4.銀とCeleste
「ん……」
次に目が覚めたとき、ドッピオは薄暗い空間にいた。
痛むサドルを気遣いながら辺りを見回せば、沈鬱な表情の自転車たちが、無数に立ち並んでいた。
そこは、どこかの地下室のようだ。
窓はなく、天井では切れかけの蛍光灯が力なく点滅している。
自転車たちの並ぶ列はずっと奥の方まで続いていた。
——辛気臭いところだ。
自転車保管所は、自転車たちの中では「この世の果て」と呼ばれ恐れられている場所だ。
乗り手が情熱を持ち、彼らの所在を探してくれればまだいいが、「そろそろ買い替えどきだったし」と思われてしまえばそれまで。
自転車は転売、ないしは解体されてしまう。
しかも保管所から自転車を引き取るには、現金が必要となる。
薄情な乗り手であれば、「安い中古のやつ探すか…」と思う手間と出費である。
自転車と乗り手の絆の強さが試される運命の地……それが自転車保管所なのだ。
ドッピオは状況を正しく把握するためシートチューブを伸ばしたが……すぐに、背中に痛みを感じてステムをしかめた。
荷台でほかの自転車にぶつかったときに、どこか傷がついたのかもしれない、と彼は息を吐く。
——傷が付いても、鈴木は僕に乗ってくれるかな……。
ドッピオはフルフル震えながら、遠く離れてしまった相棒を想った。
どれくらい時間が経ったのか見当もつかなかったが、今頃鈴木はうろたえ、悲しみに暮れているはずだった。
それを思えば、ドッピオの美しき Celesteはわずかに翳る。
そして彼は、意識を手放す前に目にした自転車のことを思い出した。
「……アル、ジャンテ」
声に出せば、余計に想いと後悔が募った。
ドッピオは、確かにあの瞬間、愛しき銀のママチャリと通じ合えた気がしていた。
しかし同時に、いくら想おうと無駄だということもドッピオには分かっていた。
ドッピオは聡明な高級ロードバイクである。
ママチャリは自走しない。
それゆえに、誰かを探し出すこともできない。
「……バカだな、僕は」
静まり返った空間のなかで、ドッピオは小さく呟いた。
続いて、昨晩差してもらったばかりのオイルが、ぽつり、ぽつりとチェーンからこぼれ落ちていく。
「っふ、う……」
寂しさと無力感、そして心細さに苛まれ、ドッピオは車体を震わせた。
有明のオシャンなサイクルショップで嫌がらせを受けたときでさえ、彼はオイルを流したことはない。
けれどアルジャンテへ向けて芽生えた鮮烈な感情に、ドッピオは抗うことができなかった。
「もう一度、会いたいよぉ……!」
決定的な別離を経て、ドッピオはその想いを自覚していた。
そう、彼のこゝろのなかには、新たな花が咲いていたのだ。
……恋という、可憐でまばゆい花が。
そのとき、にわかに通路の奥がぼうっと明るくなった。
騒がしい人間たちの声と、擦れ合う金属音から、どうやら新しい自転車たちが運び込まれてきたのだと分かる。
業者の男たちが投げやりに言うのが聞こえる。
「はあ、土曜日だからって大漁すぎるなぁ」
「難儀な仕事だよ」
そしてどこからともなく、自転車たちのため息が無数に重なっていく。
ここにいる自転車たちは、皆絶望しているのだ。
乗り手に期待し続け、しかしその期待を幾度となく裏切られ……そのうち希望すら抱かなくなってしまった。
こゝろが端から腐り落ちそうになっていくのを、ドッピオは感じていた。
自分も、もしかしたらこのままここで過ごすことになるかもしれない、と。
「新しいのはこっちでいいよな?」
「おう、適当だよテキトー」
ガシャガシャと新たに連れて来られた自転車たちが並べられていく。
その乱暴な扱いに、心根の優しいドッピオは思わず目を逸らし、リアブレーキを軋ませた。
もう、何も見たくない。
何も聞きたくない。
ドッピオのフルカーボンフォークは今にも折れそうだった。
けれどそのとき、ドッピオのチェーンを震わせたのは、聞き覚えのある澄んだ声だった。
「……やあ、 Celesteの君」
「え……?」
ドッピオは驚きのあまりピカ!とライトを点けた。
そんなはずはないと戸惑いながらも、逸る気持ちを抑えて、声のした方へ光線を向ける。
「うそ……」
磨き上げられた銀色の車体が、少し傾いた状態でドッピオを見つめ返してきた。
「アルジャンテ……?」
「ああ、その通りだ」
力強く前かごをガショガショ上下させる彼の姿に、ドッピオは言葉を失う。
そして自分でも知らぬうちに、ドッピオの車体には一筋のオイルが伝っていた。
「どうして、どうしてここに……?」
「……君が、私を呼んだからだ」
「え?」
「呼んでくれただろう、アルジャンテ、と」
「…………ッ!」
ドッピオの声は、あのとき間違いなく、アルジャンテへと届いていた。
その事実は大いなる喜びをドッピオにもたらしたが、同時に激しい羞恥が彼を襲った。
——あ、あんな大声で言ったのが、バレてたなんて……!
