21 自殺以外の解決方法
「それじゃあ、行こうか。」
「渡辺さん。」
所長は、二人を連れてここを後にしようとするワタナベさんを呼び止めた。
シュウくんと手を繋いだまま、ワタナベさんは振り返った。
「田中さん、後で連絡します。」
「分かりました。」
たったそれだけのやり取りの中に、ワタナベさんと所長だけに解る何かがあるんだと思えた。
信頼し合っているからこそだ、と考えていた時、
「永合さん。」と所長に声を掛けられ、どきりとした。
ワタナベさんに任せておけば、二人は大丈夫だと思いながらも俺は、「あの、コズエさんとシュウくん、大丈夫でしょうか?」と所長に確認せずには居られなかった。
「大丈夫ですよ。」
その言葉を聞いた俺は、ふっと肩から力を抜けた。
“大丈夫”その言葉を聞きたかっただけだと分かった。
コズエさんもさっき、ワタナベさんが”大丈夫だ”と言った後、ホッとしたように涙を流していた。
「そうですね。でも、一週間経ったら、二人はまたご自宅に戻られて、それから・・・」どうなるんだろ
う?
旦那さんの事もあるし・・・
休みが終わると、これから先の事を考えて、憂鬱になる経験は俺にもあった。
「信じられるものを失ったと感じると、人の心は不安に包まれます。彼女もそうです。子どもの将来について悩み、縋れる確かなものが見つからず、この先へ進む自信を失った。」
「縋れる確かなものって例えばどんな?」
「それは人によって違います。目に見えない心であったり、手に出来る品物であったり。」
「心・・・」
「例えば、家族の繋がり。夫や子ども、周囲の人達と自分の心が切り離されてしまっていると感じたら、どうでしょう?」
「独りぼっち・・・」
「はい。孤独を感じます。そうではないと周りがいくら言った所で、彼女の心には響かないでしょう。彼女自身が自分の心は誰とも切り離されていない、繋がっている、そう信じる事が出来ずに居たら、いつまでも救われないでしょう。」
「それって、簡単じゃなさそうですね。」
「死にたい人の心を生きたいとなるように覆す事は、生きたい人の心を死へ促すより難しいようです。死は怖い、でも今、死よりも怖い事がある。まだ知らぬ死を怖いと思う感覚より、今からすぐ先にある現実に直面する事を考える方が怖くなってしまう人も居るんです。」
「死に逃げ込もうとするって事ですか?」
「生きては逃げ切れない、だから死んだ方が簡単、いずれ死ぬんだから、それならば、何より嫌な現実に直面する前に死んでもいいだろう、と考えた事、ありますでしょう?」
それを聞かされて、背筋に震えが走った。
初めて”この人もだったのか”と思った。
所長も、そんな想いを抱え、死にたくなった事のある人なのだと知れた。
俺よりも人の心を知っていて、俺よりも生と死を深く捉えている。
この人の穏やかな表情を見ている限りでは、そんな想いを抱えた過去を慮れない。
人の心の深淵。
みんな持っているんだ、どんなに明るく元気そうに見える人でも、その心の深淵には人に見せない苦しみや悲しみ、痛みや涙が必ずある。
吐き出せる人ならまだいい。ここに来て、吐き出して落ち着けるのなら。
吐き出せない人は、独りで抱えて、ある日突然—―――命を絶ってしまうかもしれない。
ここへ来られる人は、まだいい方なのだというのが分かった。
「胸に痞えているものを吐き出せれば、少しは楽になったと感じるでしょう。悩みや不安、悲しみ、それらは不思議な事に、楽しい事よりも心に蔓延る力が強いものです。コズエさんの小さな心配は、だんだん大きな不安となり、言い知れぬ恐怖に変わった。そして四六時中それに囚われるようになってしまい、逃げ出す方法を死以外に見出せないまま・・・自殺しようとしました。」
「もっと早く、誰かに吐き出していたら、違っていたんでしょうね・・・」それは難しかったんだろうと、彼女の様子を見ていた俺にも分かっていた。
「近しい人だからこそ話せない事もあります。ただ、誰にも悩みを話せず、一人胸に抱えたままでも、死にたいと考えないようにはなれます。」
「え?どうやって?」
「悩み事より、生きたい気持ちの方が、心を大きく占めた時です。」