10.焦りと苛立ち
日が昇る前から、リビトは宿の自室で素振り稽古をしていた。はじまりの森から持ってきたのはボスであるスノボマーモーから手渡された剣だ。ただの重いだけの剣とは違い、魔力が宿っていた。所謂、魔剣と呼ばれるものだ。
魔剣といっても何の変哲もない見た目で、ある程度魔力を持つ者でなければ魔剣だとは分からない代物だった。念には念を入れて自身の魔力を魔剣に流し、魔剣の魔力が外に漏れないよう細工しておくことにした。
魔剣は冒険者にとって代えがたい宝だ。喉から手が出るほど欲しがる一級品のため、決して魔剣の存在を知られる訳にはいかない。
ボスがなぜ自分に、こんな重要な魔剣を託したのかは分からないが、マヤの護衛として旅に同行する以上、どんな武器でも借りられるなら有難く受け取ることにした。
夢中になって素振りをしていたため、気付くとすでに日は昇っていて、窓の外では鳥がチュンチュンと鳴き始めている。汗を軽く流そうと、自室と反対方向にあるシャワー室へ向かった。
シャワー室のドアに紐で吊るされた板を「空室」から「使用中」に引っくり返し、内鍵を閉める。シャワー室の奥には1人用のサウナ室が設置されていた。
リビトはサウナをほとんど使用したことはないが、マーモーの家にもサウナ室があった。ある日マーモーがサウナ室からさっぱりした表情で出てくるところに鉢合わせたことがある。マーモーから「リビトもどうだ?」とサウナを勧められて入ったが、異常な暑さに頭がクラクラし、それ以降サウナ室に入ることはなくなった。
シャワーで汗を流しながら、昨夜を思い返していた。
夕食に出かけようとカウンターの女に部屋の鍵を預けに行った時のことだ。女はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、リビトに話しかけてきた。
「お兄さん、奮発してくれたからいいこと教えてあげましょうか?」
リビトの女への第一印象が悪いせいか、どうせ大した話ではないだろうと期待はしなかったが、大盤振る舞いした支払いの対価を少しでも回収するべく、リビトは女に顔を向けた。すると、女はリビトの耳に口を寄せて囁いた。
「部屋のクローゼットの奥を覗いてごらんなさいな。あなたの大切なレディの部屋と繋がっているわよ」
「……!」
リビトは目を大きく見開き、次の瞬間、目の前の女を睨みつけた。
「まぁ、怖い。教えてあげるんじゃなかったわ。まだヒヨコなのね」
その女は怖いと言いながらも、余裕気な表情でリビトをカウンター越しに見下ろしていた。リビトは言葉を返さずにその場を離れた。
夕食後、早々と宿に戻り、リビトとマヤはそれぞれの部屋に戻った。ふと自室のクローゼットが視界に入り、忘れかけていた宿の女の言葉が頭を過る。
マヤが眠る部屋と自室のクローゼットが繋がっていると考えると、全身の毛が立つような感覚になった。
偶然、マヤの部屋の隣が自分だったから良かったものの、万が一他の男がこの部屋に泊っていたと思うと、今頃取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。そうならなかったことに安堵するが、怒りは収まらない。
自分の力をもってすれば簡単に壁の穴を塞ぐことはできるが、宿にバレれて反感を買えばこの町にいられなくなる恐れもあると考え、踏み止まることにした。
その後もクローゼットの件が頭から離れず、眠ることができなかった。どうせ眠れないのなら、いっそ素振りでもしていようと考え、夜通し素振りをした結果、今に至る。
シャワーを浴びて部屋に戻る頃には冷静さを取り戻すことができ、今日のスケジュールを確認することにした。
