうまく思い浮かばない。
彼は、紺色の目を細めて、アイリーンの手の甲に唇を寄せる。
二度目だろうと、手袋越しだろうと、まったく慣れない。緊張に引き絞られていた心臓が、さらに悲鳴を上げた。
「それでは、行こうか」
彼の手に導かれて、馬車に乗る。後ろから、家族も家の馬車でついて来てくれている。
「――急なことで、驚いただろう」
車内で向き合うと、気遣うようにそう言われた。馬車とはいえ、二人きりの空間は初めてだ。本日正式に登城を要請されたのが、アイリーンひとりであるゆえだろう。
「いえ。王太子妃殿下が、こういうこともあるかもしれないと、前もって教えてくださっていましたから」
「そうなのか。……俺は、急に母上がそろそろきみに会ってみたいと言い出したときに、驚いた。こういう話があるとしても、もっと先だと思っていたから。まして謁見の形式を取るとは」
「まだお披露目もできていない未熟な私に、公式の場を整えてくださいましたこと、心より感謝申し上げます」
「……そう言ってくれるなら、いいんだが」
彼は、気遣う色を改めて、アイリーンに真顔で向き直った。
「デビューおめでとう、アディンセル伯爵令嬢。正式なデビュタントではないが、きみを初の公式の場にエスコートできることを光栄に思う」
「ありがとうございます、第二王子殿下。私こそ、初めて王城に上るこのとき、殿下にエスコートいただけることをこの上なく光栄に存じます」
幾度か乗った馬車は、貴族街も超えて、王都の核心部、王城に向かう。
大きく分厚い正門を超え、いくつかの鉄柵の門を通過する。どこにも衛兵が立っていたが、カルヴァンの顔と、王家の紋章入りの親書を見せると、滞りなく滑らかに進むことができた。
完璧に整えられた、巨大な庭園。並び立つ、壮麗な建物群。それらのうちのひとつで、馬車が止められる。
セレスト宮は、抜けるような明るい空色の屋根を持った、瀟洒な建物だった。
純白の壁を、空色と金の窓飾りが、軽やかに彩っている。
馬車回しで止められた馬車を降り、後ろに付けていた家族と合流する。
だが、入り口で並んで待機していた侍従と女官たちに、「ご家族はこちらに」と早々に別室へ案内されることになった。
「アイリーン、くれぐれも粗相のないようにな」
「あなたなら大丈夫よ。控室で待っていますからね」
「殿下、なにとぞ妹をよろしくお願いいたします」
口々に言う父母と兄に、かろうじて笑みを返して左右に分かれる。
カルヴァンが差し出した腕に手を添えて、回廊を歩く。片側が中庭に解放された回廊は、甘い香りが漂っていた。
中庭に咲き乱れる、白いバラに思わず目をやる。見事な大輪の白バラだ。ふちが青みがかって見えるほどの純白に、高雅な芳香がたゆたっている。
「――きみの家のバラは、結局見に行けなかったな」
ぽつりとカルヴァンが呟き、彼の視線もアイリーンと同じものを追っていたことを知った。
「花の時期は、まだございます。母が色々な種類のバラを植えていますから、夏までは。……このように見事な中庭を拝見したあとでは、当家の庭を見せるのは心苦しゅうございますが」
「そんなことはない。きみの家の庭園では、これから整えられようとする、新鮮で清々しい風景が見られる」
「……ありがとうございます」
また彼を家に招き、庭をともに歩けるだろうか。そうであればいいが。
この手を添えている腕を取れるのが、どれだけ特別なことか。ブラドル夫人に教えを請うたアイリーンには、改めて身に染みている。
「場が整いますまで、控えの間にてお待ちいただきます」
会話が途切れたのを見計らったように、先頭を案内してくれていた女官が告げる。
指定された謁見の時間までは、まだ間がある。国王陛下らはまだ謁見の間にも入っていないはずだ。それを手前の控えの間で待つ。既定の予定通りだ。
おそらく控えの間に続くのだろう、回廊から奥まった廊下の前で、足を止めた先頭の彼女に、左右に付いていた女官のひとりが、何事か耳打ちした。
「それは……ええ、そうね。確かに……」
彼女らは小声でささやき合い、アイリーンの姿に、素早く視線を走らせる。
何かあったのだろうか。
「失礼いたします、アディンセル伯爵令嬢。別室で、お支度を整えさせていただきます」
「……何か問題がございましたか……?」
「髪飾りをお取替えしたほうがよろしいかと。本日の王妃陛下のお召し物に、百合の意匠が入っておりまして……」
はっと心臓をつかまれたようになる。
今日もメアリーが整えてきっちり結い上げてくれたアイリーンの髪には、百合の飾りが挿してあった。生花は匂いが強すぎるので、絹布で作られた造花だが。
高貴の方とモチーフがかぶるのは、何か前もって示し合わせでもない限り、よろしくない。まして今から赴くのは、王妃陛下とアイリーンが相対する謁見の場なのだ。
前もってノエリアが調べてくれた限りでは、モチーフかぶりはなさそうだったのに。何か変更があったのかもしれない。痛恨の調査不足、と言えばその通り。
女官たちも、優美な姿勢は崩さないが若干慌てた様子で、アイリーンの腕を引く。
「こちらへ。こういうときのための、身支度を整えるお部屋がございますから。代わりの髪飾りもご用意いたします」
「それはありがたいのですが、あの」
彼女たちは、どの程度の説明を受けているのだろう。
アイリーンは、カルヴァンから、五メートル以上離れられない。
(こ、これは言っていいことなの? 私の眼のこと、カルヴァン殿下の《反魔法》の範囲――)
迷っている間にも、おそらく百合のことに気付いてくれた、耳打ちをした女官が、アイリーンを控えの間の奥の扉に連れて行こうとする。
「第二王子殿下は、こちらでお待ちください。ご令嬢の髪を解くかもしれませんから」
それは本来、正しい気遣いだ。女性の身支度に、男性が同席するわけにいかない。
「ちょっと待ってくれ」
カルヴァンも焦った声を上げるが、先頭を歩いていた女官に押しとどめられる。彼の力ならば女性のひとりくらい何の妨害にもならないだろうに、王子としてか騎士としてか、彼の骨の髄まで叩き込まれた良識に、女性を力づくで押しのけるという項目は存在しない。
一方のアイリーンも、二人の女官に挟まれるように、開いた扉を超える。高い職業意識のなせる業だろう。やんわりとした手つきに見えるのに、逆らい難い力がこもっていた。
「あの、私――」
そうして、別室の扉が閉じられそうになったところで。
つぷり、と、振り向いた後頭部から、領域を超える感覚があった。
まるで空気と水の境界線、水面に潜るように。その平面を超えた瞬間、世界の密度が変わる。
目の前を、細密に編まれた黒い鎖の文様が、通り過ぎて行った。思わず、その美しく頼りになる黒に手を伸ばすが、当然虚しくつかめない。
(ああ、いけない)
ここはもう、《反魔法》の、外側だ。
そう認識するより早く、目のくらむ閃光が、眼球ごとえぐって脳をひっくり返すような強さで、襲ってきた。
(この、女官の、かた……)
高位貴族並みの、魔力だ。
知覚が認知に結び付く前に、ぐらりとめまいがして。
意識が、暗転した。




