10 伯爵令嬢の初デート事情
無駄になる覚悟を持って備えよう!と奮起したアディンセル家だったが、二日と経たないうちに王室から便りがあって、騒然となった。
父には王家からの内意通達があったようだが、アイリーンにはカルヴァンからの手紙が来た。
まさか、直筆……だろうか。はっきりと読みやすい文字で、先日の茶会の礼と、お返しがしたい旨、まだツツジは咲かないかもしれないが、公園散策をご一緒するのはどうか、よければ伯爵夫人も同伴で、と提案が書かれている。
ツツジ。……カードはちゃんと読んでもらえている。
だが、あまりに展開が急だ。もしかしたら一か月後また、くらいに思っていたのに。
しかも、手紙を携えてきたのはカルヴァンの侍従で、「殿下の予定は把握しているので、ご都合のいい日を教えていただければ、その日にセッティング可能かどうか、この場でお答えできますよ」などと言う。
あまりに展開が急だ。アイリーンの予定など白紙に等しいが、なんとかかんとか、二週間後の日取りを決定する。
二週間! まだ何もできてないのに! 一夜漬けの詰め込み学習がせいぜいではないか!
父は、どんな内意を受け取ったのか、非常に渋い顔で「まあ……光栄なことだから……がんばりなさい。いや、だが悪い噂が立ってもいけないから、エミリアも同伴しなさい」と言っていた。
幸い、母の伝手で礼法の講師は見つかり、泣きついての短期集中授業を組んでもらった。
「公園散策程度なら、考えるべきことはそれほど多くありません。大丈夫ですよ」とは言われたが、不安は消えない。
それでも、精一杯の準備をして迎えた、その日。
アイリーンは、ワードローブでほとんど埃をかぶっていた薄紅色の外出着と、揃いの帽子を身に着けて、そわそわと自室で迎えを待っていた。
本日は貴族街近くにある、恩賜公園を訪れる予定だ。何代か前の国王が離宮だった土地を解放して、出入り自由の公園に整備した場所だ。元々広く美しい庭園を備えた離宮だったので、庭園をぐるりと歩くだけでも見どころは多い。
窓の外は、今日もいい天気だ。日はまだ午前中。朝である。貴族の外出には早い時間だが、その分、公園ですれ違う人も多くないだろうと、アイリーンの事情に気を遣ってもらったようだ。
もちろん、夜会などにまったく縁がないアイリーンは、早寝早起きの健康優良児だ。この時間でも十分活動時間である。
やがて、邸宅の空気がどこか慌ただしくなって、門前に馬車を付けられたことが分かった。
正面の庭の道を通ってくる人影が見える。いや、実はアイリーンにとっては、人影、と称するのは少し難しい光景が見えている。
あえて言えば、黒く薄い紗がかかった球体が、移動してくる。……とでも言うか。とても薄い膜のようなものなので、中は透けて見える。おそらく、侍従を伴ったカルヴァンだ。
初めての茶会の日もアイリーンは、門扉まで迎えに出た家族が、彼と従姉を伴って戻ってくるのを見た――のだが、予想外の光景に驚いてしまった。それでも、その黒い膜内に透けて見える一団は、目に痛くはなく、実験はおそらく成功、と伝言した。従姉から事前に、遠目に様子をうかがって、大丈夫そうかどうか確認しなさいと指示されていたからだ。
おそらくあれが、彼の固有魔法なのだ。その紗に覆われたものは魔力の光を失い、アイリーン自身がその内に入ると、紗を超えた先もまぶしくなくなる。すごい。
ブーツに包まれた足がちりちりして、今にも走って出迎えに行きたくなったが、アイリーンにはそれはできない。手順が必要だ。
玄関では、同じく外出の装いをした母と、仕事やアカデミーに行く前の父兄が彼を出迎えるはずだ。三人にはカルヴァン殿下に失礼のない範囲で近づいてもらって――黒紗の球は、カルヴァンを中心に半径五メートルほどなので、十分可能である――そこでやっと、アイリーンが呼ばれて、玄関に降りていくことができる。
「お嬢様、お呼びですよ」
ドアの外から声とノックがかかり、アイリーン付きメイドの、メアリーが顔を出す。愛嬌のある丸顔の可愛い娘だ。髪結いや裁縫も上手く、今日の装いも彼女の手を借りている。
彼女は、準備してあった日傘やバッグを取り上げ、立ち上がったアイリーンの後ろでそれを捧げ持った。
「いよいよお嬢様も、外に出られるんですねぇ……!」
メアリーは感激の面持ちだ。アイリーンがこんなことになった五年前、急遽、ランドリーメイドから令嬢付きに取り立てた娘だが、ずっと、よく働いてくれている。
「いやね、今までだって、まったく外に出られなかったわけじゃないでしょう?」
