9.草壁鞍馬という男
「御陵先生、こちらが怪奇画家の草壁鞍馬画伯だよ。まあでも、前に言った通り彼は俺の友人だし、先生と年も近い。緊張はしなくても大丈夫だから」
「えっ、じゃあこの――……方が草壁さんなんですか?」
驚いた。こんなに若い人だと思わなかったし、怪奇という一種のサブカルチャーに類するだろうテーマに傾倒する人にはとても見えなかった。勿論、それは私の勝手な思い込みなのだけれども。
一方草壁氏は、私の感じている焦りと驚きを否定も肯定もすることなく、軽い会釈と共ににこりと爽やかに笑って挨拶してみせた。
「こんにちは。お目にかかれて光栄です、御陵先生」
「えっ、あ……その、……は、はい。こちらこそ……」
慌てて頭を下げ返してから、私は彼をそっと見上げる様に見つめた。盗み見るような気持ちでいたけれど、すぐにその視線に気付いたのか草壁氏の方も遠慮無くこちらを見つめ返して来る。
「!!」
一瞬、見つめ合う構図になった私たち。でも私はすぐに視線を逸らして自分の足元に移動させてしまう。この近い距離で男性と見つめ合うなんて、そんな経験は今まで一度だってなかったしこれからだってないと思っていた。だから、つい視線を逸らしてしまったのだけれど、私はすぐにちょっとだけそのことを後悔した。
とは言っても「もっと見つめ合っていたかった」だとかいうロマンチックな気分では全然なくて。ただ、向こうから視線を合わせてくれたというのに、耐えきれずすぐに視線を逸らしてしまったことに、失礼な女だと思われなかっただろうかと不安になっただけだったのだけど。
次の瞬間、頭上で草壁氏がくすっと小さく笑う声がして、私はひやりと背筋が冷えるのを感じた。
やはり私はどこかおかしかっただろうか。鄙びた田舎者と笑い物にされてしまったのではないだろうか。
頭の中がそんな思いでパニックになりかけた。草壁氏から逸らしたままの視線は当て所もなくさまよい、頭から血がざあっと引いていって、立ち眩みのような連続した眩暈が私を襲う。足の震えが止まらない。
やっぱり顔合わせなんてしなければ良かったのだろうか、なんて後ろ向きなことをぐるぐると考えていた私は、ふらりと急に足元が不確かになるのを感じた。
「おっ……と、大丈夫かい?」
気付いた時には、私は腕を横から強く黒野さんに引かれて辛うじてその場に立っている状態だった。最初は何が起こったのか解らなかったが、すぐに緊張と混乱に血の気が引いて失神しかけたのだと理解した。
「っ! す、すみませんっ……!」
血の気の引いていた顔に、今度はぶわっと血が上ってくる。私は真っ赤になりながら生まれたての子鹿みたいになる足を叱咤してすぐに自分の足で立つと、草壁氏と黒野さんにぺこぺこと小刻みに頭を下げた。
会うなり失神しそうになるとか、どれだけ失礼なことをすれば気が済むんだろう、私。
ちらりと草壁氏の様子を伺うと、案の定彼はぽかんと呆気にとられたような顔で私を見ていた。
ああーっ、やっぱりそうなりますよね……。
最後に、ようやく深く下げられるようになった頭を出来るだけ下げながら蚊の鳴くような声でもう一度「すみません……」と謝った私は、その後がくりと項垂れる。
ああ、駄目だ。この顔合わせは失敗だ。きっと嫌われてしまう。
そう私が覚悟した瞬間だった。
「ぷっ……」
草壁氏が急に吹き出すように笑い始めたのだ。
突然のことに、今度はこっちが呆気にとられる番だった。
しばらく腹を抱えるようにして盛大に笑っていた草壁氏は、笑いすぎたのだろうか、滲んだ涙を拭いながら私を見る。
「すみません、笑い事じゃないのは解っているんですが、いきなり意識を失われるとは思わなかったから……」
「も、申し訳も……」
「いえ、やっぱり御陵先生は感受性の強い方なんですね……」
「……やっぱり?」
その言葉が引っかかって復唱するように訊ねると、草壁氏は握った拳を唇にあてて、少し考えるような仕草をする。それはどこか芝居がかった仕草だったけど、麗しい彼には不思議と似合っていた。
「御陵先生の著書、いくつか読ませて貰いました。俺は文章に関しては門外漢ですけど、それでも先生の想像力と表現力は圧倒的だと感じます。だから、多分先生はとても感受性の強い方なんだろうなと思っていたんですよ。きっとホラーを書く上でもそれが最大の武器になると思います」
それが褒められているのだと気付くまでにたっぷり十秒はかかった。
そしてそれを理解した瞬間、私は気分が少しだけ……ほんの少しだけど軽くなるのを感じた。
それは社交辞令、なのだろう。でも、本当に、我ながらとてもチョロいと思うけれど、やっぱり面と向かって褒められるのは悪い気はしない。
彼の言葉が、私にはとても嬉しかった。
「だから今は、先生の作品作りを手伝えるのが本当に楽しみなんです。ぜひ俺たちで最高の作品を作って、読者に届けましょう!」
そう言って差し出された手は大きくて頼りになる気がした。
私は少しの時間、どうするべきなのか迷った挙げ句、自分の右手をパーカーの裾でごしごしと拭ってから、思い切って前に差し出した。彼は嫌な顔一つしないでその手を取って、しっかりと握りしめてくれた。
私は勝手にぼんやりと火照る頬をどうすることも出来なかった。