ドッピオは赤面したせいで、車体がちょっと紫っぽくなってしまった。
そんな彼を、アルジャンテはくすくすと笑う。
愛おしげな眼差しを向けたままで。
「アルジャンテ……」
よく見れば、その銀色の車体には細かな傷が入っていた。
心配そうに見つめるドッピオに、アルジャンテは肩をすくめる。
「君に会えたんだから、これくらい大したことない」
「でも……」
「…… Celesteの君。君が荷台で運ばれているのを見て、生きた心地がしなかった」
アルジャンテは静かな声で言った。
けれどその声は、かすかに震えていた。
「追いかけたかったが、すぐに見失ってしまって……。居ても立っても居られず、私はその後、戦友に強く念じた。……ちょっとお茶休憩でもしないか、と」
「……そんなことが、可能なの?」
「ああ、私とツカサは言葉は通じなくても、繋がっているから」
ここでね、とアルジャンテはハンドルポスト——ママチャリの心臓部だ——を指し示した。
ドッピオは少しだけ後ずさったが、もはやアルジャンテを妬む気持ちはなかった。
アルジャンテの強い眼差しに、揺るぎのない愛を見出したからだ。
「……そうして私の思惑通り、戦友は私を道端に停め、ステーベックスへと入った。彼は最近浮かれているからね。駐輪禁止の貼り紙にもまるで気づかなかった」
「自分で、撤去されることを選んだの? そんな……。君はバカだ、バカだよ、アルジャンテ……」
ドッピオはオイルを流すことを止められなかった。
そんな彼を見て、アルジャンテはもどかしさにまたガショガショと前かごを鳴らした。
国産軽快車でしかないアルジャンテには、愛しきロードバイクの涙を拭ってやることはできないのだ。
「バカな私を許してくれ、 Celesteの君」
「…………」
「でもどうしても、君を独りにはしたくなかったんだ……」
どうか泣かないで、とアルジャンテはライトを明滅させた。
選ばれし自転車であるアルジャンテがあまりにも困り果てているので、ドッピオはつい「ふふ」と笑ってしまう。
そして車体を揺すり、オイルを払い落とした。
「……ドッピオ、だよ」
「え?」
「僕の名前。イタリア語でダブル……つまり二倍って意味さ」
「ドッピオ……」
ぼうっと繰り返したアルジャンテに、ドッピオは微笑みかけて続ける。
「鈴木が……僕の相棒が、『君に乗っていたら喜びが二倍になる』って、付けてくれた名前だ」
アルジャンテは一瞬黙り込んだが、すぐにギアンクランクを鳴らし、声を弾ませた。
「素敵な……とても素敵な名だ。ドッピオ、ああ、ドッピオ! 君にぴったりな……ああ、どうしよう。言葉ではとても言い表せないくらい素敵だ」
「もう、やめてよ」
くすくすと笑って照れるドッピオに、アルジャンテは見惚れた。
薄暗い空間のなかでも、ドッピオの Celesteは、アルジャンテにとってはこの世でいっとう美しいものだったからだ。
二台の視線が絡む。
言葉を交わさずとも、彼らは互いの想いを察していた。
ドッピオは顔を上げると、精一杯チューブを伸ばし、身体を揺らした。
わずかに車体が前進し……彼の前輪は、アルジャンテの前輪とそっと触れ合う。
「…………!」
それはドッピオにとって、初めての前輪接触だった。
そして……アルジャンテにとっても。
二台とも、わずかに傷を負ってはいたが、タイヤの空気圧は最高のコンディションだった。
アルジャンテは激しくうろたえ、危うくタイヤバルブを取り落としそうになる。
「ド、ドッピオ……!」
「……アルジャンテ、来てくれてありがとう」
「え……」
「とても心細くて……君に会いたかった」
「ドッピオ……」
二台の恋は、大輪の花となりつつあった。
彼らが人であれば、迷わず互いの身体に手を伸ばし、そっと抱き寄せていたであろう。
しかし彼らは自転車だ。
でも、自転車ゆえの誇りをその身に宿していた。
アルジャンテはグリップをカコカコ鳴らし、凛と胸を張り言った。
「さあ、ドッピオ。ここから出よう。君には蛍光灯よりも、太陽が似合う」
「でも、どうやって?」
「……私に任せて」
それだけ言うと、アルジャンテはまぶたを閉じた。
数秒の静寂……そして次の瞬間、彼の車体はほのかに光を帯び始める。
銀の波動が、周囲の空気を震わせ、溶け込んでいった。
——パアアアア……!
