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3.呼べば届く





『やーい、生まれがイタリアなだけの気取り屋チャリ!』

『おらっ! イタリア語喋ってみろよ! おれでも言えるぜ、ピッツァ! ティラミス!』

『やめて、やめてよ……』

『ジェラート! パスタ! ビスケッティ!』

『お願い、やめて……』


ドッピオはいやな夢を見ていた。

彼がまだ、サイクルショップで売られていたときの記憶だ。

当時、ドッピオは日本製の自転車たちに囲まれ、日々悪質なからかいを浴びていた。


ドッピオは間違いなくミラノ生まれであったが、その実、育ちは江東区有明であった。

海外生まれという自尊心はそのままに、日本でしか暮らしたことがないという事実が彼を苦しめた。


『なんだよ、その部屋干し対応の柔軟剤みたいな色は! 日本で人気があるのはシックな銀か黒なんだよ!』

『誰がお前みたいな悪目立ちするチャリを買うもんか! イタリアに帰れ!』

『…………っ!』


ショップでの彼への罵倒は苛烈を極めた。

それはドッピオの美しいカラーリングへの嫉妬でしかなかったのだが、彼の純真なこゝろはそのたびに傷つけられていた。


けれどドッピオのフレームはカーボン製である。

いつしか彼は周りの嫌がらせに抗うようになり、その結果、誰も近寄らせないほどの高貴な雰囲気を纏ったのだ。


そしてやっと、鈴木という良き相棒カンパーニョを得た。

鈴木さえいれば、仲間なんていらない。

そう、ドッピオは考えていた。


けれどアルジャンテだけは違った。

ドッピオを一台のロードバイクとして敬意を払い、さらにそのカラーリングを褒め称えてくれた。

朝のひとときという短い時間であったが、二台は確実にそのこゝろの距離を縮めつつあったのだ。


一度、ドッピオが「鈴木と話せないのがもどかしい」と漏らしたときも、アルジャンテは優しく諭してくれた。


―― Celeste(青緑色)の君。君はこゝろまで美しいロードバイクなんだね。

――でも大丈夫。たとえ言葉が通じなくても、私たちは乗り手と繋がっている。

――それを信じていれば、君と鈴木さんは、永遠の相棒カンパーニョだ。


ドッピオはそのとき、素直に礼を告げられなかったが、うち震えるような喜びを感じていた。ママチャリであろうと、アルジャンテは気高く強い自転車だと、彼を尊敬した。


悪夢から冷めたとき、ドッピオの車体はじっとりと夜露に濡れていた。


「……なにが、言葉が通じなくても、だよ」


だからこそ、ドッピオのこゝろの傷は深かった。







銀の光が朝の車道を駆け抜けていった……という噂が街中を席巻したその日からしばらくの間、ドッピオがアルジャンテと顔を合わせることはなかった。


毎朝あのコンビニへ立ち寄っても、見慣れた銀の車体はどこにも見当たらない。

アルジャンテの乗り手であるあの男が「産気づいた」と口にしていたことから考えると、しばらく休みを取っているのかもしれない、とドッピオは冷静に判断した。

アルジャンテと出くわさないことに、彼はむしろ清々していた。


しかし、二週間が経ったころ、ドッピオはまたあのコンビニで「彼」に会ってしまったのだ。

Celeste(青緑色)の君! 久しぶりだね!」

「…………」

「とても会いたかったよ、元気だった?」

「……別に、普通だけど」


アルジャンテは喜びを抑えきれない様子で前輪をキュイキュイ鳴らしていたが、ドッピオは目を合わせることもしなかった。

ドッピオの純白のこゝろが倦むのに、二週間という時間は充分すぎたのだ。

そして不幸なことに、そんなドッピオの変化に、浮かれたアルジャンテは気づくことがなかった。


「聞いてよ、Celeste(青緑色)の君。実は私の戦友ともに第一子が産まれてね」

「…………」

「言葉にできないくらいかわいらしいんだ。あんなに赤ん坊がかわいいなんて知らなかったよ。ああそう、名前は」

「うるさい」

「え?」

「うるさいって言ったんだ!」


ドッピオはフロントディレーラーを耳障りに擦りながら、アルジャンテに向かって言い捨てた。


「アルジャンテ、君、本当は僕のことをばかにしていたんだろう!」

「……なにを言ってるんだ、Celeste(青緑色)の君」

「ごまかさないでよ。君は、選ばれた自転車なんだ。魂の共鳴(ソウルビート)を使える自転車なんて初めて見た。僕とは違う。それなのに、ただのママチャリのふりをして! 僕が得意げにしているのを見て笑っていたんだろう!」

