2 第二王子殿下のご来駕事情
二頭立ての王家の馬車は、貴族街を抜け、郊外に向かっているようだった。
「そういうわけで、これから訪問するのは、私の義理の叔父、アディンセル伯爵の邸宅よ。アディンセル家はご存じね?」
車内の座席では、上品な訪問着を身にまとった美しい女が、向かい合ってそう語っている。カルヴァンに去年できた、ひとつ年下の義姉だ。初めて紹介されたときから異様な……凄みと言うか……威圧感があり、年齢や元の身分は関係なく、弟として遇して欲しいと頭を下げてしまった。あの兄が、長く望んでいた『自分の隣に立てる女性』を見つけたのだな、と感慨深かったものだ。
彼女と兄が無事に結ばれ、王家の展望にひとつ区切りがついたとして、次はカルヴァンお前だ、ということになった。第二王子としては、自分の縁談は兄夫妻に後継の男子が生まれてからでもいいのでは、くらいに思っていたが、母が言うにはどうもこういう話は早くから進めたほうがいいらしい。実際、相手探しは始まった途端に暗礁に乗り上げたので、母は慧眼だったということになるだろうか。
五回に及ぶカルヴァンの見合いの失敗を経て、兄のリシャールが妻にも助言を求め、彼女が幾人か令嬢を紹介してくれる運びとなった。今日はその一人目に会う予定を組まれている。
その義姉、ノエリアが上げたアディンセルの名は、もちろん王族として知っている。セムラート建国時から続く名家だ。王国の初期には、北西の国境線であった山岳地帯を領地として任されていたと聞く。元、王国の盾。忠誠比類なきと初代国王に称えられたアディンセル。現在は国境も変わり、山岳地帯の先の丘陵を超えた河川まで国土が延びたことで、国境の守護伯としての役目は終えている。
今のアディンセル伯爵は、耕作地が少ない山地を代々の所領としながら、堅実な領地運営をする、保守寄りの穏健派貴族、とカルヴァンには記憶されている。中央政治からは距離を置いているので、直接会ったことはない。
「私の身内とはいえ、母方が姉妹という血縁だから、政治的な立場は私の実家とはまた違うの。ここはきちんと両陛下とあなたのお兄様にも確認を取ったから安心してね」
カルヴァンは特に危惧したわけでもないつもりだが、ノエリアがそう続けた。
家の相続が男子によるものである以上、貴族が連なる政治の場は、どうしても男性中心となる。ノエリアが嫁いできたルッカート侯爵家は、領地革新と商団運営により莫大な財を築いた改革派だ。議会などの政治活動にはあまり熱心ではないそうだが、その勢力基盤は国内屈指。
バランス感覚を重視するリシャールであれば、自分の妻と同じ派閥から弟の嫁も迎えるのには難色を示しただろうことはわかる。その懸念を先回りして、この義姉が今と同様の説明をしただろうことも。
「義姉上の判断は信頼しています。兄上も良しとしたなら、なおのこと」
ノエリアは、プラチナブロンドの髪を揺らして、紫色の目を細めた。
「では、その信頼してもらった私の判断力にかけて保証するわ。今日あなたに会わせたい従妹は、とっても可愛いわよ。期待しててね。なにしろ、私の従妹だもの」
ドヤ顔すら麗しく見える、恐るべき義姉の美貌だったが、彼女の隣に座したガーランド夫人がコホンと空咳を発した。おっと、と義姉が表情を改める。
ガーランド子爵夫人は、元は王妃の侍女であり、リシャールとノエリアの婚約の折に、ノエリアの付き添い人となって宮廷作法を教え込んだ人だ。婚姻後にはそのままノエリアの侍女となった。
宮廷儀礼と歴史に詳しく、王妃の信頼も厚い年配の貴婦人で、礼節と道徳がドレスを着て歩いている、と言われる女傑だ。揶揄も込めて宮中でささやかれるあだ名は、レディー・エチケット。
王太子妃付きの侍女は幾人もいるが、カルヴァンとの外出時、ノエリアは必ずこのガーランド夫人を伴った。義理の姉弟で出かけるだけで面白おかしい噂がささやかれるのが宮廷と言う場所だが(カルヴァンとしてはそんな恐ろしい事態は想像すらしたくないのだが)『ガーランド夫人が目付けとして帯同していた』と聞けば、万人が「ああ、それなら何もあるはずがないな」と納得する。
「ガーランド夫人が無作法や不道徳を見逃すよりは、太陽が西から昇るほうがまだありそうなことだ」と宮廷雀に言わしめるほどの、生きた信頼証書。それがガーランド夫人である。
