111 生きる糧
「おはようございまーす。」厨房へ足を踏み入れながら優くんが言った。
たとえ夜でも何度でも、出勤時はこの挨拶だ。
二人で挨拶しながら、昼間でも暗い店の中に、入口の壁にある灯かりと空調のスイッチを
押してから入った。
人けは無い。当然、店長も居ない。
フロアの灯かりも点けて、気になって居る客席のテーブルの上を確認した。
「あれっ?片付け、終わったの?」
店長はゆうべ、片付けは今朝やるつもりの様子で話して居たと思って居たけれど────
「昨日、洗い物だけさせて貰った。でも床とか座席とかフロアの掃除がまだでさ、そうだ、トイレもまだ!」
「そっか、昨日はありがとう。」
俺が掃除道具を取り出して言うと、優くんは、はたきと座敷用の掃除機を引っ張り出して
「ゆうべ楽しかった?」と聞いて来た。
「うん。楽しかった。この齢になって誕生会なんて、得るものないなんてと思ってたけど、お祝い事ってさ、お互い嬉しいものだったんだなって、発見だった。」
「うん、俺も。遼大の誕生会見てそう思った。家族の誕生会やろうって思った。それで俺もやって貰おうって思った。心境変わるかもって。」
「いいね!」
優くんは「座敷の方からフロア掃除するね。」と靴を脱いで座敷席に上がった。
「じゃあ俺は、トイレと店の前、清掃するから。」
分担して掃除を終え、厨房に戻ると、一足先に優くんが業務用炊飯器の前で「うーん、どうしよう」と、スマートフォン片手に悩んで居た。
「どうしたの?」
手を洗いながら聞くと、「ゆうべタイマーセットしたご飯が炊けたんだ、けど・・・・・・」と、考え込んだままの様子の優くんは、冷蔵庫を開け、中を覗き込んだ。
そしてすぐに俺の方を振り返ると「朝ご飯、おかずって何がいいのかな?」と言い出した。
「朝ご飯?これから作るの?」
「昨日、店長に朝ご飯用にお米炊いてって言われて、ついでに冷蔵庫にあるもので適当におかず作ってって頼まれたんだけど、何がいいのか聞くの忘れて・・・・・・連絡して見ようか、でも、ゆうべ遅くまで店に残ってたみたいだから、まだ寝てたら申し訳ないし。」
「朝ご飯って事は、昼前には店に来るつもりなんじゃない?」
俺は炊飯器の蓋を開けた。白い湯気がもうもうと立ち昇り、炊き立てのお米のいい匂いがする。
ご飯の量は五合以上あるように見えた。
「優くん、これ五合くらい?」
「ううん、六合。」
「ということは、一人分じゃ、ないかも?」
「店長ともう一人と、俺と遼大の分だって。」優くんは指折り数えた。
「四人分って事?」
「そう。遼大、何食べたい?」
「んー、この前は店長が鮭茶漬け作ってくれた。お茶じゃなくて、出汁で。」
「何それ美味しそう!俺も食べたい!遼大作ってよ!」
「えー?出汁の味付けは分からないな・・・・・・鮭なら焼けそうだけど。」
「俺、卵焼き作ろうか?甘いの平気?」優くんがエプロンを着けて、腕まくりした。
「甘いの平気。」
「よしっ、決定!やろう!」
朝、店の片付けをしに来ただけなのに、急遽、二人で朝ご飯を作る事になったが、これはこれでワクワクして楽しい。
昔、電車に乗れなくなった大学生の頃は、人付き合いが鬱陶しく感じて居た。
それからは、楽しいとかそういう感覚を忘れてしまって居たから、生きて居ても楽しくない、そんな日々を送って居た。
相談所に通うようになって、優くんという親友も出来て、仲間、家族、今まで考えられなかった皆の気持ちや心が、分かるようになった。
それまでは、見えないから”無いもの”だと思い込んで、孤独に逃げ込んで他人と関わらないように生きて来た。
人と関わると疲れる事もある。弱って居る時は、人を避けるのもいい考えの一つだと思う。
もしもこの世に一人残されたら、一人で生きて居たいとは考えなくなるかもしれない。