港湾署の珍事
あれは、日々の過酷な労働に疲弊しながら、課長への挨拶もそこそこに昼前出勤した時のことだ。
「よ~~す。はぁぅあ……」
因みに、この欠伸は、今日も陰々滅々とする堅苦しい部屋で仕事をしている課長や同僚たちへのご愛敬のつもりだが……まったく、世話の焼ける奴らだな。こんな息苦しい空気じゃ、捗る仕事も捗らないじゃないのか。
「あー、斉藤か。とりあえず、お前は、そうだな…………倉庫で備品の確認と清掃を頼む」
「また、俺、掃除……です、か? あ、もしかして、署内三階の倉庫で誰の手にも負えない事件が起こり、片づけてこい。と? よし。そうゆうことなら――おいッ、真弓。現場へ、すぐ行くぞ! 今、行くぞ!!」
テキパキと書類を片付けていた、女性刑事――秋篠真弓は、書類に張り付けられた付箋に思い浮かんだ重要項を書き込んでいたボールペンを握る手を止め、先輩刑事の珍しく溌剌とした声に目を向けたが。
すぐさま、彼が言っている意味と、呆れ果てる周囲の同僚たちの反応から、
「………………はぁ」と、心底、疲れ切ったような溜息を漏らす。
何も、真弓が思わず溜息を漏らしたのは、書類に集中していて、律也の唐突な呼びかけに集中が切れたというわけでも、過密な作業に疲労していたわけでもなかった。
「なんだよ! その溜息は!? 久々の仕事らしい仕事だ。少しは、お前もやる気を出せっ!!」
「あのですね、先輩。珍しくやる気を出している先輩には申し訳ありませんが、私は、別任務を任されて……つまり、貴方とは現場が別です」
「何? ってことは、この難事件は、俺一人で解け。と?」
「――言ってません」
「じゃあ、誰か……、あ、もしかして、別の課から代役……いや、増援が?」
「――無い、です』
「因みに、俺の解く事件は?」
「――ありません。…………ありえません」
「………………。ないのかよ! ってか、お前、今しれっと、ありえません。って、どういう意味だ!! 新米のくせにっ! 後輩のくせにっ!」
ついに、喚き出した律也と真弓のやり取りを、しばらく静観していた、いよいよ見るに見かねた課長はなんともわざとらしい咳払いをすると、
「なぁ……斉藤。仮にも、刑事のお前が勝手に署内で事件を起こすな。お前に任せたのは、単なる倉庫掃除だ。ついでに、秋篠君は、殺人事件の捜査にこれから出かける。だから、今日は教育係兼お目付け役のお前……いや、今じゃ、立場は逆転してるが――……まぁ、ともかく。今日のとこは掃除と、留守番を頼む」
言うだけ言って、忙しそうに身支度を終え、外出していく課長の姿を追うように、真弓も急いでコートを羽織ると、一課の戸口に消えていく。
空しい戸が閉まる音だけが、誰もが消えた一課の室内に木霊した。
つまり、そこに、取り残されたのは、今日、彼の唯一の仕事、清掃を任される律也だけ、だった……。
数時間前の、そんな捜査一課内でのやり取りを思い出しながら――、
「くそっ! また面倒な仕事を押し付けやがってっ!! なんだよ。掃除と留守番って、なんか、そのまま洗濯だの、炊事だのと頼まれそうな流れだな、おいっ。俺は子供かっ?! これじゃ、捜査一課じゃなくて、捜査さんとかいう珍妙な表札が掛かる一家みたいじゃないか――」
(――苗字が捜査なら、名前の方は差し詰め、報告か? ああ、そりゃいい。そこの一家からは失踪者だの、浮気だのはなさそうだ。はっ、なんせ、捜査されたら最期、犯行は逐一報告されてしまうんだからな!)
課長や後輩の真弓への当てつけか、内心、宛ら唾を吐き捨てるように皮肉を繰り返し、一通り、文句というより、思いつく二の句が無くなったことで空しくなったのか、律也は嘆息した。
今年、三十代も終盤に差し掛かろうとする男、斎藤律也は短く刈った黒髪を几帳面の度を越えた嫌味なくらいの整髪料で神経質に整えた、やはり、その性格気質柄、身を包んだグレーのスマートスーツも新品同然、皺一つ見られなかった。
そんな、一見、仕事の出来る男を装っている。
しかし、
「おっと。あ……しまっ!」
この港湾署で捜査一課、所謂、キャリア組に属しながら、彼は、出勤直後の明朝に雑務を任されてしまう、言うならば不遇な人材だ。つまり、日々、寝る間もなく忙殺される一課に配属されながらも、髪に時間をかけたり、服の皺を伸ばすといった余暇があるのは、性格以上に、その間抜けさに基づくものなのだろう……。
そして、今日、就勤早々、律也が犯してしまった初失敗は、無造作に積まれたファイルに挟まれ綴じられていた、多分、重要な中身をファイルごと床へ、盛大且つ豪快にブチまけてしまうという、やってしまった後だと、誰だって数秒間は茫然としてしまう、なんとも、彼らしいと言えばそれまでの間抜けな惨事だった……。