108 生きる仕事
今日の仕事────お師匠様に言われて考えた。
誕生日のせいだと思うけれど、生まれた時の仕事は、”生きる事”が仕事で、他には何も求められなかった。
何も出来ないからという理由もあるだろう。
齢を重ねるにつれて、求められる事が増えて行き、25歳の今は、毎日”生きる事”の他に”出来る事”を求められて居る。
“みんな”そうだから────今考えて見ると、”みんな”そうだと思わない。
“生きる事”の他に”出来る事”を求められても、”そう”と思わない人も居る。
思わされて苦しむ人も居る。かつての俺もその一人だった。
“出来ない事”を”出来る事”にしなくてはならないなんて、誰かに言われた訳では無いのに、”みんな”そうだから────勝手に思い込んで居た。
“みんな”そうじゃないよ。
よく見て考えればわかる事だったのに、世の中の半分くらいが言いそうな事に流されて、考えもしないでわかった振りしたかっただけなんだって。
正解がある訳じゃない答えを、考え続けるのは時間を無駄にして居るなんて決め付けて、人が出した答えに流されて、楽しようとして居ただけだった。
ところが楽じゃなかった。
どこか納得出来ないまま、自分以外の人が出した答えに流されるのは、楽では無かった。
藻掻いて、苦しくて、だったら初めから、自分で出した答えに苦しんだ方が納得出来たんだろう。
次はそうしようと思った。
簡単に出せない、自分で選んだ答えを抱き締めて、転んでもいいからそのまま突き進んで、誰かが出した答え以上に傷付いてボロボロになったとしても、後悔の後味がきっと悪くはないと思えるから。
自殺相談所で色々な人達の話を聞く事で、自分が知って居た世界の境界は打ち砕かれ、とても広い世界が実は広がって居る事を教えられた。
それは止まる事を知らない。俺の中の世界は毎日広がって、生きて居る間は止まらないらしい。
“生きる事”をもっと頑張れば、苦楽で分けるだけの人生を辿らなくていいと分かった。
生まれた時から死ぬ時まで続く”生きる”仕事に、どれだけ向き合うかは人それぞれ。
どう生きたいか、生かされたいか、好きに決めたらいい。
それすら制限があると考える生き方もある。
自由に考えられる今は、しあわせなだって思える。
自由に考えられない時は、しあわせと思えなかった。
“生きる”事を自由に考えて向き合って、今俺は”生きる”事が大切な仕事だったと思い出せて良かったと思う。
狭くて苦しかった世界は、広くて自由で明日を考えられる世界になった。
誰かに感謝する事、される事の大切さ。当たり前の事に気付けなかった頃より、今の自分の方が尊く思える。
そこかしこにあった”そんな事”は減って行き、”大切な事”が増えて行った。
“生きる仕事”は雑に出来ない。
勿論、雑にしても構わないのだろうけれど、俺は大切さに気付いて雑に出来なくなった。
何と比べて誰と比べて雑とか大切とか基準はないけれど、第一にやる仕事は”生きる”事。
しあわせを感じてもそうでなくても、”生きる”仕事を放棄したら、自分の世界は消えてしまう。
大切な自分の世界を守る事が、俺の大切な仕事。
自分の世界の中には、家族、友人、仲間が居て、この世界を死ぬ日まで守って行く仕事が、俺の主な仕事なんだ。
お金を稼ぐ副業をしてもいいけれど、大切なのは、自分の世界を守って行く”生きる”仕事。
料理を持って、家族の元へ戻ると、「ありがとう」と母に言われた。
「ううん、こちらこそありがとう」と思わず言うと、母は首を傾げながら微笑んだ。
俺に“生きる”仕事を与えてくれてありがとう、と目の前に居る両親を見ながら、心の中で言った。
誕生日は、生まれた時に与えられたこの仕事を、忘れてしまったら、思い出す日にしようと決めた。
命尽きるまで続く、”生きる仕事”。