契約
俺たちは百合の実家、花裂家の敷居を跨いだ。
玄関にて靴を脱いで奥へと進もうとしたところ。
エリザベスが困った顔をしていることに気がついた。
「どうした?」
「いえ、その」
その視線は自身の足下に向けられている。
俺もそちらに視線を向けると、汚れたドレスの裾が目に入った。
「このままでは汚れてしまいますので」
「そっか。じゃあ、私が魔術で――」
「いや、俺がやるよ」
「え?」
名乗り出た百合よりも先に、エリザベスの側にいく。
膝を折って汚れたドレスに手を翳し、魔術の構築式を脳内に描く。
これでも魔術師を志した身だ。
魔術が使えないとわかっていても、学ばずにはいられなかった。
まさか、実際に使う日がくるとは夢にも思わなかったけれど。
「ほら、綺麗になった」
魔術は正常に発動し、ドレスから汚れを払う。
解れまでは直せないが、これで気兼ねなく家にあがれる。
「ちょ――ちょっと待って」
立ち上がって振り返ると、百合が目を丸くしていた。
「いま、発動した? 魔術が、どうして? だって、魔力が」
「それもまとめて説明するよ」
今度はこちらが百合の背中を押して、家の奥へと進む。
そうして今回の一件についての説明が成されたのだった。
「――ってのが、ことの顛末だ」
「なるほど……」
背もたれに身を預け、腕を組み、顎に手をおく。
物思いに耽るその動作は、百合がよく行うものだった。
難解な話や、解けない難問をまえにすると、いつもそんな仕草をする。
今回も例に漏れず、いつものように百合は思考を巡らせていた。
「古龍の因子に、異世界の姫君か。じゃあ、双也がいま魔術を使えるのって」
「あぁ、その古龍の魔力を使ってる」
「そっか……でも、どうするの? これから」
百合の視線が、俺の隣へと移る。
エリザベスは、話し終えた途端に眠ってしまっていた。
無理もない。
追っ手を常に意識しながら森の中を駆けずり回っていたのだ。
疲労感から睡魔に襲われるのは必然だ。
「まず、魔術組合に事情を話して、戸籍を発行してもらう。もちろん、伏せるところは伏せてな」
とくに古龍の因子のことは話さないほうがいい。
確実に面倒なことになる。
このことは、この三人だけの秘密に止めておくべきだ。
「過去に前例はあるんだ。協議に時間が掛かるだろうが、認められるはずだ」
「前例って言っても、かなり昔だけどね。教科書に出てくるくらいの」
「仮に認められなくても、エリザベスはもう元の世界に戻れない。転移魔術じゃ世界の垣根を越えられないからな」
召喚と転移。
似た者同士ではあるが、非なるものである。
召喚魔術は世界の垣根を越えられる。
だが、転移魔術ではそれが叶わない。
魔術組合が過去に何度も挑戦したが、ついぞ成功することはなかった。
こちらの世界に召喚されたエリザベスを、異世界に転移させることは不可能だ。
「魔術組合は認めざるを得ないさ」
「ま、たしかにね。転移に失敗すると次元の彼方に消えちゃ……」
不意に、百合の言葉が途切れる。
「どうした?」
「……ごめん、双也。うっかりしてた」
うっかり?
「双也が異世界に召喚された直ぐあと、再召喚のために構築式を描いてたんだけど。やっぱり一から仕上げるには時間が掛かりすぎると思って……」
「思って?」
「最近、憶えた構築式をベースに改造を施して召喚陣を描き上げたの」
嫌な、予感がする。
「そのベースになった構築式って言うのは?」
「……使い魔召喚」
「マジか」
使い魔召喚は、文字通り召喚した生物と契約を結ぶためのもの。
契約すればその生物は召喚された場所に居続けることができる。
しかし、契約が結ばれなかった場合、召喚された生物は元の場所へと戻されてしまう。
「つまり……俺は百合と契約しないと異世界に戻されるってことか」
「うん……そういうこと」
俺は一度、異世界に召喚されている。
いま現実世界にいられるのは、ここに再召喚されたからだ。
戻されるなら、異世界になってしまう。
「……その場合、エリザベスはどうなるんだ?」
「わからない。たぶん、服とか武器とか。言葉は悪いけど、付属品みたいな扱いだとは思う。でも、即興の上に改造までしてある召喚陣だから……正直、どうなるかはわからない」
「そうか……」
そうなると異世界に戻ることすら叶わない可能性も出てくるな。
世界の垣根を越える途中で不具合が起こり、次元の彼方に消え去る。
そんな未来もあり得るかも知れない。
「双也」
名前を呼んだ百合は、立ち上がって側にくる。
「私と契約して」
「……本気か? まだほかに手は」
「ない。あったとしても、これが一番確実なんだから」
そう言った百合の目は、真剣だった。
「私、双也に消えてほしくない」
「……いいんだな?」
それに百合は頷いた。
なら、俺からなにかを言うべきではない。
立ち上がって、百合を見下ろした。
「あっ」
それから腰に手を回して引き寄せ、指で百合の顎をすこし持ち上げる。
使い魔召喚における契約とは、互いの魔力を通わせること。
その方法とは、つまり。
キス。
「ちょ、ちょっと待って、双也」
視線が逸れる。
「嫌になったか?」
「そうじゃない。そうじゃなくて……その、私……はじめてだから」
「なっ。いま言うか、それを」
この土壇場で。
そんな重大なことを。
「だ、だって……乱暴にされたら、怖いし」
百合の身体が震えていることに、今更になって気がつく。
そう、だよな。
はじめてなら、俺がリードしないと。
「わかった。なるべく、優しくするから」
そう言うと、百合の震えがすこし収まった。
それが気のせいではないことを祈りつつ、俺たちはゆっくりと唇を重ねた。
「んっ」
短いようで長い一瞬が過ぎ、互いの魔力が通う。
契約はここに結ばれ、零になっていた距離はゆっくりと離れていく。
「双也……」
潤んだ瞳。紅潮した頬。
改めてみた百合は、いつもの百合とはまるで別人のように映る。
まるで、引き寄せられるような。
「――ふぁあ」
瞬間、後方であくびが聞こえた。
即座に俺たちは元の席につく。
「いつの間にか……眠ってしまって……お二人とも? どうなされたのですか?」
エリザベスが不思議そうにこちらを見ている。
「お顔が赤いようですけれど」
そう訊ねてきたエリザベスに、俺たちは合わせてこう返した。
「なんでもない」
互いの視線は、最後まで合わせられなかったけれど。