2.知らない経歴
「……落ち着いたかい?」
「は、い……」
ひとしきり泣いた後、ようやく涙が途切れた私の顔を見て、黒野さんが優しく聞いてくれた。私は涙の跡を消すように頬をぐいぐいと手の甲で拭って頷く。
落ち着きを取り戻し始めた途端に、私は泣くことしか出来なかった自分がなんだか恥ずかしくなってきてしまって、口を噤む。聞きたいことはいくらでもあったけど、バツが悪くてなかなか切り出せない。
でもそんな私の気持ちも黒野さんはお見通しだったのだろうか。
「ここは鞍馬の家だから、安心するといい。俺は今朝方、鞍馬からの連絡を受けて手伝いに来たんだ。鞍馬は絵を完成させて、今は仮眠しているよ」
安心させるようにそう言って、黒野さんは立ち上がる。私は一瞬納得しかけてから、黒野さんの動きを目で追った。黒野さんは近くのテーブルの上に置かれていた水差しとコップを手にして水を注ぎ、私に差し出してくれる。
「黒野さん……」
「喉が渇いてるだろう。飲むといい」
「は、はい。ありがとうございます」
私の言葉を遮るように差し出された水の入ったコップ。私はとりあえずそれを受け取って水を一口飲んでから、自分の喉がカラカラだったことに気付いた。反射的に、ごくごくとコップに注がれた冷たい水を飲み干す。
そうすると、なんとなく人心地付いたような気がした。頭も少しずつ回るようになる。
私は空のコップを手で弄びながら、黒野さんを見上げて訊ねた。
「あの、黒野さんも今回の事情を知っているんですか? ……その、私に憑いた異形を鞍馬さんが描くことで封印するっていう……」
先日からの出来事は常識的に考えればとてもあり得ないことで、何も知らない人からすれば私が荒唐無稽な悪い夢を見ていたのだと判じられても仕方ない。でもさっきの口ぶりからすると、黒野さんは封印のことを知っているようだった。
(……黒野さんに、色々話してもいいのかな……)
それは期待だった。黒野さんが私の体験を理解してくれる。それはとても甘美な誘惑であって、私はそれを期待して黒野さんを見ていた。
その私を目の端で掠めるように見た黒野さんは、そのまま小さく肩を竦めて何でも無いことのように言ってみせた。
「勿論、知っているさ。鞍馬に絵を教えたのは俺だからね」
「……え?」
「鞍馬に絵と封印のノウハウを教えたのは俺なんだ。最初は教える気はなかったんだが、見よう見まねで不完全な封印を行使されるよりはと思って、要になるところはそれとなく教えてやったよ。実際、あいつは真面目で飲み込みも早い、いい生徒だった」
私はぽかんと口をあけて黒野さんを見上げた。つまり、黒野さんは鞍馬さんのお師匠さんということ……?
「黒野さんも、絵を描いていたんですか?」
私が訊ねると、黒野さんは小さく笑って、私の手からコップを取り上げ、近くのテーブルに置いた。
「昔の話だよ」
「………………」
その黒野さんの返事を、私は打って変わって渋い顔をして聞いていたと思う。
(……そんなの、知らなかった)
鞍馬さんの封印の能力が黒野さんに教わったものだったということにも驚いたけれど、私は過去にとはいえ黒野さんが絵を描いていたのを知らなかったことの方にダメージを受けていた。
私が黒野さんに出会ってから五年が経つけれど、黒野さんは今まで全くと言っていいほどそんな過去を匂わせなかった。勿論、担当編集者の経歴を全部把握しなければならない道理はないけれど、そのことに私はなんとなく心にもやもやとしたものを感じていた。
「……すこし、鞍馬が描いた絵を見に行こうか」
そんな心のもやもやを顔に出したくなかった私が俯いていると、黒野さんはふとそんなことを言い出した。
正直、そんな気分ではなかったし、こんな気持ちのまま黒野さんと一緒にいるのは苦痛だった。だけど、私には黒野さんの言葉を拒否することができない。
「は、はい……」
つっかえながらもそう返事をして、私は祈るようにぎゅっと目を閉じ、拳を握りしめた。




