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6月(下)

 シスタニア帝国摂政リチャードは、極めて質素な生活を送っている。

 もちろん世界最大の帝国の頂点に立つ者としては、と言う前提がつくが、とにかく自ら贅沢をしようと言う姿勢は見せたことが無い。

 仕事場はエドワードと共用の小さな執務室だし、食事もワンプレートで済ませることが多く、離宮の使用人を不当に扱うことも無い。



 そのため、寝室も皇帝(いもうと)(つま)と比べればいかにも簡素だった。

 調度品やベッドは一級品ではあるが、部屋の大きさは3分の1程度だった。

 リチャードにしてみれば、執務室から戻って寝るだけの場所にそこまでコストをかける気は無かったのだろう。

 ちなみにヴィクトリアと一緒に寝る時は、ヴィクトリアの寝室で休んでいる。



「……さま。兄さま」



 そして基本的に、このリチャードの寝室に誰かが来ることは無い。

 リチャード曰く「妹に誤解されたくない」らしいが、それをまともに受け取る人間はいなかった。

 部下達の敬愛を受けつつも対応は心得られられている、それがリチャードと言う男だった。



「兄さま、起きて。兄さま」

「うーん……何だいヴィクトリア。お兄ちゃんはエドワードの執拗な仕事(いやがらせ)に耐えて、さっき寝たばかりなんだ……」

「兄さま、起きる」

「げふぅっ」



 その日の朝、腹部に強い圧迫感を感じてリチャードは目覚めた。

 圧迫感と言うか、それなりに重量のある物体がお腹に落ちて来たと言った方が正しい。

 そして実際、リチャードのお腹には女の子が圧し掛かっていた。

 ぶっちゃけて言えば、ヴィクトリアである。



「兄、さまっ。兄、さまっ。兄、さまっ」

「げふっ。ごふっ。おふっ」



 そしてお腹の上でバウンドである。

 この妹皇帝、容赦のよの字も無かった。

 いかに子供と言えども、上に乗られて跳ねられればただではすまない。



「ま、待ってくれヴィクトリア……ん、ヴィクトリア?」



 そこで意識が覚醒したのだろう、リチャードは自分の上に乗っている人物の顔を見た。

 顔にかかってきたドレスのスカートを払いつつ、ヴィクトリアの姿を見て目を丸くする。

 かなり驚いた顔で、そんな兄をヴィクトリアは表情の乏しい顔で見下ろしていた。



「兄さま、起きて。朝ごはんだよ」

「え、ヴィクトリア? ……え、ヴィクトリア?」



 相当に驚いているのだろう、リチャードはそれ以上のことを言えなかった。

 しかし、それもそうだろう。

 何故なら、ヴィクトリアの側からリチャードを訪ねたことは無かったからだ。

 何事が生じたのかとリチャードは思っても、それは仕方の無いことだった。



  ◆  ◆  ◆



 離宮がどう変わろうと、ベガの就寝・起床前後の行動は変わらない。

 髪を梳いて休み、そして起きて髪を梳く。

 自分で綺麗などと思ったことは無いが、それが帝都での女性の嗜みだと学んでいた。

 それに、寝癖を整えていく作業はそれはそれで楽しいものだと気付いた。



「あ、やべ」



 それでも、生来の習慣では無いので上手いわけでは無かった。

 絡まっていたのか、今も櫛が途中で引っかかってしまった。

 力ずくで引っ張るとかなり痛いので、ゆっくりと引き返す。

 ヴィクトリアだとぐいぐい引っ張るので、なかなか油断できない。



「ベレンガリア! 大変だっ!!」

「ひゃっ……!」



 リチャードが駆け込んで来たのは、そう言う時だった。

 余りにも不意打ちだった――何しろ、リチャードがベガの寝室にやって来たのはこれが初めてだ――ために、櫛を押してしまってかなり痛かった。

 だがその痛みに顔を顰める間も無く、寝室の扉を開け放ったリチャードは言った。



「ヴィクトリアの様子がおかしいんだ!」

「は? え、ちょ……ええ?」



 着替えもまだである。

 ネグリジェ姿のまま何となく身体を隠す仕草をしたベガだが、リチャードが小脇にヴィクトリアを抱えているのを見つけると、何となく納得したような表情を浮かべた。

 まぁ、この夫がここまで慌てるのはヴィクトリアのこと以外にあるまい。



 そうとわかれば平常心に戻れると言うもので、ベガは櫛をそっと鏡台に置いた。

 うなじのあたりの髪を撫で付けるようにしながら、息を切らせるリチャードに向き直る。

 良く良く見れば、リチャードの就寝時の衣服のままだった。

 どうやら起き抜けに「異変」を察知したらしく、そのままやって来たらしい。

 道中、いったい何人のメイドが卒倒したことやら。



「えーと」



 ちら、とヴィクトリアを見やるが、「よっ」とばかりに手を上げられた。

 見る限りどこもおかしくは無いが、いったい何が問題なのだろうか。

 強いて言えばリチャードの好きに運ばれているところだろうか、普段であれば離せと暴れているはずだ。



「……おかしいって、どこが?」

「俺を起こしに来てくれたんだ」

「は?」

「だから俺を起こしに来てくれたんだ、ヴィクトリアが!」



 それは、リチャードの魂の叫びであった。

 何しろ、過去リチャードとヴィクトリアの関係は概ね兄側の一方通行だったのである。

 それが今日に限ってヴィクトリア側からアクションを取ったものだから、リチャードは一種の混乱の中にいるのだった。

 そして、それに気付いたベガの心境はと言えば。



(うわぁ……)



