EXTRA STORY 7.
「きゃああああっ!!」
俺たちの耳をつんざいたのは、絹を裂くような女の悲鳴だった。多分、御陵先生の声だった。続いて、バタバタと何かが暴れるような音がサロンの中から聞こえてくる。
……これはただごとじゃない。
俺は何も考えずに、扉をぶち破るように乱暴に開けてサロンの中に乱入した。そして部屋の中にさっと目を配る。だが、その瞬間。
「……っ!?」
ドンッ!と体当たりするように、誰かが俺の首に飛び付いてきた。俺は咄嗟にその人物の背に手を回して抱き留める。
「御陵先生?」
それは、御陵先生だった。彼女を抱き締めるのは今日二度目で、感覚で分かる。俺が贈った薄手のセーターとシンプルな黒いスカートを着てくれているようだ。先ほどまではもっさりと長かった髪は、三人娘のプロデュースで切ったのだろう。うなじが見えるくらいまで短くなっていて、俺はそのうなじの白さに思わずドキリとする。
「御陵先生?」
もう一度呼びかける。だけど、彼女は俺の身体に齧り付いてカタカタと細かく震えているだけだった。
俺は先生を宥めるように背中を撫でてやりながら、しばらくは遠巻きに見ていたものの彼女を心配して俺たちの元にやってきた三人娘に訊ねるような視線を送る。
「先ほどまではずっと落ち着いていらっしゃったのですけれども、急に窓の方を見て取り乱されたのですわ……」
桜が気遣わしげに先生の背中を見て言うと、楓と椿もそれに賛同するように首を縦に振った。
さっと視線を走らせて壁に掛けられた時計を見る。時刻は夜の八時を少々過ぎたところだった。確かに夜は更けてきたが、まだ時間には幾分早い。何かを「見た」わけではないのだろう。だが、きっと彼女はとても怖い思いをしたのだ。
俺は逸る自分の気持ちも落ち着かせながら、彼女の背中をしつこいくらいに繰り返し撫でた。
「大丈夫、俺が助けてやるから……。だから、あともう少しだけ頑張ってくれ……」
それは祈りであり呪いであったと思う。もう既に彼女の精神と身体は疲弊しきっていて、これ以上の猶予はないのだと知りながらも、今はまだ頑張れと言うしかない。もしかすると、彼女にはその俺の言葉こそ恐ろしく聞こえたかも知れない。
それでも、しばらく背中を撫でていると先生の身体の震えは徐々におさまってきた。
やがて先生は俺の腕から逃げるように小さく身動ぎをして、俺の背に回していた腕をゆっくりと引いて離れていく。
「ご、ごめんなさい、急に取り乱してしまって……」
俯きながらそう蚊の鳴くような声で言った彼女は、もうあの分厚いレンズの眼鏡をしていなかった。そうか、コンタクトレンズにしたんだな。
「大丈、夫、か……?」
俺はそう言いながら先生の顔を覗き込んで、思わず言葉に詰まった。
「……? 鞍馬さん?」
頬にかかる髪を指で撫でるように直しながら、彼女はその潤んだ大きな瞳で俺を見上げてきた。確かに眼鏡をしていた時から口や鼻の位置や形は綺麗だと思っていたけれど、眼鏡の邪魔のない彼女の顔の造作は、何もかも完璧と言って良かった。細い首が露わになるショートボブの髪型も似合っている。俺が見繕った地味目の服も、彼女が着ると慎ましやかで清廉なイメージに拍車をかけていた。
(な……んだこれ、すげー可愛い……)
俺は思わず身震いをした。まるで美しい女神を前にした無力な人間のように、俺の心には彼女の可憐さと美しさに畏敬する気持ちがこみ上げてくる。大げさに聞こえるかも知れないが、俺は確かに彼女に深く昏い畏れを抱いた。
「……その、変……ですか?」
「……え?」
しかし、そんなこちらの気持ちを知らない先生は、顔を見て急に黙り込むというマナーとしてはいかがなものかと思われる反応を示した俺に不安を煽られたらしい。俺が訝しむ声をあげると同時に、急におろおろとし出した。
「すみません、すみません! せっかくこんな素敵な服を買って頂いたのに……。やっぱり、私には無理があったのでは……」
どうやら、先生自身は全くの無自覚のようだ。それはそうだろうな、と俺は勝手に納得する。彼女は別に変身したわけでも何でも無いのだ。彼女から見れば今の自分はただの「髪を切り、眼鏡をコンタクトレンズに変え、多少身綺麗にして貰っただけの自分」なのだろう。
彼女の普段の言動に滲む自己肯定感の低さが目くらましになっていたのだ。いや、それとも彼女を侮る俺の気持ちのせいだったのだろうか。
(クソッ! どう育ったら、この可愛さであの自己肯定感の低さになるんだよ……)
はあと小さく息をついて、俺はまた先生を見る。やはり何度見ても彼女は途方もなく可憐で、いっそ近付きがたいほどだ。しかし、彼女は今まで通りにおどおどとしながらこちらを窺ってくる。その彼女の様子に、俺は何故かほっとして口元を緩めた。
(でも、こういうちょっと残念なところを見ると、何となく安心するな……)
そう思いながら小さくにやけていた俺は、後ろからサロンに雪崩れ込んできていた万次郎がしらっとした目をこちらに向けて来ているのにはっと気付く。三人娘に至っては汚らわしいとでも言うような険のある表情だ。
俺は思わずその場の空気を払拭するように咳払いをした。だけど万次郎は容赦がない。
「あらあら、鞍馬くーん? さっきの台詞、『俺は別に』何だったのかしらね?」
にやにやと楽しそうに笑いながらそんな風に訊ねてくる万次郎の言葉、棘を刺すような三人娘の冷たい視線、更には目の前で不安そうにしている先生の自信のなさそうな視線にまで晒されて、俺はその場から逃げ出したいような気持ちと共に、軽い目眩を感じていた。




