1.我が名は
そのロードバイクの名は、ドッピオといった。
生まれはイタリアのミラノ、育ちは日本国TOKYO。
車体のカラーは雲ひとつない青空を想起させるCelesteである。
高級ロードバイクである彼は、自ら恃むところ頗る厚く、またその高い精神性に見合うだけの性能を備えていた。
最新型のフルカーボンフォークは、ドッピオに疾風のごとき走りを実現させる。
彼のホイールは、もちろん前後スルーアクスル仕様である。
ドッピオの相棒は、鈴木という。
鈴木はしがない男性会社員ではあるが、学生時代からロードバイクを愛し、今年の夏のボーナスでドッピオを迎え入れた、小粋な男である。
ドッピオを迎え入れた日、鈴木は自らの妻に、新たなロードバイクの購入金額を偽って低く申告した。
自尊心を傷つけられたドッピオは、鈴木の不誠実さにブレードを鳴らし不満を訴えたが、彼の妻が「その値段より高かったらすぐに返品しにいくところだったわ」と冷酷に続けたので、慌てて口をつぐんだ。
そして細くため息を吐き、肩をすくめる。
どうやら人間の世界は、誠実さだけではうまくいかないらしい。
鈴木は晴天の日の通勤時には、決まってドッピオに乗った。
ひしめき合う朝の車列の傍らを、鈴木とドッピオは颯爽と駆け抜ける。
街路樹の葉の隙間から朝日が射し込み、ドッピオの身体を鮮やかに照らしていた。
「どう? 鈴木! 僕の乗り心地は!」
彼は声を弾ませて尋ねたが、鈴木は黙して語らず、ただ真っ直ぐに行先を見つめていた。
彼は模範的なロードバイク乗りでもあった。
そんな鈴木に、ドッピオは不満げに鼻を鳴らしうつむく。
仕方のないことだ。
彼ら自転車の声は、純潔の身体を持つ人間にしか聞こえない。
けれどドッピオは、鈴木を深く信頼していた。
彼がロードバイクを愛する気持ちは言葉がなくとも伝わっていたし、鈴木は夜な夜なクリーナーとワックスで車体を磨いては、「最高のカラーリングだ……」とドッピオを褒めてくれたからだ。
ドッピオにとって、鈴木は最良の相棒だった。
鈴木は腕時計にちらりを視線を落とすと、いつものルートから外れて、とあるコンビニへと立ち寄った。
どうやら今日は、時間的余裕があるようだ。
店前のポールにきっちりと施錠ドッピオは、店へ入る鈴木に「いってらっしゃい」と声を掛けた。
彼の相棒は、始業前のコンビニコーヒーを好む。
「ふう……」
秋晴れの空の下、ドッピオは大きく伸びをした。
気持ちのいい天気だ。
この様子だと、帰りも走りやすい気候だろう——そう思っていたときだ。
「アンタ、この辺では見ねぇ顔だな」
不意に、脇からしゃがれた声が聞こえた。
ドッピオが視線を向ければ、年季の入ったビッグスクーターがにやにやと下卑た笑みを浮かべている。
黒の車体は傷だらけで、あちこち泥に汚れていた。
あまり大切にされていないようだ。
ドッピオが不快げにフロントブレーキを軋めたのを見て、ビッグスクーターは愉快げに続ける。
「外国生まれかい?」
「そうだけど……」
「へぇ、やっぱりか。ククク、ガキくせぇ派手なカラーリングだからそうだと思ったよ」
「な、なんだと!」
突然の不躾な言葉に、ドッピオは甲高くリムを鳴らした。
彼は自らのカラーリングを何よりも誇りに思っている。
気高く尊いCelesteは、彼のアイデンティティでもある。
それを侮辱されたという事実に、ドッピオの車体は真夏のアスファルトのごとくアチアチになった。
「なんて無礼な奴だ! 謝れ!」
「本当のことを言ったまでだ。……フン、ひでぇ色だ。半額落ちのウォッシャー液の方がまだマシな色をしてるぜ」
「…………!」
「それになんだ、その軟弱なサドルは。外国では座面の材料費をケチるのが流行りなのか?」
そう吐き捨てると、ビッグスクーターはげらげらと笑い出した。
ドッピオは怒りのあまり、自慢のドロップハンドルを小刻みに震わせる。
こんな屈辱は受けたことがない。
鈴木が夜なべして、毎日丁寧に手入れしてくれる車体だ。
それを、なんという言い草だろうか。
ドッピオはビッグスクーターをきつく睨みつけ、反論を口にしようとしたが……それはまた別の声に阻まれた。
「やれやれ、そこまでにしておいたらどうかな」
爽やかに吹き込む風のように、涼やかな声だった。
ドッピオはビッグスクーターとともに、声のした方向へ顔を向け……そして、呆気に取られた。
「突然失礼。けれど、私は争いを好まないのでね」
そこにいたのは、一台のママチャリだった。
