EXTRA STORY 4.
『わかりました、よろしくお願いします……』
そう物わかり良く言って深々と頭を下げた御陵先生が、身繕いをするために万次郎の弟子の三人娘に付き添われてこのサロンを辞していってから優に数時間が経っていた。
「………………」
俺はサロンの出窓に腰を掛けて、窓の向こうに沈みかけている赤い夕日を目を眇めながらじっと見つめていた。太陽が沈むにつれ、俺は自分がじりじりとした焦りのような感覚に囚われ始めているのを感じる。
あまり、いい気持ちとは言えない。
「鞍馬くん、あんまり太陽ばかり見てると目に悪いわよ」
「ん、ああ……」
このサロンでしばらくお互いに干渉することもなく過ごしていた万次郎が見かねたように窓際の俺を見てそう忠告するが、俺は生返事をしただけだった。相変わらず暮れゆく夕日を見続ける俺に痺れを切らしたのか、万次郎はカツカツと高らかにヒールの音を立てて近づいてくると、窓に設置されているブラインドを下ろしてしまった。
「もう子供じゃ無いんだから、自分にとってプラスになるかマイナスになるかの分別くらいきちんとつけなさいな」
「……おう」
万次郎の説教。いつもの俺なら無視するところだ。だけど今はそんな気にもならなくて、気もそぞろにうわべだけの返事を返した。
そんな俺の様子を気にしたのだろうか。万次郎はそっと俺の隣にやってくると、俺と同じように出窓に腰をかける。普段の万次郎なら「行儀が悪い」と言ってしない行動だった。多分、万次郎は今だけでも俺と同じ目線に立とうとしてくれたのだろう。
「緊張してるわね。……怖いのかしら?」
突拍子もないような気もする万次郎の問いかけだったが、それはアタリだった。
「そりゃあ、な。何しろ、今夜は決戦だ。失敗した時のことを考えたら、怖いよ……」
俺は笑ったつもりでいたけれど、それはどうも頬を引きつらせるだけに終わったようだ。万次郎は少しだけ心配そうに目を伏せた。そして呟くような微かな声を発する。
「もし……」
「うん?」
「もしも、貴方が怖いと思うようなら……逃げてしまってもアタシは何も言わない……」
俺はぎょっとして万次郎を見た。こいつがそんなことを言うとは思わなかったのだ。
だって万次郎は黒野と共に俺にとって兄貴みたいな存在だった。俺はずっと二人の背中を追ってきたし、万次郎の誰よりも優しくて誰よりも倫理を重んじる所は、俺にとってとても誇らしいお手本だったのだ。
それなのに――。
「アタシはね、本当を言えばもう何も失いたくないのよ。もしも今夜、貴方が彬ちゃんを見殺しにするという倫理に悖る選択をしたとしても、貴方が必ず生き残ってくれるならばそれでも構わないと思っているの」
「万次郎、お前――……」
何を言っているのか解ってるのか。そう訊ねようとして俺は咄嗟に口を噤む。
思い至ったのだ。もしも俺たちの立場が逆だったら、先日まで見知りもしなかった女の為に万次郎に死の危険もある薄氷を踏むような行動を薦めることが出来るというのだろうか。
勿論、そんなこと出来やしない。
途端に、万次郎の視線がもの悲しく思えてきて、俺は出窓の窓枠に掛けた手をぐっと握りしめた。
「……悪い。お前にそんなこと言わせたかったわけじゃないんだ……」
優しいこいつにあんなことを言わせてしまった自分の不甲斐なさをそっと詫びてから、俺はゆっくりと一言一言奥歯で噛み締めるように自分の考えを咀嚼してから言葉に乗せる。
「御陵先生を助けるのは、俺が自分で決めたことなんだ。もし見殺しにするようなことになったら俺はどうあっても後悔すると思うし、そうなったら俺はそれこそ生きてはいても活きることができない。だから、お前が何を言おうと曲げる気はない。俺は彼女を助けるんだ」
そこまで言って、俺は努めて明るく笑って見せた。
「だから、俺は必ず成功させる。何が何でも、成功させてやる。それが、彼女にとっても俺にとっても、勿論お前や黒野にとっても最善の結果になると信じてるから。皆で笑って終わるためにも、俺は……」
「鞍馬くん……」
「はは、柄にもなくアツくなっちまった」
普段はこんなに言い募るようなことはしないから、何となく照れる。だけどこれは必要な言葉なんだ。言葉にしなければ伝わらない想いもあるのだから。
万次郎は暫く、真顔にした表情を崩さずに俺を見ていた。だけど、すぐにふっとため息をついて緊張を緩めると、俺の肩を平手でばしっと容赦なく叩く。
「痛ってぇ!」
その痛みに背中を丸めてもんどり打つ俺を後目に、万次郎は強い口調で俺を諭した。
「いいこと? 死んだら許さないわよ。もしも死ぬようなことがあったら、お葬式の席で集まった人に貴方の恥ずかしい秘密を全部バラすからね! こっちは貴方が赤ん坊の頃からおむつだって替えてあげてたような仲なのよ。ネタならいくらでもあるんだから!」
「うわ、怖ぇ……」
俺はその剣幕に薄らと笑ってから、痛みに丸めていた背筋もそのままに、大きく頷いて見せたのだった。
「ああ、約束するよ」




