9 自縛
「私は神様にお会いした事はありません。私の神様というのは自分の事だと考えています。私の意志を自由に操っているのが神様とした場合です。ですから、自然界の神々は別でしょう。この世は生命の数ほどの神様が絡み合って、大きな力を生み出しています。」
「自分が神ってことですか?」
「あなたの神様と私の神様は違うという事を解っていない人が多く存在しています。平等にといいますが、相反するものに平等を与えるのは難しいのです。沢山の命を救う未来を持つ医師と沢山の命を葬る未来を持つ暗殺者を前に、ここに100年の命があったとします。どちらにどれだけ与えたら平等なのでしょう?50年ずつですか?それとも0か100かですか?」
「平等にって・・・そんな難しい事、わかりません。」
「人は基準もなしに人を裁けません。神様が自分の他にいて、あなたと私の命の行く末を握っているとして、あなたはその会った事もない神様に”あなたが死んだ方が世の為だ”と考えさせられるような事が、次々にあなたの身に降りかかった時、これが運命だと生きる事を諦めますか?」
生きる事を諦める?死ぬ・・・自殺するかって事?
「ええと・・・諦めるかどうかは、その時になってみないとわかりません。」
「病気、事故、天災、裁きなど、自らの意志に反して命を失うこともあります。他の力だけではなく自分の力も加わってそこへ辿り付いています。運命とも言われますが、時を重ねて辿り着く道の先には、皆さま等しく死が待っています。生まれた時間と死ぬ時間、一本で繋がった時の長さは、それぞれ違いますが、短くても長くても満足しないのが人です。
生物の中には子孫を残したら命が尽きるものもありますけれど、大抵の人間は子孫を残した時点では死に至りません。そしてよりよい待遇を求め、傷つきながら渇望、疲弊を繰り返す事を心が満たされるまで続けます。一度満たされたらそれで終われば人間社会は発展しなかったでしょう。次の望みへの渇望こそ、命を燃やすのに必要なことかもしれません。」
「え、っと・・・難しくて俺、ほんとによく解んないです。」
「でしたら、お時間のある時にまたいらしていただけませんか?人手が欲しいのですが、誰でもいいという訳ではありませんので。ナガイさんのように、自殺について考えた事のある方に相談員になって頂きたいのです。」
「あ、じゃあ、時間が、出来たら、来ます・・・」俺は、黒い革張りの年季の入ったソファーから立ち上がった。
こんな所、二度と来る訳がない。
ただそう言っただけ。
「お待ちしています。」所長も、にこにこしてソファーから立ち上がった。
ほら、そのお決まりの定型文句を聞くと、向こうも本当に俺が来るとは思っていなそうだ。
そうだよな。相談員として来て欲しい相手を事務所に引き摺り込んで、監禁したのはおかしい。
まさか―――自殺に見せかけて殺そうとしていたとか?と考えると、ゾッとした。
宗教じみてるし、人の死についての相談に乗るなんて、まともな神経じゃやっていけない筈。
「それじゃ・・・これで。」早くここから脱出しなくては。
「はい。さようなら。」
俺一人に対しては盛大過ぎる所長の笑顔も怖ろしいものでしかない。
ただの笑顔に、こんなに恐怖心を煽られたのは初めてだ。何かに取り憑かれでもしたかのように、俺の背中は、少し前から冷たくて重かった。
出口に向かう俺の右手と右足は、一緒に前に出ていたかもしれない。
とにかくぎこちなく自殺相談所の事務所から、ビルの廊下に出た俺は、エレベーターまで急いだ。
それから、どこをどうやって帰って来たのか憶えていない。
帰宅すると真っ直ぐ風呂場へ行き、シャワーを浴びた。
汗なのか冷や汗なのかわからないけれど、とにかく脱いだシャツの脇も背中も濡れていた。
シャワーを浴びて出ると、すっきりした筈の背中が何だか重いというか、ぺたりと嫌な気配がこびりついている感じがする。
まただ。
昔からそうだ。霊感がある方とは思わないが、ない方だとも思えない。
要は、気の持ちよう一つだとは思うけど、時々、背中にぺったり、見えない何かがくっついている違和感を覚える。
中々消えないそんな時、シャワーを浴びたり塩を撒いたり、気休めにしてみると80%は消える。
今回は簡単に消えなかった。
一晩眠り、朝になっても、背中に何か貼り付いている感覚は消えなかった。
勿論、背中を手で擦っても何もない。でも、その嫌な感覚は消えないから厄介なんだ。
昨日、”自殺相談所”なんて怪しい場所に行ったからだ。
自殺願望のある人の念とか、実際に自殺した人の怨霊とか、連れて来ちゃったんじゃないか?
どうする?
神社とか、寺とか行ってお祓いとか・・・いや、いつもしてないだろ。
気付くと背中の違和感はなくなっているから放っておこう。
午前八時を過ぎたところ。
階段を下り、一階のリビングへ行くと、誰もいなかった。
いつも通り。
両親は仕事、妹は専門学校か。
冷蔵庫を開けると、サラダの小鉢とスクランブルエッグに丸いソーセージソテーが入っていて、それが今朝の朝食だったらしい。
鬱になってから、口うるさく言われなくなった。
治ったと思う今も、鬱の時と同じ家族の接し方が続いていて、本当はまだ家族には、俺の病気が治っていないと思われているのかな、と考え出すと、俺自身、治っていないのかもしれないと悩み出す。
本来なら、俺も仕事に行っている筈―――なのに・・・
やる気が出ない。いや、正確に言うと、やる気はあるけれど、どこまで出せるのかわからない。
仮に仕事が見つかったとしても、人と一緒に働いている最中、また以前の電車の中で倒れた時のようにパニック発作を起こしてしまうのではないかという懼れもある。
力が出せない、出し方を忘れた、いや・・・出すのが怖いんだ。またあの息の出来ない苦しみを味わうのが、本当に怖い。
この払えない背中の違和感よりも、心の中に、新たな環境で新たな違和感を生じさせる事に怯えている。
遼大は、相談所の所長と占い師のおばあさんの顔を頭の中に浮かべていた。
『あなたはこの”自殺相談所”に必要な人です』
本当に、俺が必要なの―――?