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2.やわらかなこゝろ







あの日の邂逅以降、ドッピオはアルジャンテと名乗る妙なママチャリとよく出くわすようになった。


「やあ、Celeste(青緑色)の君」

「……やめてよ、その呼び方。小っ恥ずかしいな」


単に鈴木が朝活に目覚め、毎朝コンビニコーヒーを楽しむ余裕ができただけなのだが、ドッピオたちが立ち寄るその時間帯に、アルジャンテとその乗り手も同じコンビニを利用するのである。


どうやらアルジャンテの乗り手である若い男は、近くの病院に勤めているらしい。

男はいつもテンションが高いので、ドッピオは少し苦手意識を持っていた。

しかし、アルジャンテが彼を深く信頼しているのが分かったため、男を貶めるような真似はしないでおこうと自らに誓っていた。


意地っ張りな性格が災いして、ドッピオは自転車ひと付き合いを得意としなかったが、アルジャンテはいつもその真意をくみ取って優しく頷いてくれる。

今日もつれない態度を取るドッピオを、アルジャンテはくすくすと笑って受け止めた。


「ああ、すまない。でもあまりにも美しいカラーリングだから。君の青空に似た姿は、朝の爽やかな陽光によく映える」

「と、当然だろ! 安い量産車と一緒に、するなよ……」


ドッピオはぷいとそっぽを向いたが、内心後悔でいっぱいだった。

彼はアルジャンテの優しさに甘えて、いまだに名を名乗ってすらいないのだ。

本当は気安く話をしたいのに、どうしてもひねくれた言葉ばかりが口をつく。


「……それに、いくら美しいって言ったって、同じ型式の奴らは同じカラーリングだし」


アルジャンテに褒めてもらったことは嬉しかったが、ドッピオは照れ隠しにそう言った。

実際、大都会のこの街では、同じメーカーの仲間を見かけることはよくあるのだ。


アルジャンテは一瞬、驚いたようにブレーキレバーを引いたが、すぐにまた柔和な笑みを取り戻した。


「それでも、私の目には君が特別輝いて見える」

「え?」

「どうしてだろう。……私も、とても不思議だ」

「アル、ジャンテ……」

「なんてね」


今度はアルジャンテが、照れる番だった。

ちかちかとライトを明滅させて、わざとらしく「やれやれ、今日もいい天気だ」なんて顔を背けて言ってみせる。


「ふふ」


アルジャンテが珍しく動揺したことがおかしくて、ドッピオは知らず笑いを漏らしていた。

その声に、アルジャンテがキュイッ、とスポークを鳴らす。


「笑うと、より一層素敵だ」

「……また、そんなこと言って」

「怒らないで、Celeste(青緑色)の君」


差し出された言葉は、懇願に似ていた。

ドッピオはアルジャンテを見つめた。

代わり映えのしないアルミフレーム。

けれどドッピオの目にも、アルジャンテの姿がほかの誰よりも輝いて見える。


「君には、嫌われたくない」

「なっ……!」

「本当だ。私は君の強さを、そして背に乗せる戦友(とも)への敬意を忘れない誇り高さを尊敬している。……いや、」


——惹かれている、と言った方がいいのかもしれない。


「…………!」


ドッピオは驚き押し黙った。

突然の言葉に、リムが軋む。

アルジャンテの真摯さが、誠実さが、ドッピオの車体を駆け巡るようだった。


「な、なんだよ、それ……」


やっとのことで、彼はそれだけを返した。

ドッピオは純潔の高級ロードバイクである。

彼が学んできたのは速く走る方法だけ。

(アモーレ)のアの字も知らないし、知ろうとしたこともない。

熱には弱いカーボン製のフォークを赤らめて、ドッピオはただ戸惑うことしかできなかった。


そうこうしているうちに、鈴木が店内から出てくる。

ドッピオはこれ幸いとアルジャンテから視線を外し、「鈴木、行こう」と声を掛けた。


その後ろから、澄んだ声が追ってくる。


「……また明日。美しいCeleste(青緑色)の君」


ドッピオはフレームがぎゅうと締め付けられる心地だった。

そんな甘い疼きも、彼は知らなかった。


「またね、アルジャンテ」


けれどドッピオは、その疼きをまた味わいたいと、密かに願っていた。










その翌朝のことだった。


ドッピオがコンビニに立ち寄ると、いつものごとくアルジャンテがすっと背を伸ばしてそこに立っていた。

朝日に映える銀色の横顔に、ドッピオは一瞬見惚れかけたが……慌ててステムを振ってその思考を追いやった。


――たかがママチャリに、僕が見惚れるわけなんかない……!


ドッピオは大きく深呼吸をしてから、できるだけ車体のカラーリングが見えるようにアルジャンテへ近寄り、声を掛けた。


「お、おはよう!」

「ああ、おはよう。Celeste(青緑色)の君」


今日も素敵だね、と微笑まれて、ドッピオは言葉を失った。

鈴木が乗っていないのに、サドルがほのかに熱い。


ドッピオはある決意を胸に秘めていた。

今日こそは、自分の名をアルジャンテに伝えようという決意だ。

昨晩、迷いに迷った末に、ガレージのなかで決めたことだった。

しかしいざ本人(アルジャンテ)を目の前にすると、言葉がすんなりと出てこない。


——もう! オイルはちゃんと差してもらったのに……!


