35.アトリエにて、対決の前に
その広い部屋は画溶液や絵具の独特の匂いに包まれていた。
常夜灯をともしただけの薄い暗闇。ぼんやりと見上げる視線の先には高く白い天井。そしてその天井にぽっかりと穿たれた暗い四角。天窓だ。
私は天窓の下に置かれた大きくて頑丈そうなテーブルに仰向けに寝かされていた。体の下には清潔な白いシーツが敷かれたが、薄いシーツ一枚では背中は痛くなるし、天窓から降りてくる冷気に対して掛布もないので少し肌寒く感じられた。
あれから私は鞍馬さんの自宅の奥にあるアトリエに連れて来られていた。私の借りているアパートの部屋全体が2、3部屋は余裕で入ってしまいそうな広いスペースだ。天井も、普通の住宅の二階の屋根に匹敵するくらいに高く、一部には螺旋階段で繋がれたロフトも付いている。これが絵を描くためだけに使っているスペースとは。なんとも贅沢な話だ。
鞍馬さんは私の横になっているテーブルから幾分離れた位置に椅子を置いて座っていた。その目の前にはしっかりと安定したイーゼル。そのイーゼルには大きなカンバスボードが立てかけられていて、下書きなのだろうか既に鞍馬さんは鉛筆を細かく動かして何かを描いていた。
そこに私はどんな風に描かれているのか。気にはなるが、モデルになっている以上はおいそれと動く訳にはいかない。そんな風に思って頑なに横になったまま天窓を見上げていた私が緊張しているように見えたのだろうか。鞍馬さんは手を動かしながらも私に声をかけてきてくれた。
「今から行うことについて、少し説明をするぞ」
「は、はいっ!」
「とはいっても、複雑なことはない。俺が絵を描くから、先生は俺がいいというまで絶対に眠ったり、気を失ったり、目を瞑ったままにしないようにしてくれればいいんだ」
「それだけ、なんです……か?」
思わずそう言ってしまって、私は自分の言葉が失言だったと気付いて首を竦める。少なくとも画家である彼が絵を描くのを「それだけ」という言葉であらわしてしまうのは失礼だろう。
だけど、鞍馬さんはそんな私の失言のことはあまり気に留めていないらしい。ふと息を吐いて少しだけ憂いのある表情になり、手にした鉛筆を掌で手持ち無沙汰に転がしながら伏せがちにした目で私を見た。
「なあ、先生。こんなとこまでのこのこと付いてきたお人好しで素直な先生のことだから疑うことはしないと思うし、俺を疑うことは自分自身を危険に晒すことだってことも理解できてると思う。だから、こちらも正直にこれからすることを言うぞ」
そこまで言って、彼はすっとその顔から表情を消す。そして、決意に満ちたような固い声でこう言った。
「今から、先生を脅かしている存在を絵の中に封印するんだ」
それは常識的に考えれば信じられない話だった。まるでホラー小説の世界だ。数日前の私だったら、信じるどころか彼の正気を疑っただろう。
だけどこの数日、たくさんの怖い経験をした私、そして今日一日、私のために奔走してくれた鞍馬さんのことを見てきた私は、その言葉に疑いを持つことは出来なかった。ただ、それを事実として受け入れる。
「……はい」
あまりにあっさりと信じたからだろうか、鞍馬さんは胡乱な顔で私を見た。暗に「信じろ」と言ったくせに、その顔はどこか意外そうだ。私はそんな彼が少しだけかわいく思えて、緊張に強張る口角をわずかに上げた。
だけど当の鞍馬さんは私に笑われたことが不満だったらしい。小さく唇を尖らせて視線を逸らした。そしてぶっきらぼうに付け加える。
「まあ、今の俺はそのための技術を持ってるっていうだけで、まだ実際に封印した経験はないんだけどな」
「え、今それを言うんですか……?」
「事実だからな」
私が不安に駆られて微妙な顔をしたからだろうか。鞍馬さんはやり返して満足したかのようににやりと笑った。




