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2月(下)

 シスタニア帝国は、未だかつて無い程の危機的状況に陥っていた。

 そしてそれは同時に、ベガにとっての危機的状況でもあった。

 嫁ぎ先の危機と言うことが嫁にとっての危機に直結すると言う話であり、そして今回の場合は、もっと直接的な意味での危機であった。



「あ、あれ……?」



 ベガは困惑していた。

 動揺してはいなかったが、困惑していた。

 何故かと言うと、目の前に起こっていることが上手く認識できていなかったためだ。

 起きていること自体は単純だ、一言で表すことが出来る。

 何しろそれは、まさに一目瞭然であったのだから。



 リチャードが倒れている。



 以上である、これ以上の説明は無い、強いて言えばうつ伏せに倒れていることくらいか。

 どう言うことかと言うと、読んで字の如く、リチャードがベガの目の前で倒れているのである。

 転んでいるのでは無く、倒れていると言うのがミソだ。

 つまり尋常な状況では無く、異常な状態だった。



「リ、リチャード様……?」

「…………がふっ」



 返事は無く、泡を吹いたままビクビクと痙攣するばかりだ。

 そんなリチャードを手元には、茶色く四角い何かの塊が落ちていた。

 一口齧ったのだろう、端の方が欠けていた。

 そしてそれは、実を言えばベガの作ったチョコレートだった。

 一見して見ると、毒物でも盛られたのかと思えそうだ。



 それは、凄まじいことだ。

 何しろリチャードは摂政、政治にまるで関心の無い皇帝ヴィクトリアに代わってシスタニア帝国の全てを司っているリチャードが倒れたとなると、シスタニア帝国だけで無くアイディアル地方全体の情勢に影響する大きな事件だ。



「ど、どうしてこんなことに」



 今さら言っても、仕方ないことだ。

 時は戻らない、後悔してもどうにもならないのだ。

 口元に手を当てて、表情を青ざめさせていても、目の前の事象が覆るわけでは無い。

 うろたえて見せても、どうにもならないことだってあるのだ。



「わ、私はただ」



 どうしてこんなことになってしまったのか?

 それを知るためには、今少し時間を遡らなければならない。

 具体的には、そう、ベガがヴィクトリアとのチョコレート作りを終えた頃まで遡ることになる。



 そう、あれは2人で作ったチョコレートが一応の完成を見た時だ。

 そしてリチャードが厨房にやって来て、ヴィクトリアのチョコレートを貰おうとした時のことだ。

 今にして思えば、あの時はまだ平穏であった――――……。



  ◆  ◆  ◆



 ……――――何とかなるものだ。

 厨房の調理台の上にちょこんと並んだ小さな箱を見て、ベガは息を吐いた。

 数は2つ、言うまでも無くベガとヴィクトリアの作った分だ。

 大きさとしては掌の乗るくらいの小さな物で、量はそう多くは無かった。



「わぁい、出来た~♪」



 ヴィクトリアはと言えば、ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。

 フリフリとしたピンクのエプロン――ベガも同じ物を身に着けている、「お揃いが良い」との姫君ヴィクトリアの仰せだ――は、チョコレートが端々についていて汚れていた。

 それは調理の際の奮闘振りを表していて、チョコレート作りがいかに難題だったかと言うことを窺わせた。



「姉さま、姉さま! チョコレート出来たよ!」

「うんうん、わかってるわかってる」



 見ていたらわかることをことさらに言葉にするのは、やはり子供なのだろう。

 ぴょんぴょんと飛び跳ねて、まさに飛びついてくるヴィクトリアを受け止めつつ、苦笑する。

 こうまで無邪気だと、もうそれだけで良いかと思えなくもなくなる。

 ただ、調理の仕方を理解していない者が調理をすればどうなるのか?

