12 伯爵令嬢の私室事情
「そうだ、アイリーン。殿下にあなたの部屋をご案内したら?」
ぽむ、と可愛らしく両手を打ちあわせた母の、さも名案を思い付いた、と言わんばかりの声に、アイリーンは目を見開いた。
今日は、二度目となるカルヴァン第二王子のアディンセル伯爵邸への訪問が叶った日だ。
公園散策からしばらくして、カルヴァンから、近々王都の外での仕事があるが、その帰りにアディンセル家へ寄ってもいいだろうか、と手紙が来たのだ。前回と同じ筆跡、筆致。……やはりこれは直筆かもしれない。
手紙には、庭のツツジが咲いていたら見せてもらいたい、とも書き添えられていた。
この日は、父に仕事の打ち合わせで外出予定があり、兄もアカデミーで外せない講義があるそうで、母とアイリーンで対応することになった。父が言うには、すでに一度訪問を受けて顔を見知った貴族家ならば、旅行の足休めに寄ることも十分あり得る、らしい。この場合、あまり仰々しくし過ぎないほうがいいだろう、とのこと。公務での視察帰りとのことだから、お疲れでもあろうし、茶など軽く差し上げてお寛ぎいただき、くれぐれも煩わせたり引き止めたりしてはいけない、と言い聞かせられた。
もちろんである。アイリーンとしては、多忙であろう第二王子が、足休めにでも家を使ってくれて、わずかでも彼に会える機会があることがただただ嬉しい。庭園のツツジを見たい、という名目も喜ばしかった。
王族をもてなす作法は、現在急ピッチで勉強中である。今度こそ失礼のないように振る舞おう、と固く決意した。
そして今日。馬車ではなく馬に乗って現れたカルヴァンは、慌ただしい訪問となったことを詫び、視察先の隣町の名産だという星形の砂糖菓子を土産だと言ってアイリーンにくれた。……しみじみと優しい御方だ。
アイリーンと母は、彼と随伴者たちを出迎え、茶や軽くつまめるものを供した。
そうして一休みしてもらってから、疲労はないか確認し、カルヴァンに庭園を再び案内した。ちょうどツツジの盛りを合わせられてよかった。この日のために、母とともに花の様子を注視してきたのだ。カルヴァンも穏やかに花を褒めてくれ、色の配置の工夫についてなど聞いてくれた。
しかし、短い散歩は、すぐに終わってしまう。いや、そうでなくてはならない。
この段階で、最低限の護衛を残して、随伴の騎士や従者は王城に帰されている。公務帰りなのだ。報告などもあるだろう。くれぐれも煩わせたり引き止めたりしてはいけない、という父の言葉を反芻し、アイリーンは、少し寂しいけれどもうカルヴァン殿下もお返ししないといけないのだろうな、と思った。
と、そこで、母が言い出したのだ。あなたの部屋もご案内したら。
アイリーンの私室は、貴族令嬢の多くがそうであるように、続き部屋だ。私的な客を通したり勉強したりするための居室と、寝室やパウダールームの完全プライベート空間に分けられている。
この手前の部屋までなら、身内ではない男性を入れてもマナー的に大丈夫……の、はずだ。密室にならないようドアを開いておくとか、できれば家族同伴で、といった注意事項はあるが。そしてアイリーンの部屋は、メアリーとハウスメイドたちが、いつも綺麗に保ってくれている。見られて恥ずかしいものはない、とは思う。
でも、いいのだろうか。
これは煩わしい引き止めにあたらないか? 会って三度目の王子様を私室に入れたいというのはなんだか図々しいのでは?
脳内の父は怒る気がしたが、目の前の母は実ににこやかだ。
迷いながらアイリーンは、カルヴァンの様子をうかがう。
彼は、少し躊躇する様子ではあったが、アイリーンと目が合うと、「アイリーン嬢がお嫌でなければ」と言ってくれた。
よかった。彼が良しと言うなら良いのだろう。もう少しここに留まってくれるなら、それだけで嬉しい。
再度飲み物を部屋に用意するようメイドに頼んでから、アイリーンは屋敷二階の東の棟へカルヴァンを導いた。母にもついてきてもらい、私室に入った後も、念のため廊下に通じるドアは半ば開いておく。
自室を見せる行為には少なからず緊張があったが、カルヴァンが「可愛らしい部屋だな」とまず言ってくれたので、ほっとした。
外に出られないアイリーンは、多くの時間を過ごすこの部屋を、自分にとって快適な空間にすることに腐心してきた。
壁紙は落ち着くミントグリーン。家具は木目調でまとめている。
入り口ドアを入ってすぐの一番目立つ壁には、家族の全身が入った大判の肖像画があり、カルヴァンの視線も最初にそこに向かった。
「毎年、画家に頼んで家族の肖像画を描いてもらってるんです。みんなを描いてもらってから、私の姿も加えてもらって」
「ああ……」と、カルヴァンの口から納得の声が漏れる。
肖像画はアイリーンにとって、『今の家族の姿』を確認する大事な手段だった。毎朝、この肖像画を眺めるところからアイリーンの一日は始まる。
「肖像画描きは、少し美化して描いてくれるくらいが人気が出るものですけれど、実物そのままの絵を描くと評判の画家を探しましたのよ。五年前から、当家の毎年の慣例です」
母も、絵を見上げながらそう補足してくれる。なんだか、不思議だ。こうして母と並んでこの肖像画を見ているなんて。
