13.親しく呼ばう
私は、ごくりと口の中に溜まった唾液を飲み下して自分を奮い立たせる。
大丈夫、大丈夫。これは単なる絵。ここに描かれているものは実際に存在するものじゃない。
そう何度も何度も脳裏で唱えながら、私は引きつった微笑みで草壁氏に頭を下げて謝辞を述べた。
「草壁さん、ありがとうございます。とても迫力のある絵で、その……とてもいい刺激になりました」
その嘘ではないがだいぶ無理をして言った言葉に、彼は目を細める。
「そうですか。俺の絵が役に立ったなら良かったです」
その表情は優しげだったけれど同時にまだどこかからかうような色もあって、彼は私がこの絵に痛いくらいの恐怖を感じていることを知っているようでもあった。
その草壁氏の様子を不審に思った私が、彼のことを伺うようにして見てしまったのも無理からぬことだと思って貰えるだろうか。
しかし彼はその視線をどう取ったのだろうか、また別方向から私を困らせるようなことを言い出した。
「ああ、あと俺のことはどうぞ『鞍馬』と呼んで下さい。そっちの方が俺も慣れているし……」
「え……でも、私……」
草壁氏の言葉に、私は慌てて両手のひらを上げる。だって、私は今まで男の人を名前で呼んだことなんてない。今まで私が関わってきた男の人は故郷の人も含めてみんないくらか年上の人ばかりだったんだから。
しかし草壁氏はにっこりと笑って促すように首を傾げた。その仕草には逆らわせないという彼の強固な意思が反映されている気がした。
私はあわあわと慌てながら視線を彷徨わせる。助けを求めるように黒野さんを見たけれども、黒野さんまでもが苦笑いをしながら促すような雰囲気だった。この包囲網はなんだろう。
結局、私は彼らの強引さには勝てなくて、さっきまで恐怖に青くなっていた顔を今度は赤くして俯きながら、小さな声で彼の名前を呼んだ。
「……鞍馬さん」
多分彼の言い方からして呼び捨てにすることを求められていた気がするのだけれど、さすがにそれは出来なくて、とっさにさん付けをしてしまう。
そのことで草壁氏の機嫌を損ねてしまうかとも思ったけれど、彼は小さく微笑んだだけで優しげな表情は崩さずに甘いオレンジジュースのコップをその手に取った。
「まあそれ以上は追々で構いませんよ。きっと、貴方とは深い付き合いになるんだから……、ね」
それは作家と画家としての付き合いのことを言っているんだろうとは思うし、知り合いが出来ること自体は喜ばしいことだと思う。
だけど、彼の言い方が何となく押し付けがましく嫌らしくて、私はどうしても喜ぶ気持ちにはなれなかった。