 例によって、ドン引きであった。

 そして、今日1日はこの問題に費やされるのだろうな、と言う諦めの心地も、やはり同時にあるのだった。



  ◆  ◆  ◆



 リチャードの人生は、片想いの人生だったと言っても良い。

 彼は妹に惜しみない愛情を注いできたが、妹の側から何かをして貰ったと言う記憶は無い。

 報われないと人は言うかもしれないが、彼にとっては妹が健やかでいてくれることがすでに報いなのだ。

 リチャードの全ては、妹ヴィクトリアのためにあると言って過言では無い。



「あーん」



 そして、だからこそ今の状況に困惑しているのだった。

 朝食の席、リチャードの膝に座ったヴィクトリアが、千切ったパンを兄に差し出している。

 ヴィクトリアの言う通り、いわゆる「あーん」である。

 しかし脈絡が無さ過ぎるので、当のリチャードも戸惑っていた。



 それ以上に戸惑っているのは、ベガだった。

 ヴィクトリアは、普段はつっけんどんにしているが、それでも兄のことをそれなりに慕っているだろうとは思っていた。

 ただ、自分から何か奉仕するような類の慕い方では無かったはずだ。



(改めて考えると、不憫に思えてくるな) 



 そもそも構い過ぎが原因なのだが、リチャードはヴィクトリアに鬱陶しがられるのに慣れてしまっている。

 そう思えば、今のヴィクトリアの豹変振りは突然過ぎた。

 余りにも突然過ぎたので、当のリチャードが喜ぶ前に病気を疑う程だ。



「兄さま、んー」

「び、びびびびヴィクトリア!? 今日はどうしたんだい!? お兄ちゃん何かしたかい!?」



 胸元にすりすりと猫のように頬を寄せられて、リチャードは「ひいいいっ」と怯えていた。

 何かの罰ゲームかと思っているあたり、哀しすぎる。

 かつて無い異常事態に、ベガもパンを口に運びながら様々なことを考えていた。

 今日は特に何か特別なイベントがあるわけでも無い、普通の日だ。



 窓の外を見れば雨はまだ止まず、雨水前提の離宮の至るところで水が流れる音が響く。

 しとしとと、聞いていると心が安らぐ雨水の音楽も、今日は別のリズムに聞こえてくる。

 何というか、魔王が扉を叩いている音に聞こえてきた。



「じ、じゃあ、俺はそろそろ執務室に行かないとだから……って、ヴィクトリア? 離してくれないかな」

「や」

「え、いやお兄ちゃんお仕事だから」

「兄さま、今日は一緒」

「おううううぅ?」



 そして朝食後も、ヴィクトリアは頑なにリチャードから離れようとしなかった。

 いったい、ヴィクトリアは本当にどうしてしまったのだろうか。

 食後のコーヒーを飲みながら、ベガはそう思ったのだった。

 なおリチャードを助ける気は無い様子で、これはいつも通りだった。



  ◆  ◆  ◆



 結局、その日1日はヴィクトリアはリチャードの傍を離れようとはしなかった。

 特に何をすると言うことも無かったのだが、とにかく、くっついていた。

 ベガはそれを1日中見ていたわけだが、この時、彼女は失念していた。



 そもそも、原因はベガにあったのだ。



 先日、雨ばかりで余りにも暇だった時、リチャードがゲームを持ってきた。

 もちろんヴィクトリアは途中でゲームに飽きてしまったわけだが、その際、ショックで寝込む――文字通り、寝込んでいた――リチャードを見かねて、ベガはヴィクトリアに囁いたのだ。

 たまにはリチャードに優しくしてあげてほしい、と。



「おお、神よ。もしかしてこれは、現実なのだろうか……?」

「夢にしてはリアルだと思うけど」



 奇しくもボードゲームに興じていたあの部屋で、ヴィクトリアは兄の膝を枕にすやすやと朝のお昼寝を楽しんでいた。

 朝にも関わらず昼寝と言うのはおかしいので、朝食を挟んだ二度寝と言った方が良いだろうか。

 ヴィクトリアの朝は意外と早いので、10時には一旦エネルギーが切れてしまうのである。



「まぁ、良かったんじゃない? 何だかんだで好かれてたってことで」

「やはり俺のしてきたことは間違っていなかったのか」

「いやそれは間違ってたと思うけど」



 そこはやんわりと指摘して、ベガは何やら感動しているリチャードに苦笑を向けている。

 夫婦と妹、この組み合わせはシスタニアの離宮ではすでに日常となっていた。

 メイドや使用人達は彼女達の私生活には一切の干渉をしないため、ベガ達の世界は広いようで極めて狭い。



 特に妃であるベガの世界は、リチャードとヴィクトリアに関わるそれに限定されてしまいがちだ。

 そしてベガ自身、それが日常になりつつある。

 まぁ、だからこそベガは今回の事の発端が自分だと忘れてしまっているわけだが。

 それはそれで、「日常」と言うことなのだろう。



「まぁ、良かったな」

「ああ、そうだな。……やはりヴィクトリアは世界一可愛いなぁ! そうだ、今度は等身大ヴィクトリア像のコンテストなどやらせてみよう!」

「ま、まぁ、ほどほどにな?」



 ただ一つ、難点を挙げるとすれば。



「あの野郎、顔も見せないってどう言う了見ですか……!」



 エドワードの負担が、とんでもないことになっている

 ただそれはベガとヴィクトリアには直接は関係して来ないので、後日、リチャードに何らかの報復(いやがらせ)があるだろうが。

 それはまた、別の話である。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。


たまには兄も報われても良いはず(え)

それにしても、そろそろこの3人の関係もマンネリだと思うわけです。

そろそろ何らかの刺激が必要と、私はそう考えております。


まぁ、具体案は無いですのですが(え)

では、また次回。


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