 答えは、それこそ見ればわかる。



 汚れがエプロンだけで済むはずが無く、調理に使用した厨房中にそれは及んでいた。

 新品だった調理器具はもちろんのこと、調理台・床・壁にまでチョコレートが飛び散り、欠片が散らばり、場所によっては何故か焦げ目までついていた。

 身体ひとつとっても、衣服だけでなく顔や手足もチョコレートでベタベタになっていた。

 正直、いったいどのような調理風景が繰り広げられていたのか、想像したくは無かった。



「あのね、姉さま。このチョコレート……」

「やぁ、ヴィクトリア! こんな所にいたのか」



 ヴィクトリアが何事かを言いかけた時だ、リチャードがひょっこりと顔を出してきた。

 何か偶然を装っている風があったが、明らかに狙ってやって来ていることが丸わかりだった。

 むしろ、ヴィクトリアがいる所に彼がいないことの方が異常のような気がする。

 何しろ、彼は常にヴィクトリアのことを案じていると言うか、考えているのだから。



「おお、これはまた凄いじゃないか。チョコレートの匂いで厨房が一杯だね」



 とは言え、チラチラソワソワとするその仕草は正直イラッとするが。

 ただ当のヴィクトリアはと言うと、実兄の登場にも少し目を丸くしただけで、再びベガの方へと顔を向けた。

 その手には作ったばかりのチョコレート、簡素だがしっかりとした造りの小箱に収められたそれを、満面の笑顔で差し出している。



「姉さま、姉さま」

「はいはい、何だ?」



 そのままの笑顔で、ヴィクトリアは言った。



「はい、姉さまにあげる♪」

「え?」

「えぇ――――……」



 ニコニコ笑顔のヴィクトリア。

 少し驚き顔のベガ。

 衝撃を受けているリチャード。

 三者三様のその顔は、誰が欲を持っていて誰がそうで無いのか、あからさまに窺えようと言うものだった。



  ◆  ◆  ◆



 そう言えば、どうしてチョコレートを作りたかったのか、理由を聞いていなかった。

 ベガとしては誘われた段階で断る選択肢が無かったので、理由まで確認しようと思わなかったのだ。

 政略結婚だからと言う理由もあるが、何より、断られることを想定していないヴィクトリアの笑顔を見ていると、何と無く断りにくかったのだ。



「これ、姉さまにあげたくて作ったの」



 そもそもこのイベントは先にも説明した通り、基本的には女性が男性にチョコレートを贈るイベントだ。

 しかしヴィクトリアにとっては、そう言う細かなことには頓着する必要が無いのだろう。

 ただ、ベガと一緒にイベントを楽しみたかっただけなのだ。

 そして作ったチョコレートを、義姉であるベガにあげたかっただけ。



 そこに、不純物は一切無かった。

 純粋で、無垢で、相手のことを心から信頼している、そんな笑顔だった。

 見る者の心を和ませる、幼子独特の何かがあった。

 不思議と頬を緩ませる、独特の何かが。



「……ありがとう」

「えへへ。姉さま、嬉しい?」

「うん、嬉しいよ」



 ふと思い出すのは、故国の子供達だった。

 共に畑に繰り出して収穫を手伝い、泥まみれになりながら子供達と笑い合った時間。

 それはベガにとっては宝石のような思い出で、つい、今のヴィクトリアの顔と記憶の中の子供達の顔が重なって見えた。

 胸が、きゅっと締め付けられたような気がした。



「ありがとう、ヴィクトリア」



 ごく自然にそう言うと、ヴィクトリアは花が咲き零れるような笑顔を見せてくれた。

 きっとこの顔を見れば、本物の花の方が恥らって花弁を閉じてしまうだろう。



「えへへ、姉さま~」



 そうしてぎゅっと抱きついて来るヴィクトリアの背中を、とんとんと叩いてやる。

 それでさらに機嫌を良くしたのか、きゃっきゃっ、と幼子特有の甲高い笑い声が厨房に響き渡った。



「それにしてもまぁ、随分と汚しちゃったなぁ」

「えへへ……姉さま、お風呂入ろ?」

「そうだな、綺麗にしないといけないな」



 頬についたチョコレートを掌でぬぐってやれば、ヴィクトリアのほっぺがチョコレートの色に染まる。

 ベガの手もチョコレートで汚れてしまっているから、ぬぐっても大した効果は無かった。

 まぁ、気持ちの問題だ。

 それに傍から見ていて、その光景は美しい光景であるとも言えた。

 問題があるとすれば、この場には忘れられた存在が1人いたと言うことだ。



「……最近、妹が冷たい……」



 滝のような涙を流しながら厨房の隅で蹲っている、リチャードである。

