僕たちは羊を数える
「二十二匹」僕が言う。
「にじゅうさんびき」妹が言う。
「二十四匹」僕が言う。
妹と二人、頭からすっぽりとかぶった布団の中で僕たちは代わりばんこに羊の数を数えている。
「にじゅうご…ひき」
「二十―――」
ガシャァァン、という一際大きな音に二十六匹目は遮られた。妹がびくりと身を硬くし、僕は彼女を抱く腕に力を込めた。
「二十六匹……ほら、どうした。お前の番だぞ」
「…にじゅ……ぅ」
ガシャ、ガラ、ガシャン―――最初こそ散発的だった破壊音は徐々にボリュームとテンポを上げていくようだった。それに比例して腕の中の妹の震えも大きくなっていく。
はっはっと苦しげな呼吸が布団とベッドの間の狭い空間を満たす。僕は布団の端をそっと持ち上げて、空気の通り道を作った。それでも、妹の乱れた呼吸が収まる様子はない。
「…に…に、じゅ」
「二十六匹だろ?」
僕が急かしても、妹は自分の羊を数えない。
その間にも、
ドン、ガシャン、ガララ、ガシャァァン
と漫画の効果音みたいな音が続いていく。
それが何の音かなんて妹は訊かないし、僕も何も言わない。
誰に聞かずとも、僕たちにはそれが何の音か分かっていたし、指摘したからと言って音が止むわけでもない事も知っていた。
音は階下の台所の方からしている。
投げられているもののほとんどが陶器やガラス類だということは、派手に割れて飛び散る音で分かる。たまに混じる割れない金属音はきっとフォークやスプーンの類いだろう。
帰ってきたあいつが、そんな風にものを床に投げつけ出すのは初めてではなかったし、僕たちが羊を数えるのも、やっぱり初めてではない。
明日の後片付けが大変だなと僕はぼんやりと思う。
特に家具の間や冷蔵庫の裏に落ちてしまった破片は厄介だ。長い箒を使ってはき出すのだが、場合によっては、めくれたフロアリングや冷蔵庫裏の金具やコードに引っかかってしまって、手を使わざるを得ないときがある。ぶきっちょな僕は、そうやって良く手を切ってしまう。
後片付けが終った後、母さんは食器代が嵩むと嘆きながらも、荷物持ちの僕を連れ立って駅前の百円ショップに割れた分の皿やコップを買い足しに行くだろう。
きっちり割れた分だけの皿とコップを。
なぜ割れないプラスチック製を買わないのかと、そのたびに僕はお母さんに尋ねるのだが、お母さんに言わせると、ちゃんとした家庭では陶器の食器を使って食事するものなのだそうだ。
そうした時、僕は決まって『ふぅん』と納得したように言い、お母さんは決まって『そうなのよ』と頷いて、その会話はそこで終る。
ちゃんとした家庭では、食器をそんなに頻繁に買い換える必要があるかについては、僕たちは話さない。
ガシャン、ガッシャン。
その音が僕を明日ではなく今日に、今現在に引き戻す。
――――畜生、馬鹿にしやがって
―――あのアマ、どこに行きやがった!?
あいつのつく悪態まで聞こえてくる。台所から移動したらしく、今度はお母さんの部屋の扉をバンと開け放つ音がした。
「…兄ちゃん、こわい」妹が言った。
「二十六匹目だって。ちゃんと数えろよ」
僕は妹の言葉には答えずに、苛立ったようにそう急かす。
「……でも、兄ちゃ…」
「数えろよ、羊」
僕の声の響きが怖かったのか、ふぇ、と妹はむずがり僕の腕を振り解こうともがく。僕はその抵抗を抑えこんで、妹が布団の外に出ないよう、無理矢理、抱きしめ続けた。
どうすれば妹に羊を数えてもらえるだろうか? それを僕は考えている。
―――誰のおかげで――…畜生、あのアマ、逃げやがったな。逃げるとどういう事になるか、思い知らせてやる。
ドン、ガターン。
今度はお母さん部屋の家具を壊し始めたらしい。明日の買い物は増える一方のようだ。
―――あのアバズレめ! 男のところにいきやがったな。
お酒が入ったあいつには、お母さんがまだ仕事から帰ってくる時間ではない事が分からない。それで暴れまわってお母さんを探し回る。いないのだから見つかるわけもないのだが、とにかく探し回る。
だから僕たちは羊を数えなければいけない。
「…数えないと、狼がやってきて羊を食べちゃうんだ」今度は少し優しい口調で妹を諭す。「羊が食べられちゃったら、かわいそうだろ?」
「……うん」
「じゃ、数えてあげられるな?」
「うん、にじゅ…なんびき?」
「二十六匹だ」
「にじゅうろっぴき」
「いい子だ…二十七匹」
頭から布団によって外界から隔てられた小さな空間。
妹と僕、二人分の呼気がその小さな空間を満たす。淀んだ空気はあたたかくて、閉塞した暗闇には不思議と揺り籠のような安寧が詰まっている。
布団の中の音は大きく、布団の外の音は小さい。
布団の中は、僕たちの世界である。
そして、外の世界はーーー
―――殺してやる!