どうやら、ドッピオたちのやり取りを聞いていたらしい。
ホームセンターで大量に並べられているような、何の変哲もないシルバーのママチャリだ。
丸みを帯びた前カゴの間抜けさに、ドッピオは思わずフロントブレーキを締めた。
ビッグスクーターが鼻で笑う。
「なんだぁ、お前は?」
嘲りを受けるのも当然だった。
ママチャリはその性能と安価な値段設定から、自転車界のなかでも見下げられがちな存在だ。
そんな存在がなぜ割って入ってきたのか、とドッピオは怒りに近い感情を抱いたが……そのシルバーの車体がきらりと光ったのを見て、気づいた。
彼の内側から、得体の知れないものが滲み出ているのを感じる。
——このママチャリ、ほかの奴らと何かが違う。
ドッピオの自転車としての本能が、そう告げていた。
「我が名はアルジャンテ」
ママチャリ……ことアルジャンテは、背を伸ばし凛と告げた。
「車体番号AL48010、防犯登録番号9900801の日本国製軽快車だ」
ビッグスクーターはアルジャンテをせせら笑おうとしたが、失敗した。
アルジャンテから発せられる並々ならぬ迫力に押され、身体を別の意味で震わせることとなったためだ。
ママチャリが纏うオーラではなかった。
まるで重機と対峙しているような……勝てないと思わせる、圧倒的な威圧感。
ぴんと張り詰めた空気が周囲に満ちる。
「原動機を載せられた君が、ロードバイクに嫉妬だなんて……恥ずかしいと思わないのか?」
アルジャンテはもはや笑っていなかった。
彼からびりびりと伝わる尖った空気が、ドッピオのシートクランプを軋ませる。
一方、その空気を正面から浴びたビッグスクーターは、エンジンオイルをこぼしそうなほど怯えていた。
「お、おれは……」
「誰かを妬んでも、君の本質は変わらない。今すぐここから去りなさい」
「クッ……!」
ちょうどそのとき、ビッグスクーターの乗り手らしき小汚い男がコンビニから出てきた。
男は乱暴に座面を開くと、中に買ったばかりの飲み物を投げ入れる。
ビッグスクーターは低く唸ったあと、騒々しいエンジン音を鳴らした。
「くだらねぇチャリどもめ……!」
敗者の負け惜しみであった。
ドッピオは去りゆくビッグスクーターの背中に、思い切り「んべぇ」と舌を出してやる。
そんなドッピオを、アルジャンテはくすくすと笑った。
三輪車じみた真似をしたことが、そして笑われたことが気恥ずかしく、ドッピオはほのかにフレームを染める。
お礼を言わなければ、と思ったが、彼の高い矜持と湧き上がった羞恥心が、それを許さなかった。
「……ママチャリのくせに、偉そうなこと言って」
「ふふ、すまない。見ていられなくてね」
キュイ、と太めのタイヤを鳴らして、アルジャンテは微笑んだ。
なぜかむず痒い気分になり、ドッピオは視線を逸らす。
——車体が輝いて見えるのは、陽射しが強いせいだ。
後輪チェーンを弄びながらドッピオがそっぽを向いていると、店内からやたらとテンションの高い若い男が出てきた。
男は「おまたせ!」としきりに話しかけながら、アルジャンテの鍵を外し、その背中に乗る。
自転車に話しかける人間なんて、とぞっとして、ドッピオはふたりから少しだけ身を引いた。
アルジャンテは優しい眼差しのまま、ドッピオに静かに訊く。
「君の名前は?」
「え……」
突然の問いに、ドッピオは押し黙る。
隠す必要なんてない、とは思ったが、言葉が絡まって上手く出てこなかった。
「……教える必要、ある?」
悩んだ末に、ドッピオからこぼれた応えはそれだった。
アルジャンテが驚いたようにライトを明滅させたのを見て、ドッピオは即座に後悔に襲われた。
しかしシルバーの自転車は、気分を害する様子もなく、またくすくすと笑う。
「そうだね。でも、いつか教えてくれると嬉しい」
「…………」
「それじゃあ私はここで。……美しいCelesteの君」
「!」
アルジャンテはそう言って一度視線を逸らしたが……少し進んだところで振り返り、ドッピオに告げた。
「ああ。それと、ひとつだけ忠告を」
彼の泥除けには、黒と金のダサいステッカーが貼られている。
しかしそれでも、アルジャンテの車体の輝きは損なわれていなかった。
「……防犯登録はしてもらった方がいい。この辺は物騒だからね」
余計なお世話だよ、という返そうとして、しかしドッピオはその場に固まってしまった。
「な、なんだよあいつ……!」
ドッピオは憤慨してひとり呟いたが、その後鈴木が戻るまで、車体の火照りを冷ませずにいた。