「そんなつもりはない。私はただ……」


うろたえるアルジャンテを見て、ドッピオはますます苛立った。

信頼していたのに、特別に思っていたのに、裏切られた。

それが自分本位な考えだとドッピオにも分かっていたが、澱んだ気持ちをぶつけることしかできなかった。


「言葉が伝わらなくても平気だって? 君はあのアホ面の男と立派に会話していたじゃないか!」

「ちがう! ツカサはもう大人の階段を上って……!」

「聞きたくない!」


ドッピオはドロップハンドルをキュキュッと動かし、顔を背けた。

重く張り詰めた空気が二台の間に降りる。

育んできた温かな繋がりは、いともたやすく壊れてしまう。


そのうち、アルジャンテの乗り手がコンビニから鼻歌混じりに出てきた。

銀色の車体にまたがると、「僕はパパ……」とうっとりと呟く。

轢き殺してやりたい、とドッピオは強く思った。


「……美しい、Celeste(青緑色)の君」


去り際、アルジャンテは力なく言った。


「君を傷つけたのなら謝るよ」

「…………」

「ただ」


――会いたいと思っていた気持ちは、本当だ。


銀の影を残して、一台と一人はその場から立ち去っていった。









それから、鈴木がしばらく時差出勤になったこともあり、ドッピオがアルジャンテと会うことは完全になくなってしまった。


ドッピオはそれでいいと思っていた。

鈴木さえいれば、それでいいと。

けれど自分の目が、いつも知らず銀の姿を探してしまう事実に、ドッピオ自身も戸惑っていた。


――あんな言い方は、よくなかったな。


ドッピオは反省のできる高級ロードバイクだった。

一方的にアルジャンテに逆上したことを悔いていたが、自走できないドッピオに、あの銀のママチャリを探しだし、謝罪することなどできない。





そんなある日、鈴木とドッピオは隣町へ繰り出していた。

土曜の昼下がり、愛妻家の鈴木は、妻への誕生日プレゼントを見繕おうと、ドッピオとともに遠出をしてきたのだ。


休日であるためか、街中の駐輪場はどこも埋まっていた。

仕方ないな、と鈴木はため息を吐き、とある街路樹沿いにドッピオを停め、近くにあったポールにしっかりと施錠した。

すぐ来るからな、とドッピオを撫でて、鈴木はその場から去って行く。


ひとり残されたドッピオは、深く息を吐いて天を仰いだ。

十月の高い空が、その色に似たロードバイクを見下ろしている。


――もしまた会えたら、きちんと謝ろう。


ドッピオは自慢のフルカーボンフォークに誓った。

高潔なロードバイクたるもの、己の非は素直に認めねばならない。

そしてまた、あの銀色のママチャリに微笑みかけてほしい……そうドッピオが夢想していた、そのときだった。


「ああ、珍しいのが停まってるなあ」

「!」


突然道路脇に一台の軽トラが停まり、中から作業着姿の男が出てきたのだ。

無精髭の顔をにやあ、と歪ませて、男はドッピオへと近づく。


――まさか。


ドッピオは青緑色の車体の青みを強めて、顔を見上げた。

街路樹の一本に黄色い注意書きが貼られている。


――自転車放置禁止区域


ドッピオは声にならない悲鳴を上げた。

それは、自転車が最もおそれる文字列だった。

一度その場に放置されれば、持ち主のもとへ帰れる保証はない。


慌てて周りに目を這わせるが、鈴木の姿はなかった。


「もったいないけど鍵は切っちゃうかあ」

「そうだなあ。こんなところに停めてるのがいけないわけだし」


連れの男も軽トラから降りてくる。

その手には巨大なボルトグリッパーが握られていた。


「やめて……」


鋭い歯がドッピオを繋ぐ鍵へと向けられ……ぎらりと凶暴に光る。

ドッピオはリアを軋ませて叫んだ。


「待って! 今、いま鈴木が……ッ!」

「それじゃあ切りまーす」


バツン、という無情な音ともに、ドッピオの車体は傾いだ。

スタンドを持たない彼はアスファルトに叩きつけられそうになったが、すんでのところで業者の男に身体を抱き留められた。

生ぬるい吐息が、磨き上げられたヘッドチューブに吐きかけられる。


「や、やめろぉッ! 僕に触るなッ!」


ドッピオの悲痛な叫びがその場に響いたが、誰ひとりとして彼を助ける者はいなかった。

なぜなら、ドッピオは単なるロードバイクであり……道行く人々には、彼の声は届かないからだ。


「へへ、きれいな色だなぁ……」

「ひぃっ……」


業者の男のぶ厚い指が、無遠慮にドッピオの車体を撫でる。

ドッピオはあまりの不快感と恐怖にトップチューブを細かく振動させたが、男にその怯えが伝わるはずもない。

ドッピオは、じわり、とチェーンリングからオイルが滲み出そうになるのを、必死に耐えた。自分が高潔な高級ロードバイクであるという矜持だけが、ドッピオを支えていた。