「人気のない湖にピクニックとか、貴族の出入りがない平民街のお祭りを見物に行くとか、ですね。お祭り見物のほうは、結局、お忍びの貴族だか妙に魔力の高い平民だかとすれ違って、お嬢様は具合を悪くなさいましたよね」
「……あのときは、メアリーに迷惑をかけたわね」
「勤めのひとつです! 迷惑なんかじゃありません! でも、そんなお嬢様が、貴族街の公園デート! それもあんな素敵な王子様と!」
……デート。そういうことに……なるのだろうか。いや、軽い外出だけれど。日も早い時間に公園を散策するだけの、ごくごく健全な外出だけれど。母も同伴だし。
「今日のお嬢様には、メアリースペシャルもついてます! がんばってくださいね!」
「ありがとう」
外出着とセットの薄紅色の帽子には、必要があれば前に垂らせる魔遮布ヴェールが、レース飾りのように見せて仕込んであるのだ。完全防御ではないが、いざというときに眼への負荷を少しは軽減できる。
なお、アイリーンの帽子には、ほとんどにこのメアリースペシャルが仕込まれている。茶会の日も、いざとなったら日差しが強いのでと言い訳をしてヴェール付き帽子をかぶろうか、なんて話していたものだ。
部屋を出て、吹き抜けの玄関ホールに続く階段を下りる。ホールの中央の黒い球に向かって、どきどき歩を進める。
近づけば、黒い紗が、鎖のように編まれた魔法陣だとわかる。細かな刻みの入った細い細い鎖が、精緻な文様を描きながらさらに太い鎖に編み込まれ、さらにそれが編まれた線の構成を成し、またそれが組み合わさって……と、何重構造にもなった膨大な情報量が、立体の魔法陣を組み上げている。
球に踏み込み、その紗の領域を超えると――まるで綻ぶように、多重の鎖が広がり、溶け消え、そして。
その中央に、真っ直ぐに姿勢よく立つ、銀の剣のような人が、現れる。
先日は、濃いグレーのジャケットが凛々しかったが、今日のベージュのフロックコートも、彼のすらりとした長身に似合っている。
(……今日も素敵)
思わず、ほうとため息が出そうになった。今まで、どんな魔力を持ったひとも、こんなふうに見えたことはない。あまりに物質的な魔力視は、固有魔法の持ち主だからこそ、なのだろうか。
(これはきっと、私だけに見える、この方の姿だ)
この話はまだ、誰にもしていない。魔法を筆頭とした王族の能力は、王家の財産。そう聞いたことがあるからだ。軽々に誰かに話してはいけない気がした。……この独特の美しさを自分の胸だけに温めておきたい気持ちがあることは、否定できないが。
王太子妃であるノエリアには、直接相談したいことがある、と手紙を送ってあるけれど、とても忙しい人である。まだ会えていなかった。
「おはようございます、殿下」
淑女の礼を取ると、カルヴァンも挨拶してくれた。
「おはよう、アイリーン嬢。今日は急な提案をご快諾いただき、ありがとう」
そうか。先方の提案をこちらが受け入れた、という形になるのか。気持ちは二つ返事で了承だったので、今まで失念していた。
「それと――」
彼は居住まいを正して、アイリーンの傍らを見やった。そこには、アディンセル家の面々が並んでいる。この二週間、何かと協力してくれた家族たちだ。久しぶりに会う、という感慨は薄かったが、やはりこうして顔が見えるのは嬉しい。
「先日おうかがいしたときは、ご事情に疎く、十分な配慮ができずにいました。その……必要があれば俺は後ろを向いていますので、ご一家で少しお話いただいてもかまいません。まだ時間も早いですし。……抱擁、ですとか。今までできていなかったと思うので」
少し気恥しそうにそう言われて、アイリーンは、頭の中の何かをスコンと射抜かれた気がした。
母は「まあ!」と喜色を浮かべ、父と兄は呆然と目を見開いている。
あの後ノエリアからもらった手紙には、カルヴァンにはアイリーンの体質をほとんど説明せずに連れて行ったのだと書いてあった。
それでもあのときは、茶会の最中に時々視線を交わして涙ぐむような母やアイリーンの素振りを、不審と咎めることもなく見逃してくれた。それだけでも十分だったのに。
「ご配慮ありがとうございます、殿下。……お言葉に甘えますわ。アイリーン」
母が、クリーム色の外出着に包まれた腕を柔らかく広げてくれる。アイリーンは、躊躇なくそこに飛び込んだ。
帽子のつばが触れ合うような距離でやっと、自分の背が母より少し高くなったことに気付く。柔らかな体温。温かな香り。両腕いっぱいに、母の存在を感じる。ああ、そうだ。子どもの頃にはいくらでもしていたこんなことすら、この五年間、できていなかったのだ。
涙が浮かびそうになったが、メアリーが頑張ってほどこしてくれた化粧を落とすわけにはいかない。ぐっとこらえて、微笑んだ。母も、目元に力を入れているのが分かる微笑を浮かべる。
