3.初めての海
「マヤ、起きろ」
どこからか自分の名を呼ぶ、やさしげな声が遠くで聞こえる。
寝ぼけ眼を擦ると、そこには度アップのリビトの顔があった。驚いて咄嗟に後ずさりしたが、馬車の壁に阻まれてそれ以上動けなかった。
「ちょっといきなり何なのよ! 目の前にいたら驚くじゃない!」
「顔が赤いぞ。仕方ないか……俺の顔はかっこいいらしいからな」
リビトはニヤリと笑うと、上機嫌のまま座っていた場所に腰を下ろした。
「…………!」
マヤはリビトの言う「かっこいい」という言葉の意味が分からず、すぐに記憶を辿る。答えはすぐに浮かんだ。
リビトが寝ている時に顔をじっと見ていたら、リビトが急に話しかけてきて驚きのあまり、「顔が良くても口が悪い人は好きにならないんだから!」と言ってしまったことを思い出した。
「ち、違うわよ。び、びっくりしただけなんだから!」
自分の言葉を思い出して恥ずかしくなり、つい言葉が途切れとぎれになった。そんなマヤにリビトは怪しげな笑みを浮かべていたが、その興味はすぐに別のことに向けられた。
「ふーん。まぁ、いい。もう海に着いたぞ」
「えっ? もう海に着いたの?」
「そりゃ、お前はぐっすり寝ていたからな。よだれ垂れてるぞ」
リビトの言葉に慌てて、右手で口元を拭くがよだれが垂れた形跡はない。
「嘘ばっかり!」
「あははは……!」
腹を立てるマヤを横目に、お腹を抱えて笑うリビト。
『本当に、性格が悪いんだから! でも、今日のリビトは何だかいつもと違う。何というか、いつもの不愛想な感じじゃなくてやたらと笑顔が多い。こっちまで調子が狂っちゃうじゃない……』
不覚にもリビトの笑顔にドキリとしてしまった自分をぶん殴ってやりたい気持ちになる。
リビトは頭を抱えているマヤを見ては、1人楽しそうに笑っている。
笑いたいのなら笑えばいい、と腹を立てていると、リビトはすでに馬車から降りていて、マヤに笑顔で手を差し伸べてきた。
「お嬢様、さぁお手を」
それはこれまでにない、とびきりの笑顔だった。
突然、お姫様扱いするリビトの姿に、マヤの胸はキュッと締め付けられた。頬が熱くなった気がして顔の熱を冷ますように、片手を扇子代わりにパタパタと動かす。
そんなマヤの様子を見ていたリビトは差し出した手を引っ込め、再びお腹を抱えて大笑いし始めた。
「あっはっはは」
「……! またからかったのね! ホント性格悪い! もう知らない!」
マヤは自分が笑い者にされたのが腹立たしくなって、馬車のステップからジャンプして地面に飛び降りた。
地面は思った以上に柔らかな砂で足元が狂い倒れ込んでしまった。そんな様子を見ていたリビトはさらに大声を上げて笑い出す始末だ。
マヤは恥ずかしさもあってか、すぐに起き上がってワンピースに付いた砂を無言で払う。靴の中は砂で一杯になっていて歩きたくてもうまく歩けない。
さっきまで大笑いしていたリビトは履いていたブーツを脱ぎ捨て、裸足で砂浜を歩いている。リビトの姿は馬車が影になって見えなくなったが、その先からリビトの声が聞こえてきた。
「マヤも早く来いよ」
リビトの後を追うように、マヤも靴を馬車のそばに置いてから歩いて行く。
「ちょっと待ってよ。歩きづらいんだから」
馬車の横を抜けてリビトに駆け寄ろうとした時、視界が捉えたのはマリンブルーの海だった。マヤの足はその場でピタリと止まった。
「すごい! 海ってこんなに綺麗なのね!!」
足を柔らかい砂に取られながらも、視線は海へ向いたまま必死に急ぎ足で波打ち際まで向かった。次第に海水で湿った砂浜に辿り着く。
もっと海を感じたくなり波が打ち寄せる場所まで数歩前に進むと、小さな波がつま先に当たった。
「わぁ、波だ! くすぐったい……」
初めて波が足に触れたことに感動していると、後ろからリビトの声が聞こえてきた。
「マヤ、海に来れて良かったな」