ドン、ドン、バン、ガシャン
とりあえず、あいつがお母さんを求めて階下の部屋を探し回るのもいつものことだ。
みしり、みし、みしり。
―――おい、女! 出て来いっ!
探し回って見つけられないと、今度は二階に上がってくるのも、あいつの決まりきった行動パターンの一つだ。放っておけば遠からず、この子供部屋にもやってくるだろう。
みし、みし、
近づいてくる足音。まずは二階のバスルームを開け放ち、そこの備品を全て床に叩きつける所からはじまる、あいつの二階捜索。これもいつもの事だ。
大丈夫だ。まだ時間はある。
「にじゅう…はちぴき」
「違うぞ。はちぴき、じゃなくて、はっぴきだよ、はっぴき……二十九匹」
閉ざされた空間の中で羊を数えていると、世界に、まるで僕と妹と羊しかいないみたいだ。
「さんじっぴき」
「三十一匹…いいか、羊を数えている間は大丈夫なんだ。羊を数えている間は何も悪いことは起こらない。羊をちゃんと数えて上げられれば、一頭ではぐれちゃったりしないし狼に食べられたりもしない。いいか、分かったな。怖いときには羊を数えるんだ」
僕はもう何度目かも分からない説明を、何かの儀式みたいに、その都度くり返す。
妹も毎回はじめて聞くみたいに神妙な顔で聞き入っている。
―――糞アマ! アバズレ! どこだっ、どこにいる!
今度はドンドンと廊下に足を蹴りつける音がする。
その音は、もう目と鼻の先だ。
「さんじう、にひき」
妹は返事の代わりに羊を数えた。僕は、それで安心して妹を抱擁から解放する。
「三十三匹。羊を数えていれば大丈夫。だから、お兄ちゃんがいなくなっても、ここで独りで羊を数えているんだぞ。そうしてくれれば羊は迷子にならない。お兄ちゃんも、はぐれない。お兄ちゃんが迷わないで済むよう、そうしていてくれ。出来るな?」
妹はこっくりと頷いた。
「さんじうよん、ひき」
「よし」
僕は布団の一端をめくり、そこから這い出て、丁寧に自分が開いた穴を閉じてから立ち上がった。
汚れて暖かかった空気に満たされていた肺に、しんと冷たい夜の空気が流れ込んで来る。
僕は外の空気を吸ったり吐いたりしながら、僕の肺を満たしていた羊たちが足早に逃げ出していくのを残念に思った。
「…さんじうごひき…さんじう、ろっぴき」
それでも、ひとり布団の下で羊を数える妹の声が、僕に勇気をくれる。
――――出て来いっ!くそ、糞ったれ
ドン、ドン、ドンドンドンドン―――――
月明かりの暗闇の中を、迷うこともなく真っ直ぐにドアまで歩み、ドアノブを開く。
キィ、という音がして僕は子供部屋を出る。
強いアルコール臭が鼻につく。べとべとと体にまとわりつくような不快で退廃的な臭い。この家の匂いでもある。
薄暗い廊下の中に、あいつを発見する。
僕は後ろ手に扉を閉める。
あいつは壁を蹴るのをやめる。
あいつの目が僕を見つける。
アルコールの入ったあいつの眼は、ぎらぎらと異様な光を放っているくせに、同時にうるうると潤んで見えた。こういう時、僕はあいつが本当は怒っているのか悲しんでいるか分からなくなる。
出来るだけ子供部屋からあいつを引き離したかったので、あいつが僕に近寄ってくる前に、僕は自分からあいつの元に寄っていった。
「お母さんはいないよ」
「あのアマ、他に男つくって出て行きやがった!おめぇ、行き先知ってるだろっ、隠し立てなんかした日には、ぶっ殺すぞ」
酒臭い息をはきかけられて、僕は顔をしかめたくなるのを我慢しなければならなかった。
どんなに臭くとも、どんなに逃げ出したくとも、それを表情に表すのは上手くない。
ずっと昔に、あいつの汚臭にたえかねて鼻をつまんでしまった時の経験から僕はそれを学んだ。痛みを伴う教訓は一度で十分だ。