王太子妃にふさわしい、楚々とした微笑を浮かべたノエリアが、話題を続ける。
「本当は、ともに社交界に出て、並んでもてはやされるつもりだったのよ。美人姉妹と謳われた母と叔母様のように」
繕ったはずの王太子妃の笑顔は、どこか寂し気に見えた。
「『二妖精姫』は、一世代前の社交界では有名でしたからね。揃いの紫色の瞳が、夢のように美しいと」と、ガーランド夫人が呟く。母世代の社交界も、当然知っている年齢なのだ。
「でも、ちょっと事情があってね。あの子はまだ社交デビューもしていないの。王族をもてなすほどの茶会作法には、ちょっと不慣れかもしれないわ。そこは大目に見てあげて。ガーランド夫人もね」
本日会わせると言われた令嬢は、カルヴァンより四つ年下の十八歳と聞いている。それでデビューがまだなのは、確かに貴族令嬢としては少し遅いだろうか。ないことではないが。
話を続ける間も、馬車は進む。商業地区や平民街も抜け、本当に郊外に差し掛かってきた。
……意外だ。
アディンセルほどの旧家であれば、王城近く、貴族街の一等地に先祖代々のタウンハウスを持っているものではないだろうか。もちろん、金銭的に窮して代々の館を売り払い、もっと安い地所に居を移す貴族もあるが。アディンセル伯爵家に、そんな困窮の時代があったかどうか……覚えはない。
やがて馬車は、民家もまばらな緑地地帯の一角で止まった。しっかりした門扉に囲まれた、一軒の邸宅が佇んでいる。
「さて。それでは、行きましょうか」
ノエリアが、晴れやかに告げる。
「今日はあくまで、私が親族に私的に招かれた茶会という体よ。あなたはそこにいるだけでいいから、気楽に楽しんでね」
今までの見合いの席も、私的で気楽な茶会や食事会と言われていた。王宮で行われた小規模なそれらの顔合わせに、カルヴァンは全敗してきたわけだが。
(そういえば、王宮に招くのではなく、相手の邸宅で、と言われたのは今回が初めてだな)
これも『ちょっとした事情』とやらのせいなのだろうか。社交デビューが遅れている娘、郊外にひっそり暮らす一家。なにやらとんでもない箱入りを想像してしまうが。しかし、心身や素行に問題のある娘を、この聡明な義姉が一等に紹介してくるとも考え難い。
首を傾げながら、カルヴァンは侍従が開いた馬車の扉を、押しくぐった。
義姉とガーランド夫人に手を貸して馬車からおろした後、改めて邸宅を眺める。
と、開いた門扉の前まで、風体からして伯爵当人であろう貴人が、おもむろに出てきた。続いて、伯爵夫人だろう女性と、令息らしき青年が続く。
このように家人にそろって門まで迎えに出られることは、王族とはいえそれほど多くない。従僕に任せて館まで案内させても、十分礼にかなうのだ。
白髪交じりの黒髪をきっちり撫でつけた物堅い印象の貴人が、深々と頭を下げ礼を取る。並んだ貴婦人と青年も、揃って黙礼した。
「王太子妃殿下、第二王子殿下、この度はかように鄙びた小宅にご来駕いただき、歓喜に耐えません。アディンセル伯爵家当主、オルコットがご挨拶申し上げます」
「いやだわ、叔父様。そんなにかしこまらないで。今日は義理の姪が、新しくできた家族を連れて遊びに来ただけなんですのよ」
「そういうわけにはいきません。妃殿下は、王籍に入られた瞬間から、それまでの縁故を離れ、殿下と呼ばれる御身にお成りなのですから」
応対したノエリアが、開いた扇の影で苦笑し、カルヴァンに向かって軽く肩をすくめて見せる。堅物で困っちゃうでしょ、と言いたげだが、カルヴァンはアディンセル伯爵の物腰や厳格な顔つきに好感を持った。生まれた時から王族として躾けられてきたカルヴァンは、どちらかと言えば、礼儀と距離を保って対応される方が安心できる。ガーランド夫人も心なしか満足気だ。
そして、それなりにカルヴァンと近い距離にいるというのに、誰一人として顔色を変える者がいない。これだけの名門貴族となれば、誰も魔力素養がないことはないと思うが。
立ち話もなんですから、と、伯爵直々の先導で、門内に案内される。
郊外の館らしく広々とした庭園は、良く整えられて美しかった。
時節はまさに春。庭木の新緑が目に優しく、随所に花が咲き乱れている。門と館の中間に据えられた噴水が、清らかな水を噴き上げ、春の午後の日差しをきらきらと弾いていた。