やさしげに微笑むリビトに、マヤはとびきりの笑顔でリビトに感謝の言葉を言った。
「うん! リビトのおかげだよ! 本当にありがとう!!」
そんなマヤの言葉に照れたのか、リビトは頭をかきながら別の方向を見ていた。
マヤは、また新たなリビトの一面を知った気がした。
今日はリビトのいつもと違う表情を沢山見れて良かったと素直に思う。
元の世界ではこんな風に接することができる友達はいなかった。
マヤはリビトのやさしさに、心が温まっていくのを感じていた。
『リビトは口が悪いし、すぐにからかってくるけど、案外やさしいところもある。だから友達でいられるんだと思う。せっかく海まで来たんだから、今はこの時間を楽しむぞ!』
マヤはどうせなら2人の方が楽しいと思い、リビトに声をかけた。
「ねぇ、リビトもそんなところにいないでこっちにおいでよ!」
リビトはぽかんとした表情をしていたかと思うと、また頭をかいて困惑しているようだった。
声をかけてもリビトがこちらに来る様子がない。リビトを呼ぶのは諦め、走ったり跳ねたりして波を避ける遊びに1人で熱中した。
暫くしてリビトが「お腹が空いた」と言い出したので、一度馬車を置いた場所まで戻ることになった。
馬車はすでに視界から消えていて、その代わりテーブルと2脚のイスが砂浜の上にセッティングされていた。
テーブルにはパンやスクランブルエッグ、野菜たっぷりのスープ、瑞々しいフルーツの盛り合わせが並んでいる。
リビトは椅子に座ると、「向かいのイスに座れ」とでも言いたげにアゴで合図を送ってきた。ここは素直に従っておこうと考え、リビトの向かい合わせになる形で椅子に座った。
マヤが席に着くと、リビトは「いただきます」と言い、テーブルに並ぶ料理に手を伸ばした。
リビトに倣ってマヤも「いただきます」と言ってから食事を始める。まずは乾いた喉を潤そうと、オレンジジュースを1口啜った。
「これ、すごく美味しい!」
「それは森で今朝収穫したオレンジを搾ったジュースだ」
「このパンも温かいのね。とても美味しい」
「それはリビアさんが今朝焼いてくれた。焼き立てのまま魔法で保管してたから温かいんだ」
1問1答でもしているかのように、マヤが質問すると即座にリビトが答えた。マヤはいつになく丁寧に答えてくれるリビトに気を良くし、続けて質問をした。
「この野菜たっぷりのスープも美味しい! これは誰が? リビアさんが?」
「……それは……俺が昨夜作ったスープだ」
マヤはリビトの顔をじっと見つめた。リビトはマヤから視線を逸らしたまま、パンに齧り付いている。
確か、リビトは料理をするのが苦手だと言っていた。食事はリビアさんが作るから、今まで自炊をしたこともないはずだ。不思議に思って、質問をしてみる。
「あんなに料理するのを嫌がってたのに?」
「たまたまだ。ただ作りたい気分になっただけだ」
リビトはぶっきらぼうな言葉を返してきた。
マヤはリビトの顔をじっと見る。リビトは目を泳がせており、明らかに動揺しているように見えた。
「な、何だよ。別にいいだろ、俺が料理しても」
マヤはリビトを観察し、思考を巡らせると1つの結論に至った。次第に口元は緩んでいった。
マヤは、リビトは嫌いな料理に挑戦し、今日のために準備を進めていてくれたのではないか、と考えた。リビトは何も言わないが、マヤはそう確信していた。
自分には意地悪く横柄な態度をとるリビトだが、マヤはリビトの心根はやさしいと知っている。誰にでもやさしく接していて、困ってる人がいれば自分から声をかけて手伝ってしまうほどに。
時には、そのやさしさを自分にも向けてくれたらいいのに、とさえ思うこともあったが、その願いは意外にも早く叶ったようだ。リビトの不器用なやさしさに気付き、マヤは感謝の気持ちを伝えたくなった。
「リビト、私のためにありがとう。空を飛ぶ馬車に乗せてくれたし、海にも連れてきてくれた。それにこんな美味しい料理も沢山用意してくれて本当に嬉しい!」