緊張で固まるドッピオに、アルジャンテはハッとしたようにかぶりを振った。


「ああ、いけない。私はまた君のことをCeleste(青緑色)の君と……」

「そ、そのことなんだけど!」


勢いに任せて、ドッピオは声を張った。

少し裏返ってしまったことが恥ずかしかったが、ここしかないと決めて続ける。


「あの、あの、僕の呼び方、なんだけど」

「え?」

「言い出すタイミングが、分かんなかっただけで」


ドッピオの声は震えた。

けれどアルジャンテは、しっかりとその前輪を向けて言葉の続きを待つ。


——ちゃんと言うんだ。そして、アルジャンテに呼んでもらうんだ。


ドッピオは深く息を吐いてから、きっとドロップハンドルを上げた。

そして口を開いた……そのときだった。


「大変だ、アルジャンテ!」


アルジャンテの乗り手である男が、コンビニから慌てて駆けだしてきたのである。

がしゃん、と男はアルジャンテの車体に倒れ込む。

普段はばっちり決めている髪は乱れ、顔も青ざめていた。


「どうした、戦友ともよ」

「今連絡が来て、どうやら産気づいたみたいなんだ……!」

「なんだって!?」

「えっ」


ドッピオは思わず声を上げた。

話の中身ではなく、ふたりのやり取りに対して、である。


以前アルジャンテは、戦友ともであるこの男は、もう既に大人の階段を上ったのだと話していた。

それであれば、アルジャンテの声が男に届いているはずがない。

しかしふたりの会話は、言葉が通じていないとはにわかに信じがたいほど、がっちりと噛み合っていた。


「くそっ、僕としたことが油断した! 予定日まであと十日はあるのに!」

「初産の予定日はあてにならないと言うからな。焦るな、大丈夫だ」

「……え、言葉、通じてないんだよね?」


ドッピオは混乱していた。

しかし緊迫した空気のなか、ドッピオに詳細を説明する者はいない。


男は険しい顔つきでアルジャンテの背にまたがると、左腕の時計を一瞥し「くそっ」と吐き捨てた。

アルジャンテはそんな男をなおも宥める。

言葉が通じずとも確かな信頼でふたりが繋がっているのを、ドッピオは車体で感じていた。


「トップスピードでいけるか? アルジャンテ」

「当然だ、戦友ともよ」


男はアルジャンテの両ハンドルをきつく握ると、前を見据えた。

ふう、と一息吐いてから、厳かな声で告げる。


「System all green……」

「!?」


ドッピオは再び混乱の渦へとたたき落とされた。

アルジャンテは単なるママチャリである。

人力で車輪を動かす軽快車に、システムもへったくれもあったものではない。


この人間はママチャリに一体何を求めているのか。

ドッピオが眉根をひそめた……そのとき、アルジャンテが鋭く咆哮した。


「振り落とされるなよ……!」

「!?!?」


――ズオオオッ……!


輝かしい銀の車体全身から、突如として濃厚な波動オーラが噴出したのである。

ドッピオは想像を絶する迫力におののき震えた。

もしドッピオが人であれば、すぐさまその場から逃げ出していただろう。

それほどまでに、アルジャンテの波動オーラは他の存在を圧するものであった。


「まさか……」


ドッピオはとある可能性に思い至り、フロントディレイラーを軋ませた。

昔、自転車たちの間で囁かれていた噂を思い出す。


自転車は乗り手なしには自走できない儚い無機物である。

しかしその魂のかたちがぴたりと合致する乗り手と出会ったとき……彼らはその身に宿す力以上のはやさを実現することができるのだ。


もはや遭遇するのすら近いといわれるその現象は、自転車界でこう呼ばれている。


――魂の共鳴(ソウルビート)、と。


「それを、使えるっていうのか……!?」


そんな馬鹿な、とドッピオが口にする前に、男はアルジャンテのペダルに右足を掛けた。


「今行くよ、航ちゃん……ッ!」


男の悲痛な叫びとともに、アルジャンテのタイヤは勢いよく都会のアスファルトを蹴った。

初速だけで、普通ではないと理解る。

緊急事態とみえたが、あくまで真摯かつ法令遵守を旨とする彼らは、しっかりと車道左側を走行していた。


しかしそのはやさは、常軌を逸していた。

疾風……いや光ににも似たはやさに、その場にいた者が捉えられたのは、ふたりの残影だけであった。

アルジャンテと男は共鳴し、内なる力を引き出し合い、都会の澱んだ空気を裂いていった。


彼らは、一閃の銀光となったのである。


「うそ……」


ひとり残されたドッピオは、力なく呟いた。

彼は高潔な高級ロードバイクである。

その性能と速さには、絶対の自信を持っていた。

同じメーカーであろうと、自分よりも新しいモデルのロードバイクであろうと、鈴木と組めば向かうところ敵なしだと……そう信じて生きてきたのだ。


「うそだ、こんなの」


ドッピオは清廉なこゝろを持つ高級ロードバイクである。

同じ自転車として、気高き魂を持つアルジャンテを尊敬し、信頼を傾けていた。


しかしドッピオには驕りがあった。

所詮アルジャンテはママチャリなのだ、と。

自分に敵うことは、未来永劫ないのだ、と。

いつか手加減して並走してやってもいい……そう見下す気持ちすらあった。


けれどドッピオは目の当たりにしてしまった。

選ばれし自転車だけが許される……本物の力を。


ドッピオは自らに失望した。

たとえ鈴木を背に乗せたところで、今し方目にしたあのはやさと煌めきを、自身が出せるとは到底思えなかったからだ。

覆しようのない差が、そこには存在した。


ドッピオのフルカーボンフォークは、耐久性に優れている。

しかし不幸なことに彼のこゝろは、純粋かつ繊細で、つきたてのお餅のごとくやわらかい。


「うそだぁ……ッ!」


その日、ドッピオの矜持と自尊心は、粉々に打ち砕かれてしまったのである。









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