カルヴァンは自然と伯爵の隣に並んで歩く形になり、それでも全く崩れがない伯爵に感心した。少し遅れてノエリアは、貴婦人と「お久しぶりですね」などと和やかに語らっているようだった。その後ろで、青年が貴公子らしくガーランド夫人をエスコートしている。
伯爵家の人々は服飾も含めて立派で清々しく、歩いていく庭園も、仰ぎ見た田舎風の邸宅も、きちんと手が入って見えた。
何か困った事情を抱えているようには、あまり見えない。
寡黙な伯爵と並んで歩くと、すぐに館の玄関にたどり着いた。
両開きのドアをくぐった玄関ホールには、中央に花が飾られており、いい香りがした。
広く空間を使った、典型的な貴族の邸宅だ。玄関ホールを超えたすぐの応接間に定番通り案内される。
途中、ホール脇を示され、そこは待合室になっており、侍従や御者を後ほど案内する、などと細やかな補足もされた。執事やフットマン、ドアの両脇に待機していた上級メイドの他はほとんど人を見かけないが、それは人が少ないというより、使用人はみだりに貴人の前に出ない教育が徹底されているのだろう。人の気配はあるが静か、というのは、王城でも馴染んだ感覚だ。
応接間は、落ち着いたしつらえだった。館自体は新しいものに見えるが、調度は歴史を感じさせるものが多い。
まずは座ってください、とベルベッド張りのソファを勧められる。腰を落ち着けたところで、改めて伯爵から「こちらは家内のエミリア、そして息子のウォルターです」と紹介を受ける。
「下に娘もいるのですが……そちらはあとでご挨拶いたします」
見合いの手順、ということだろう。貴族令嬢に門扉の前まで迎えに出られても困ってしまうので、別におかしなことではない。
ただ、王族との見合いに父母が同席することは普通だが、兄まで顔を揃えることは珍しいな、とカルヴァンは思う。一家を上げて歓待する、というポーズだろうか。それとも箱入りの印象通り、過保護なのか。
更に伯爵は続ける。
「本日は陽気もたいへんよろしいですし、庭の方に茶席を用意してございます。よければそちらにご案内したいのですが」
季節柄と今日の日和からして、庭園でのティータイムは定番である。まして、あれだけ整えられた庭園があるのだから。
カルヴァンもノエリアも、もちろん、と応じた。
「叔母様の庭園は素晴らしいもの。久しぶりにゆっくり眺められるのは嬉しいわ」と明るい声を上げるノエリアに、伯爵夫人が微笑みを返す。栗色の髪をしたたおやかな夫人の瞳が、ノエリアとよく似た紫色であることに、カルヴァンはここでやっと気付く。いまだに可憐な雰囲気をまとった小柄な貴婦人は、確かに若い頃は社交界で妖精に喩えられてもおかしくない気がした。
伯爵が執事と軽く指示のやり取りをしたり、ガーランド夫人がノエリアのために日傘を準備したり、といった間も十分に取られ、終始ゆったりと細やかな雰囲気でことは進んだ。
ノエリアは『親族に私的に招かれた茶会』などと言っていたが、伯爵は王族にふさわしい歓待をするつもりで入念に準備したことがうかがえる。『忠誠比類なきアディンセル』の伝統は、今も息づいているのだろうか。
一同は応接間から広間に移り、テラスを経て裏手の庭へと移動する。木立の影も涼しげなそこに、ガーデンテーブルがしつらえてあった。真っ白なクロスに、ところどころグリーンがあしらわれている爽やかなテーブルセッティングだ。
給仕たちが優雅な挙措で椅子を引き、あらかじめ決められていただろう席次通りにそれぞれが着席した――あたりで、執事が進み出てきて伯爵夫人に耳打ちした。
「ああ……娘の支度が整ったようです。同席させてもよろしいでしょうか」
どちらかといえばカルヴァンに視線を向けて問われる。隣に座ったノエリアが「ああ、よかった。出られそうなのね」と小声で呟いた。どういうことだろう。ここまでのお膳立てをしておいて、当の令嬢がここに参加できない可能性でもあったのだろうか。
若干不思議に思いつつ、カルヴァンは当然快諾する。
「ご令嬢にもお目にかかれれば光栄です」
「ありがとうございます。……では」
夫人の手の合図で、テラスの窓が開かれる。メイドに付き添われて、ひとりの黒髪の令嬢がしずしずと歩いてきた。