 本人が言うように、ここ最近はヴィクトリアがベガにばかり構うので、余り元気が無いようにも見受けられた。

 正直理解できないが、自分が原因である所も多分にあるので、何とも言えない気持ちになるベガだった。



  ◆  ◆  ◆



 報われないと言うことは、人生においては良くあることだ。

 リチャードにとっては、妹への愛情と言うことになるだろうか。

 18歳の時に妹が生まれてからと言うもの、彼は惜しみない愛情をヴィクトリアに注いで来たつもりだった。

 つもりと言うか、実際にそうだった。



「良いんだ、ヴィクトリアが幸せならそれで良いんだ……」



 しかし、往々にして愛情とは報われないものだ。

 でも、それで良かった。

 彼にとってはヴィクトリアの幸せと健やかさが何より重要なのであって、それ以外の全てはそのための物でしか無い。

 と言うか、「大帝国のトップ」の地位もそのために手に入れたようなものだ。



 とは言え、とは言えだ。

 やっぱり兄としては、幼い妹にはトコトコと自分の後をついて来て欲しい。

 出来ればいつまでも「お兄ちゃん」と呼んで欲しい、見返りを求めるとすればそれだけだった。

 現実は厳しい。

 ベガが我が家に来てからと言うもの、ヴィクトリアは何かにつけてベガにばかり構うようになった。



「これが、噂に聞く反抗期と言うものか……」



 多くの人間が聞けば「違う」と言うだろうが、リチャードにはそうとしか思えなかった。

 そう思ってさめざめと心身の涙を流していると、傍に人の気配を感じた。

 そしてその人物は、いわゆる体育座りをしているリチャードの横に小さな小箱を置いた。

 チョコレートだ。

 顔を上げると、妻であるベガがしゃがみ込んでいた。



「私のだけど……」



 余り美味しくは無いだろうけど、と、自分の作ったチョコレートを渡してくれたのだ。

 流石にヴィクトリア作のチョコレートを渡すとヴィクトリアの機嫌が悪くなることは目に見えているので、代わりに自分の分を渡したのだろう。

 代わりと言うか、せめてもの慰めと言うか。

 ただ、イベントの趣旨からすればこちらの方が正しいのであるが。



「まぁ、その、本当、あんま上手くは出来てないけど」

「……」

「食べられないことは、無いと思うから、さ」



 しどろもどろになりながらも、そう言って来る妻。

 傍から見ずともいじらしく見えて、ぼんやりと置かれたチョコレートを見つめていたリチャードも、ふと表情から力を抜いて。



「ありがとう」



 そう言って、受け取った。

 妹のチョコレートが貰えなかったのは残念だが、こうして気遣ってくれる相手に無作法は出来ない。

 本当に、妹に関すること以外では常識の範囲に収まる男なのである。



「さっそく、頂いても良いかな」

「まぁ、良ければ……」

「ありがとう」



 重ねてお礼を言うと、ベガはむず痒そうな顔で頭を掻いた。

 淑女らしくは無いが、彼女らしくはあって、かねてからそうしてほしいと思っていたリチャードとしては、喜ぶべきことだった。

 だから彼は、笑顔で箱を開け――一口大のチョコレートが姿を表した――そして、そのまま口に運んだ。



 そして、倒れた。



 それはもう、ばたーんと言う擬音が聞こえそうな程の倒れっぷりだった。

 口にした瞬間、えも言えぬ苦味が口内を駆け巡り、リチャードの意識を刈り取ったのである。

 苦味と言うか、もはや形容すべき言葉が見つからない味だった。

 余りにも綺麗に倒れたので、一瞬、何かの冗談かと思った。



「……え?」



 ぶくぶくと泡を噴いて倒れたリチャードを見て、ベガは半笑いのような表情を浮かべた。

 そしてここで、冒頭に戻る。

 倒れたリチャードの前で顔を青ざめさせるベガ、それから……。



「兄さま、どうしたのー?」



 倒れた実兄を、指先でつんつんとつつくヴィクトリア。

 正直に言って、カオス。

 まさにそれは、カオスな状況だった。




「あの、エドワード様。これ、チョコレートです!」

「ああ、ありがとう」



 そしてエドワードは、ちゃっかりメイドからチョコレートを貰っていた。

最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。


と言うわけで、バレンタイン回でした。

作中でバレンタインと明言していないので、大丈夫なはず(何がだ)

それでは、また次回。

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