中心となるこの絵の付近には、母の横顔の小作や、兄の小さい頃の絵もかかっており、「叔母様たちだけずるい!」とノエリアが自前で描かせて送り付けてきた彼女の肖像画もある。アイリーンにとって、部屋で一番大切な一画だ。
その隣の飾り棚には、家族からもらったプレゼントや、たまの外出で買った小物が飾ってある。思い出の詰まった、心和む空間だ。
今日カルヴァンからもらった星の砂糖菓子の包みも、しばらくここに飾りたいな、とアイリーンは思った。もったいなくてすぐには食べられない。幸い、日持ちしそうな品である。
飾り棚の前には小さなティーテーブルが置かれており、添えられた椅子をカルヴァンに勧めた。
彼は軽く礼を言って椅子に掛けたが、目は興味深そうに室内を見回している。
……なんだか、自分の内面をさらしているようで、ドキドキしてきた。
「ずいぶん大きな本棚ですね。アイリーン嬢は読書家だ」
飾り棚のさらに奥の本棚をテーブル越しに見やって、カルヴァンが呟く。そこには、アイリーンの好きな小説や、ノエリアにもらった魔法の教本なども入っているのだが……。
「ええと、確かに本は好きですが、読書家と言いますか……」
これは言っていいのだろうか。令嬢らしからぬ趣味と思われるのでは。思わず、母をちらりとうかがうと、許容的な微笑が返ってきた。……大丈夫ってことなのかしら。
アイリーンは、本棚の下半分に大きく幅を占めて並ぶ帳面の一冊を引き出して、テーブルに広げた。そこには、大小さまざまな紙片が、項目別に貼り付けられている。
「新聞や雑誌から、気に入った記事を切り抜いて集めているんです」
「……スクラップブックということか?」
「はい。ノエリア……様が、王太子殿下と婚約されたとき、色々な新聞が、銅版画付きでその話題を取り上げていたんです。どれもとても綺麗で、公表された夜会の装いなども描かれていて。そうして妃殿下の晴れの姿を見られることが嬉しくて、色々な新聞雑誌を取り寄せて、記事を集めるのが癖になりました。そうして様々な記事に目を通すと、新聞の片隅に、父が領地で携わった事業の話が載ったり、母が手がけた領地の産物の話題が出たり、兄がアカデミー成績優良者の一覧に名を連ねたり、することがあって……」
アイリーンには、直接この目で、家族の外での姿を見ることはできない。でも、こうしてそれを間接的に知る手段がある。王太子の婚約式のような特に大きな話題であれば、絵や図版入りで特集されることもある。
そうしたものを大切に切り抜いて、項目ごとにスクラップブックにとじてあるのだ。
一番扱いが大きく何冊にも及ぶのはやはりノエリアの冊子だが、父のそれも、母のそれも、兄のそれも、宝物である。
「ずいぶん色々な新聞に目を通しているんだな」
広げたスクラップブックをぱらぱらとめくりながら、カルヴァンが感心したように言ってくれる。
「時間はたくさんあるもので……お恥ずかしい話です。あの、最近は、カルヴァン殿下の記事もさかのぼって集め始めました」
「そ、そうか」
ちょっと微妙な顔をされた。先日、某紙の社交欄で『第二王子殿下が謎の令嬢をエスコート? 恩賜公園の密会!』なる記事を見かけて、つい切り抜いてしまったことは秘密にしておこう。
別に謎の令嬢ではないし、母もいたから密会でもない。なるほど、新聞ってこういうものなのか、と思いはした。でも、彼の服装の詳細な記述などもあったから、嬉しくなって。一応、記念に。
ここで、メイドが部屋に茶を持ってきた。いかがですか、とカルヴァンにカップを勧めて、アイリーンも座って一息つく。母はすでに部屋の片隅の揺り椅子に腰かけて、にこにことアイリーンたちを見守っていた。
座り心地のよい揺り椅子。可愛い文机。綺麗な色のインク瓶とペン。ここは何もかも、居心地の良いアイリーンの好きなものでできている。
「アイリーン嬢」
茶を一口含んだカルヴァンがカップを置き、正面から目を合わせて、言ってくる。
「部屋を見せてくれて、ありがとう。……きみのことが少し知れたようで、嬉しい」
改めて言われて、強い羞恥と、妙な歓喜に、同時に襲われた。
自分を知ってもらうのは、恥ずかしいけれど嬉しいことなのだ、とはっきり認識する。
頬と耳に熱が集まるのを自覚して、アイリーンは目を伏せる。
「……あ、ありがとう……ございます」
礼を言うのが適切なのか、わからない。でも気が付けばそう口に出していた。
今日もカルヴァンは、紅茶を少し飲み残し、フィンガーフードを少しずつ口に入れていた。王族教育の徹底された王子様。
最初の茶会が終わって、父に王族の作法を教えられたとき。
そのあまりに自制的な生き方に、アイリーンは総身が震える心地がした。
驚き、畏怖、それとも……少しだけ、嬉しかったのかもしれない。
彼がどのようにして形作られたのか。その一端を、知れた気がしたから。
歴史や作法を学ぶことは、彼の本質にわずかなりともつながっていると思えた。だから、もっと学びたくなったのだ。ただ、彼の前で恥じない振る舞いをしたいと思ったためばかりでなく。
自分が、彼のことを知りたいと思ったように。
自分のことも、少しでも、知ってもらえたなら。……それは、嬉しいことだ。
(ああ、だから、お母様は部屋をご案内したらって、提案してくれたのね)
母の心遣いに感謝しながら、アイリーンは、もうしばし、他愛ないにぎやかしのような、自室内の好きなものの話を続けた。