けれどドッピオにこゝろがあるとは知らない男は、なおもドッピオに舐めるような視線を這わせる。

かつて向けられたことのない視線に、ドッピオの精神はぎりぎりのところまで追い込まれていた。


「こんな高そうな自転車を置いていくなんてねぇ……」

「い、いやだ……ッ、やめて、離してよ……ッ」

「へへ、飴玉みたいにツヤツヤしてらぁ……。舐めてやりたいくらいだ……」

「やだ、離して、僕はキャンディなんかじゃない……ッ!」


お願い、と弱々しく懇願する声は、やはり届かない。

いくら高潔かつ高級であろうと、ドッピオはロードバイクでしかない。

どんな抵抗も、公権力のもとに行使される撤去作業の前では無駄だった。


「いやだぁッ! 誰か、誰か助けてッ!」


無理矢理その場から引き剥がそうとする手から、身をよじらせようとしても、かなわない。

やがてその鮮やかな車体は、業者の男のかいなに抱かれ、宙に浮いた。

遠ざかる地面に、ドッピオは静かに絶望する。

そのまま彼の車体は、業者の軽トラックの荷台へと積まれた。


「…………ッ!」


そこには、死んだライトの自転車たちが無造作に転がっていた。

誰もが己の運命を呪い、撤去される悲しみに打ちひしがれている。

彼らはもはやオイルを流すことすら諦め、汚れた車体を軋ませていた。


おののくドッピオを見て、錆だらけの古びたママチャリが嘲笑する。


「やれやれ、あんたも馬鹿な乗り手に当たったようだな」

「な……ッ!」

「ここは地元でも有数の撤去エリアだ。三分離れたらヤられる。それなのに……」


ママチャリはそれだけ呟くと、静かに俯き、黙り込んだ。

もはやほかの自転車をけなす気力もないらしい。

無数の自転車たちが沈黙を守り、むなしくもドナドナされていく未来に身を任せているのだ。


「違う、鈴木は、鈴木はそれを知らないだけで……ッ!」


ドッピオはシートチューブを伸ばして、懸命に外を覗いた。

人通りはあるが、鈴木の影は見えない。

鈴木が戻ってきたとき、彼が驚愕し、悲観してその場に膝を付くであろうことは容易に想像がついた。

何よりも大切にしていたドッピオが、忽然と消えてしまっているのだから。


――そんなのはだめだ。鈴木は、僕の相棒カンパーニョなんだ……!


ドッピオは彼を悲しませたくなかった。

相棒カンパーニョというものは、常に互いを支えてしかるべき存在なのだ。

鈴木、と呼ぼうとして、しかしそのとき目に入った自転車の姿に、息を止めた。


銀色に輝く車体。

普通のママチャリとは一線を画したその存在感。


そう、アルジャンテである。


彼は乗り手であるあの若い男を背に乗せて、颯爽と通りをこちらへ向かってくるところだった。

しかし、ドッピオが乗せられた軽トラからはかなりの距離があった。

けれどドッピオは諦めなかった。

なぜこんなところに、という疑問はあったが、今は理屈よりも、湧き上がるような情熱が彼を動かした。


限界まで追い詰められて初めて、ドッピオには分かったのだ。

自分が本当に求めているものが。

その銀の姿を見て、改めて理解する。

自分が、ずっと彼に会いたかった、ということを。


そろそろ行くかあ、という業者の男たちが話しているのが聞こえる。

ドッピオの気は急いた。

このままでは、誰にも気づかれないまま連れ去られてしまう。


彼は深く息を吸い込むと、シートステーの底から声を振り絞りその名を呼んだ。


誰よりも愛おしい、その名を。


「アルジャンテーーーーーーッ!!」


普通に考えたら、こんな距離から聞こえるはずがない。

ドッピオは理知的な高級ロードバイクであるため、分かっていた。

しかし同時に、その常識を打ち破れるほどの力を、愛しいママチャリが秘めていることも知っていた。


ぼやける視界の先で、アルジャンテがこちらを向いた気がした。

チカチカとライトが明滅し、ドッピオを捉える。

こっちだよ、とドッピオが続けて叫んだのと同時に、業者の男の手によって、荷台を覆うように厚い布が掛けられる。


「アルジャンテッ、僕だよ、僕はここに……!」


エンジンがかかり、無慈悲にも軽トラは走り出してしまった。

その反動でドッピオは後ろへと倒れ込む。

ガシャン、としたたかにサドルを打ち付け、その鋭い痛みにドッピオは低く呻いた。


遠のく意識の向こうで、「Celeste(青緑色)の君!」凜と澄んだ声が聞こえた気がした。

けれど本当に呼んでほしい響きを、アルジャンテは知らないのだ。


――こんなことなら、僕の名前、教えておくんだったな……。


ドッピオはひっそりと自嘲した。

緩やかな振動に誘われ、いつしかドッピオの思考は白い靄のなかへと溶けていった。






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