31 他所とうち
午前九時過ぎ、遅めの朝食を終えると、渡辺が柊を連れて近所の公園へ行って来ると言った。
掃除、洗濯を手伝いたいと思いつつも、渡辺一人に柊を任せる訳には行かないと、梢は「それじゃあ、私も一緒に・・・」と言うと、
「この人に任せておいていいわよ。それより梢さん、お布団干すの手伝って。」と渡辺の妻に頼まれた。
梢は本当に渡辺一人に柊を任せて大丈夫かと不安だったが、手伝いを断る訳にも行かないと、
「分かりました。」と、柊と渡辺の二人を送り出した。
洗い物を済ませ、布団を干すのに続けて、洗濯物を干していると、昨日着せた柊の服もあった。
そう言えば、と梢は柊の着ていた見憶えのないTシャツについて訊ねると、
「ああ、あれ。お古なのよ。息子が小さい時に来ていたTシャツ。まだ綺麗だったから取っておいたの。」と渡辺の妻が答えた。
「え・・・そんな大切な物を───」
渡辺の息子が自殺した話を聞かされていた梢がそう言うと、
「勝手に柊ちゃんに着せちゃってごめんなさいね。」
渡辺の妻は小さく笑って続けた。
「いつか孫が出来たら着せてみたいなぁ、なんて思って取っといたんだけど、叶わなくてね。だから柊ちゃんに着て貰えて嬉しかったわ。」
「ありがとうございます。」梢は、他に渡辺の妻に掛けられる言葉を見つけられなかった。
「お礼なんていいのよ。こちらこそ、あの人勝手に家に連れて来て、びっくりしたでしょう?」
「ご迷惑をお掛けしてしまいましたが、感謝しています。本当に。」
「迷惑なんかじゃないわ。楽しいわよ。うちの子が生きてたらあなたのようにしっかりしたお嫁さんを貰って、可愛い孫も生まれてたかもって思うとね・・・」
渡辺の妻の涙を見ないようにして、梢は「私も、楽しいです。」と答えた後は、黙って洗濯物を干し続けた。
公園に出掛けた柊と渡辺は、お昼頃になってようやく帰って来た。
柊の全身は泥だらけで、渡辺の服も汚れていた。
「ほらほら、二人共、お風呂直行。」渡辺の妻は、玄関を上がったばかりの二人に向かってぴしゃりと言った。
「えー?腹減ったんだけどー。」と訴える渡辺の横で、柊もうんうんと頷いているのが可笑しいと、梢は笑いを堪えながら
「柊、お昼ご飯はお風呂入ってからね?」と促すと、うん、柊はこくりと頷いた。
いつも私の言う事を理解してくれていないと手応えを感じなかったのに、今日の柊は何だか違って見える。
風呂場に向かう二人の背中を見送りながら、渡辺の妻は、
「柊ちゃん、眠そうだったねぇ。ご飯食べたらお昼寝かな?」と言った。
お風呂から出た柊は、お昼ご飯を食べながらウトウトして、途中、テーブルを枕にしてすやすや眠ってしまい、渡辺の妻の言った通りになった。
居間に敷いた布団に柊を寝かせて戻って来た渡辺に、妻が
「お茶淹れましょうね。」と言った。
梢は洗い物を終えた手をタオルで拭きながら、「すみません。」と言うと、
渡辺が「柊くん元気で、付いてくのがやっとだった。」と笑いながらダイニングチェアに腰を下ろした。
「梢さんも座って。」
渡辺の妻に促され、梢も座ると、その前にピンク色の梅の花が描かれた湯呑みを置かれた。
「クッキーの缶があったかしら・・・」戸棚をゴソゴソする妻に、渡辺が「今昼飯食べたばかりなんだから、要らないよ。」と言うと、
「あら、あなたにじゃないわよ。梢さんによ。」と妻はまた戸棚を覗き込んだ。
「あ、あの、私はもう・・・」
「ほら見ろ。食べたいのはお前だけだろう?」
渡辺は妻を馬鹿にした風に言ったが、その顔には笑みが溢れ、梢は、うちと違う、と改めて夫婦とは何かと考え出した。
「どうしたの?梢さん。」
丸いクッキー缶を探し出した妻は、テーブルの真ん中で蓋を開けながら、梢の顔を覗き込んだ。
「いえ・・・何だか、お二人、仲がよろしいなって・・・」
梢は、自宅に戻った後の事を考える度、憂鬱になった。
夫とこの先、渡辺夫妻のように上手くやって行ける自信が無くなってしまった梢の心には、不安ばかりが募って行った。