母の腕を十分に堪能してから、父の方に向かったが、「いや、アイリーン、私は大丈夫だ。殿下の前でそのような事を」なんて言うので、問答無用で背伸びをし、肩に腕を回して、頬にキスをした。
そのまま兄の前に横移動すると、彼は苦笑しながら少し身をかがめて、自分から頬を差し出してくれた。母譲りの栗色の髪が頭上に揺れる。ああ、本当に兄は背が伸びて立派な風体になった。三つ年上の彼は、最後にこうして並んで顔を合わせたときには、十六歳の少年だったのに。これから登校するのだと言っていた、アカデミー生の黒いローブも素敵だ。もしかして、この挨拶のタイミングだけでもこれをアイリーンに見せようとしてくれていたのかもしれない。彼は普段、この郊外の屋敷では移動に不便があるので、街中に下宿を借りているのだ。
わずかだが砂金のように貴重な時間を過ごして、カルヴァンに礼を述べる。
「それでは。……令嬢と夫人は、昼食前にはお帰ししますので」
カルヴァンが差し出した手を取り、まだ渋い顔の父と、微笑む兄に見送られて、家を出た。
馬車の中も終始和やかで、前回の花やカードの礼を言われた。
「義姉上が譲ってくれたので、カードは俺がいただきました。母が見て、令嬢の字を褒めていましたよ」
母、と何気なく言われた言葉に、ひっと身がすくむ。なにせ彼の母と言えば、王妃陛下のことだ。
「お、恐れ入ります。昔から……カードや手紙を書くのは好きなのです。父が綴り方の教育に力を入れていましたし、母もたくさんお手本や筆記用具をくれて」
母は、ちょっとした家族間でのカードのやり取りでも、様々に書体を変えて文字を書いて見せた。『今日はガーベラを植える予定よ』なんてお庭手入れメモが、やたら凝った装飾文字だったりする。
書体マニアなのだ、と、以前聞かされたことがある。「お父様と結婚したのも、頂いた恋文の中で、文字が一番美しかったからよ」などとなれそめを聞かされた。本当かな? 確かに父の字は美しいが。
母は続けて、「いいこと、アイリーン。顔の綺麗な男と結婚しても、年を取れば崩れるもの。でも、文字の綺麗な男と結婚すれば、少なくとも手や頭がダメになるまでは、毎日のように素敵なカードや手紙をもらえるのよ。日々を幸せに過ごしたいなら、絶対、お得よ」とも熱弁していた。本気かな? 確かに父は母に要求されて、こまごまとカードを贈っているようだが。
(でも少なくとも……私は、殿下にいただいた手紙の文字、好きだわ)
もらった手紙は、一番きれいで大事な文箱に入れて、何度も眺めた。装飾的な美しさよりは実用性を重視した、はっきりして読みやすい文字で、簡潔な文章だった。
そうこうするうち、馬車は公園の入り口のひとつで止まる。馬車の扉を開いてくれたのは、先日手紙を届けてくれたカルヴァンの侍従だった。
少し、緊張する。こんな貴族街に近い場所に出るのは、幼い頃以来だ。でも。
「お手をどうぞ、アイリーン嬢」
先に馬車を降りたカルヴァンが、手を差し出してくれる。この人の傍――今は見えないあの黒い球の内側にいれば、きっと大丈夫。
馬車を降りると、瀟洒な鉄柵に囲まれて、悠々とした緑の芝生と、涼しげな木陰の遊歩道が見える。そこをまばらに歩く人影。目にまぶしいのは新緑ばかりで、なんの不調も感じられない。
深く息を吸い込むと、知らない緑の香りがした。
それから、小一時間ほどだろうか。カルヴァンにエスコートされて、アイリーンと母は、遊歩道沿いに公園を見て回った。珍しい花を見つけては、これを庭に植えられないかと検討し、すれ違う人々があれば、にこやかに会釈する。……すれ違う人が、時々顔色を悪くしていた気がするが、気のせいだろうか。
遊歩道を歩く人々は、服装からしてほとんど貴族だろう。だが、アイリーンの目には何の問題もなく、道行く人のファッションを眺めて、今の流行に思いを巡らす余裕すらあった。
カルヴァンはかなりの頻度で休憩を提案してくれたが、意外と、アイリーンには体力がある。幼い頃は領地で野山を駆け巡っていたし、家から出られない今でも、庭で土いじりや散歩をして過ごす時間が多い。彼には引きこもりの印象を持たれているのかもしれないが、令嬢の平均よりはむしろ健康なのではないだろうか。
楽しい時間はあっという間で、日が高くなっていき、少し汗ばむ陽気になってきたころ、そろそろ引き上げましょうということになった。
去り際、公園の出入り口に花売り娘を見かけ、カルヴァンはアイリーンと母に小さな花束を買ってくれた。
帰りの馬車で、母がぽつりとこぼした、「娘とこんなふうに出歩けるなんて」という言葉が耳に染みた。