「お母さんは仕事だよ」
「仕事!? 仕事だって? あんな女に出来るまともな仕事があるもんか! あいつに出来るのはせいぜい股を開くぐらいのこった」
その言葉の意味を十分に理解できた訳ではなかったが、そこに込められた侮辱の気配は伝わってきたので、僕は母親を弁護するために口を開いた。
「違うよ。ちゃんとした仕事だ。お客さんをもてなす、立派な仕事だって言ってた」
あいつは爛々と輝く目を、さらに大きく見開いた。
「…ふ、ははは。こいつぁ傑作だ。分かったぞ。おめぇ、あいつが何をやってるのか知らねぇのか。こいつはいいっ!」
何がおかしかったのか、あいつは突然げらげらと笑い出した。何かの発作のようにヒステリックで異常な笑い声だった。
「はははっ…何してんだ? お前も笑えよ」
と言われて、僕も引き攣った笑顔を作って「あはは」と笑い始めた。
「はっははは…あぁ、おかしい」
「あはははは」
僕とあいつは、そうして暫く笑いあった。
しかし突発的に始まった笑い声は突発的に終った。
そうと気づいた瞬間には、僕の喉はあいつの手で鷲づかみにされていた。僕は喉笛に走った衝撃に咳き込み、驚いて反射的に飛び退ろうとしたが、相手が僕の首を掴んでいる以上はそれも適わず、結果的には文字どおり『自分の首を自分で締める』結果になってしまった。
「は、離してよ。お願いだ。離して…離してください」
僕はそう懇願したが、あいつは、口の端でちょっと笑っただけで、僕を解放しようとはしなかった。
「はなし-ーー」
あいつは親指をずらして、僕の喉仏に押し当て圧迫した。僕は声が出せなくなった。
僕はあいつを見上げて、今度は視線だけで許しを乞う。
「じゃあ仕事場とやらにいって首に縄をかけて、連れ戻してきてやる。亭主をほっぽって遊びまわっている女にはいい薬だ。あいつは、いっぺん、躾なおさねぇといけねぇ」
「…だ、めだよ」僕は必死になって声を絞り出す。喉をぐりぐりと圧迫するあいつの親指の下から。「そした、仕事なくな……お金……入って、こなくなっちゃ、よ…お酒も、のめ−ーー」
『カネ』や『サケ』の二字は時として酔っ払ったあいつの心に、理性を呼び覚ます。僕は経験からそれを知っていた。
結果として、僕はあいつが母の職場に乱入することを思い留まらせることが出来た。
「そうか、カネか……じゃあ仕方がないなぁ、仕方がない」
お金の力は偉大だ。
じっさいに現金がなくとも、カネという言葉には人に未来を考えさせる不思議な力が備わっているようなのだ。
僕は将来お金持ちになりたい。そうすれば、母さんが夜中に働きに出ることもなく、あいつが僕の首を絞めることも減るだろう。
しかし、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、そのとき僕は、僕の首を掴んで離さないあいつの、もう片方の手にあるものに気づいて背筋が凍りついた。
あいつは左手にベルトを握っていた。
細身のベルトは、あいつの手からぶら下がって左右に小さく揺れていた。ちょうど蛇の死骸のように力なく、ぶらぶらと揺れている。
その細さとシルエットからベルトは女物だと分かった。恐らく母の部屋を荒らし、洋服ダンスを漁った時に手に入れた戦利品なのだろう。
それともう一つ。あいつはベルトが大好きなのだ。
「じゃあ、代わりに−ーー」
そして僕はベルトが大嫌いだ。
「お前を躾けるとするか」
「−−ー-っーー…!」
喉に食い込んだ親指のせいで僕の悲鳴は声にならなかった。
―――僕は考える。
妹はちゃんと羊を数えているだろうか? 僕の分まで、数えてくれているだろうか?