ある風景
(畢)
打鍵に興じていた頃が懐かしい。
幼い頃は何も知らなくて、そして今も何も知らない。経験だけが虚像となって積み上がって、真物はどちらかとぼくだけに問うてくる。
ぼくは君なのにおかしいね。君が成り代わるんじゃなかったのか?
「何してるの?」
ぼくは画面をその役立たずの図体でもって隠蔽する。背後に立ち上がる音がする。
「なにこれ」
ぼくは構わず文字を打ちつづける。死ぬまで。
彼女は無言で側に打ち棄ててある鈍色のカッターでぼくの頸部を突き刺し(「…………」)……――、――
私が彼に愛されていなくて、彼は文字を愛していることを知ったときに、私は逐一考えるのを止めて駄文を綴りつづけている目の前の愚者を殺す。
殺す。
「殺しちゃった、か……」
殺しました。簡単に。
私はいつも刹那的な彼をころして、折角の人生を無駄にしてしまう(ここ、二重含意)。
言ってることが分からないや――私、何言っちゃってるんだろう、日本語がおかしい。
でも私がおかしいのか。
どうでもいい。
どうとでもなれ。
所詮わるあがきだったんだ。ミジメで息苦しさ満載の、狂った凶器。
「それがあなたの凶器……」
漢字が鋭敏で、ひらがなが柔軟で、カタカナが曖昧で。
肉や意味を切り刻むには適切だね。
ひどく……ひどく残酷。
くだらない。
「私があなたを殺したように、あなたが文字たちを殺したのよ」
字母表はさながら過量殄戮の惨死体で。
赤い赤いそれらはあなたの肉片で。
骨子は方方に。
残香は淫靡に。
脳漿は泡沫に。
恥骨は悋気に。
嫋嫋と。
表象と。
喋喋と。
強調と。
「末期」
死ね。穏健の先まで。……
自分が自分を把握していないのか。
自分が自分に把握されているのか。
怖い、怖い、怖い。
「怖すぎて愛したくなっちゃうよ」
恐怖も倒錯で誤魔化せるなら快楽だ。
全身を包むこの寒気はなに?
あるいは脈絡のない囁き?
そうじゃない、媚声が美しくて応えようとしているんだ。
「――死んでもいい」
悶えるのを我慢してぼくはその刹那の瞬間まで悦びを噛みしめる。ぞわぞわと躰を這い上がってくる解放感を享受しながらぼくの首が不自然に断たれる。
意識は遥か彼方にブッ飛んでいるものの現実はそこにあって過去か追憶の如くぼくを必死で追いかける。
それは永遠に追いつかない出来レースなのであって、ぼくは永劫につかまらず、ただ花畑を踏み荒らす法外侵入者でしかなくって。
――死にたい。
動じないのね。石みたい。
地面に埋もれて固まった古石みたいに、彼は動かない。
まるで死体みたいに動きにくい衣装。脱ぎ捨ててしまえば、何処へでも飛べるのに――
(私とは違うんだな。……身を大切にしてる)
矜持なんて大儀なものを取っ払ったところに本懐があるって言ってたけど、あれはどうやら本当らしい。
私は爪を噛んで割って、血肉を露出させる。供養だ。ないものを足してあげて、完全な姿で莞爾……
「にこりともしない」
彼は表情のない顔で地平線に倒れ込んで、いつだって私の想像を超える。
どうやったらそんな芸当ができるのか。
私は毎回よくわからないままに彼を殺してしまう。
もしかしたらそういう想像なのかもしれない。私が彼を殺して途絶える、という想像。
……馬鹿馬鹿しい。済んだ贖罪も甚だしい。
大体が想定外じゃないか。真っ赤な嘘にまみれて、奇異ばっかり。
空想じみた嘘臭さも反転すれば現実らしくなるけれど、その反転は結局妄想じゃあないか。
私は繰り返して殺す。
物語にまみれた彼をふたたび殺す。
ぼくはまたぞろ還ってきて繰り出される文章の奔流に身を任せて、自殺を待つ。
「何してるの」
まだ見えない。まだ見れない。
物語は完成してからが始まりだ。
ぼくという読者はそうして滅する。
まるで最初からそこにいなかったかのように――
「なにこれ」
依存したモノの想像を絶する深遠さに、言語を絶する。
――そんな、っ――置いていかないで。
…………――。
「……――っ」
そうなのか。
そうだったのか。
ぼくが愛したものは、こんなものだったのか。
「鏡を象っているんだよ」
ぼくは彼女に言う。
対称性を偽っているんだよ。
と。
「さようなら、おやすみなさい」
って私が言って、彼はやっと眠ってくれた。
(承前)