18 自閉症スペクトラム
椅子に座った女性の隣で男の子は、椅子に乗ったり降りたりを繰り返した。
今は椅子に座った状態で、ベビーカーを手繰り寄せては、遠ざけてを繰り返している。
坊ちゃん刈りのあどけない男の子。
対して女性の顔色は青白く、頬には涙の乾いた痕があった。
俺達の顔を見ようとはせず、膝の上に握り合わせた両手をじっと見ていた。
ジュースを買いに行ったワタナベさんはまだ戻って来ない。
女性は黙ったまま、何も話さなかった。
「死にたいですか?」
所長が静かな口調で言った。
何を言い出すかと思えば・・・と、少し驚いたが、
彼の事だ、きっと何か考えがあってそう言ったのだと、自分でも不思議な程、彼への信頼が心の中に増えている事に気が付いた。
そうだ、ワタナベさんは、『死にたい理由を話して、スッキリしてから死になさい』と言っていた。
“死にたい理由”を聞かされた俺達は、女性に対して何と言ったらいいのだろう?
考えていると、
「死んだらいいと思います、こんな母親。」と女性がはっきりした口調で言った。
弱々しくもなく吐き出された言葉で、女性の考えている事が少し判った。
女性は自分として死にたいのではなく、母親して死ぬべきだと考えている。
自分だけだったら死を選ばず、母親であるから死ぬ、そう聞こえた。
「何故でしょうか?よろしければ、死んでしまう前に教えて頂けませんか?」
所長は、女性が自殺する前提で話を進めるつもりなんだ。
そうだ、解決するとかしないとか、とにかく今は女性の話を聞こう。
「実は・・・」と女性が話し始めた時、
ガターン!と大きな音がした。
見ると、男の子が隣の椅子をひっくり返して、椅子の脚に膝を掛けようとしている。
「柊!ダメ、これは倒さないで。こうして座る物なの。」
男の子は一言も発さない。代わりに頭をブンブンと振った。
それが楽しいのか、眩暈を起こしそうだと思う位、男の子は頭を振り続けた。
彼女は見ていても止めない。
心配になった俺は、「お子さん、大丈夫ですか?」と訊いた。
「・・・・・・」
眉間に皺を寄せた女性は、男の子の肩をポンポンと無言で宥めたが、男の子は扇風機の羽の如く頭を振り続けている。
唇を噛んだ女性が、うっと呻いた時、ワタナベさんが戻って来た。
男の子にオレンジ色の缶ジュースを差し出し、
「お待たせお待たせ。ジュースだよ。はい、僕。それからお母さんも。」
続けてカウンターの上にも同じ細身の缶を置いた。
女性は俯き、両肩を震わせている。声を殺して泣いているのか。
「どれ、開けてやる。」
しゃがみ込んだワタナベさんは、倒れた椅子からジュースの缶に興味が移った男の子の手からそれを取ると、プシュッ、カコッと音を立て、缶の蓋を開けた。
「すみません・・・」か細い声は、涙交じりだった。
「ほら、お母さんも飲みなさい。」
立ち上がったワタナベさんは、一度カウンターに置いた缶を手に取ると、同じ様に開け、今度はカウンターに置かず、女性の右腕の前に差し出した。
受け取るまでそうして居そうなワタナベさんの様子に、女性は缶を受け取って両手で包み、膝の上に下ろした。
「今日も暑いなー。」
そう言ってハンカチを出し、額に浮いた汗と首筋を拭ったワタナベさんは、客の居ない隣のカウンターの椅子に腰を下ろした。
そして、しばらく沈黙が続く間、男の子は靴底をバタバタと鳴らし始め、次第に両足でジャンプするようになった。
「僕、名前は?」
男の子に問い掛けたワタナベさんに、女性が答えた。
「古沢柊です。」
「齢は?」
じたばたする男の子の両腕を掴みながら、ワタナベさんが女性に顔を向けた。
「四歳ですけど・・・その子は自閉症スペクトラムで、あまり言葉が出て来ません。」