信じがたい光景に、周囲の自転車たちが怯え始めた。
力持つ者は、常に孤独である。
しかしアルジャンテは、もう独りではなかった。
「……アルジャンテ、君……」
光ってる、とドッピオが呟き、アルジャンテはそれに微笑みで応えた。
怖がらないで、と唇で形作りながら。
「離れていても、通じるんだ……」
「……魂の、共鳴……?」
「その通り」
アルジャンテの言葉は真実であった。
ほどなくして、アルジャンテの乗り手が保管所へ駆け込んできたからである。
すでに光を失った銀の愛車に、大慌てで抱きついた男は、今にも泣きそうな顔をしていた。
「アルジャンテ……ッ! よかった、無事で……!」
「すまない、戦友よ。心配をかけたな」
「ウッ、僕は、貼り紙を見落としていて……!」
「いいんだ、それ以上言うな……」
ドッピオはふたりを、穏やかな気持ちで眺めていた。
ドッピオと鈴木だけの絆があるように、このふたりにもドッピオには分かりえない絆があるのだ、と。
愛は、彼を寛大にした。
そして血相を変えた鈴木が「ここにCelesteカラーのロードバイクはいませんか……ッ!?」と怒鳴り込んできたのは、アルジャンテたちの再会から、わずか十分後のことであった。
◆
「あっ、狩野田さん。おはようございます」
「鈴木さんも! Good morning!」
「今日も早いですね。あ、吉川先生の最新話読まれました?」
「もちろんです! いやぁ、素晴らしい展開でした! それにしても分からないものですね! まさか鈴木さんが吉川先生の担当さんだったなんて!」
「いやいや僕は本当、ほんの少しだけ先生のお手伝いさせていただいているだけで……」
頭上で交わされる乗り手同士の会話を、二台は満足げに眺めながら聞いていた。
どうやら二人の乗り手は、何らかの接点があったらしいが……ドッピオにはその内容はよく分からない。
「仲良しだねぇ」
「そうだな、いいことだ」
二人と二台の間を、すっかり冷たくなった秋風が通り抜けていく。
ドッピオが身震いしたのを見て、アルジャンテは心配そうにシートポストを軋ませた。
「大丈夫かい、ドッピオ」
「全然平気!」
想いを通じ合わせた二台は、毎朝こうして欠かさず言葉を交わしている。
自転車である以上、ずっと共に過ごすことはできないが、ドッピオもアルジャンテもこの幸福に満足していた。
「まさかママチャリに恋するなんてね」
「自転車生は何が起こるか分からないものさ」
彼らは最良の乗り手を得るとともに、最愛のつがいと出会ったのだから。
「……ねぇ、アルジャンテ」
「なんだい、ドッピオ」
ドッピオは周囲をきょろきょろと見渡す。
そしてにっこりと微笑むと、アルジャンテへ向かいその背を伸ばした。
銀色とCelesteが近づいていく。
話に花を咲かせる乗り手の目を盗んで、二台はそっと、その前輪を触れ合わせたのだった。
完