「……別に……お前のためじゃない。俺がしたかっただけだ」
リビトはいつもの口調で返してきたが、耳は赤く染まっていた。
これはリビトを揶揄う絶好のチャンスだ、とも考えたが、リビトのやさしさに免じて今日は小さな復讐をするのは止めておこうと思ったのだった。
食後少し休憩してから暫くの間、マヤは再び波打ち際まで行き、打ち寄せる波を追いかけたり逃げたりを繰り返して遊んでいた。
海を十分に満喫した後、リビトがいる場所まで戻ることにした。すると、呆れた声が聞こえてきた。
「お前よく飽きないな」
「うん! だって楽しいんだもん。リビトも一緒に遊べば良かったのに」
「俺はお前と違って大人なんだよ。子どもみたいな遊び、できるかよ」
「そう? 大人だって遊ぶ時は遊ぶよ」
「……俺は、遊ばない……」
リビトは、自分は大人だって言い張るが、大してマヤと年齢に差はない。
リビトはマグスの血も入ってるから、実際の見た目よりも長く生きている可能性はあるのだが。
マグスは人間よりも長生きするとマーモーから聞いている。たとえ、リビトの年齢を知ったとしても、自分の寿命を伸ばすことはできないし、自分の方が先に人生を終えることになる。
あえてリビトに年齢を質問することはなかった。
そんな先の未来を思い悩んでも仕方がない。それよりも今を楽しもうと思うことにした。
マヤはマリンブルーの海に視線を向け、今日の楽しかった記憶を思い返した。
初体験の海はとても楽しかった。「また海に来たい」と言いたくなるくらいに。心の中で呟いたはずの本音は、気付くと口から出ていた。
「……また来たいな……」
マヤは遅れて耳に入ってきた言葉で、自分が無意識に本音を吐露していたことに気付いた。思わず口を片手で覆ってしまったが、出てしまった言葉を帳消しにすることはできない。
これではまるでリビトに「また連れてきて欲しい」とせびっている様に聞こえるではないか。
マヤはハッとしてリビトに視線を向けた。リビトはすでに馬車の方へ移動しているようで、マヤの言葉は聞こえていなかったようだ。
マヤは漏らした本音をリビトに聞かれていないことに安堵した。
「マヤ、暗くなる前に帰るぞ。早くしろ」
「分かった。今行く」
帰り支度を終えたらしいリビトが、馬車の端から顔を出してマヤの名前を呼んだ。マヤは短い返事をして、リビトのいる馬車に向かった。
馬車に近づくと、そこに置かれていたはずのテーブルと2脚のイスや食器類は全て消えていた。馬車の裏へ回ってリビトのそばに行くと、馬車のステップの手前にマヤの靴が並べられているのに気付いた。
足に着いた砂を払って靴を履こうとした時だった。リビトが「馬車には裸足のまま上がれ」と言い出した。
足には砂が付いていて馬車の床を汚してしまいそうで、すぐに乗るのを躊躇していたが、リビトはそれ以上何も言わなかった。
リビトがいいと言うなら素直に従おうと思い、軽く砂を落としてから馬車のステップに足をかけようとした時――。
マヤの目の前にリビトの手が差し出された。一瞬、また自分を揶揄うつもりだと思い、リビトに「同じ手に乗るものか」と毅然とした態度を示したが、リビトの表情に揶揄いの色は見られなかった。
今度は馬鹿にするのでもなく笑うのでもなく、ごく自然な表情をしている。マヤも自然にリビトの手に自分の手を重ね、ステップに足をかけて馬車に乗り込む。
マヤが座ったのを確認したリビトは、マヤの靴を片手に持ち、パチンと指をならして靴に付着した砂を簡単に払い、馬車に乗り込んできた。
リビトは座席に座ろうとせず、馬車の床にしゃがんだまま1点を見たまま動こうとしない。リビトの行動を不審に思い、その視線の先はマヤの足元だった。足をじっと見られて恥ずかしくなり、足を引っ込めようとすると、リビトが口を開いた。
「マヤ、足を出してみろ」
リビトは唐突な言葉を口にした。