暫くしてからマヤの部屋のドアをノックし、中で寝ているであろうマヤに声をかける。
「マヤ! 起きてるか? もう朝だぞ、起きろ!」
ガチャッとドアの内鍵が開く音がしてドアが開く。
「なぁ~に? もう朝なの?」
「おい、朝シャワー浴びたいと言ったのはお前だろうが――」
ドアが開けきらないうちからマヤの眠たそうな声が聞こえ、リビトは面倒そうに言葉を返す。ドアが全開になった瞬間、リビトは目を見張った。
マヤは胸元が緩く袖のない薄い布地の上衣に、太ももがしっかりと露出する短パン姿で現れた。ドアを開けてもなお、警戒心もなく瞼を擦り、寝ぼけている様子だ。
次の瞬間、リビトは体当たりするようにマヤを室内へ押し戻し、マヤの両手を掴んで壁に押しつけた。互いの息遣いが分かるほどに顔が近くなり、マヤの瞳が大きく見開くのが分かった。
リビトは顔を横に逸らし、囁きに似た声で「頼むから、もっと危機感を持ってくれ……」と呟く。
リビトの胸の中にはドロドロとした感情が渦巻いている。それ以上は言葉にならず、マヤの両手を開放して1歩下がった。窓のない部屋は薄暗く、互いの表情を隠している。
長い沈黙が続き、マヤが振り絞るような声を出した。
「――ごめん……すぐ、支度するから……」
マヤは慌てるように部屋の奥へ移動し、シャワー室へ行く準備をし始めた。
リビトは「廊下で待っている」とだけ告げて部屋を出ることにした。
マヤが着替えを持って部屋を出てきたのはリビトが廊下に出てすぐのことだった。部屋の鍵を施錠するマヤの背に目をやるが、目を合わせる度胸がなく、マヤが振り向く前に背を向けてシャワー室へと歩みを進めた。
どちらも無言のまま、シャワー室の前に到着した。
リビトは室内を一回りして確認後、シャワー室を出ると正面の壁に背中をもたれかけ、両手を組んだ。それを見てマヤはリビトに一声かけてシャワー室へと入って行った。
「い、急いで入ってくるね」
「――いや、急がなくてもいい」
リビトが声を発したのとマヤがドアを閉めるのは同時だった。マヤを急かすつもりはないと言いたかったが、一拍遅れて返事したためマヤに声が届いたのかは分からなかった。
内鍵をかける音がすると、意識は先ほどの出来事へと向かった。深い溜息と共に本心が口を出た。
「俺はどうかしている……」
リビトの頭の中は警戒心の低いマヤへの怒りも少なからずあったが、多くを占めていたのは咄嗟に動いた己の体の抑制が効かなかったことへの後悔だ。
これまでマヤのだらしない格好は幾度と見てきた。それでもさっきみたいに取り乱すことは一切なかった。
だが、マヤがドアを開けた瞬間、脳内に緊急を知らせる鐘が大きく鳴り響くようだった。自分は冷静沈着で感情を取り乱さない方だと思っていたが、実際はどうだろうか。
上衣が乱れ、胸元が大きく開いていた上半身からすぐに視線を下げたが、短パンからは筋肉質の引き締まった自分の足とは違い、白くほっそりとした太ももが露わになっていた。その瞬間頭は真っ白になり、気付いた時にはマヤを壁に押しつけていた。
あの感情が何なのか分からなかった。ただ、衝動的に動いた結果、残ったのは深い後悔と今もドロドロと流れるような胸の奥の重みだけ。組んだ手を解き、掌をじっと見る。
この手がさっき掴んだのは他でもないマヤの腕だ。腕は自分の力でも簡単に折れてしまいそうな細さだった。
護衛役が聞いて呆れる。自分はマヤを守るためにこの度に同行したのに、マヤを力で制しようとしたのだから。何と愚かな行為か――。
なぜすぐに謝らなかったのか、すぐに謝れば……。謝っても許してもらえることではない。頭に浮かんだのは酷く狼狽えるマヤの顔だった。あんな表情を見たことがない。今頃マヤは自分に幻滅しているだろう。
リビトは背中を壁に擦りつけるように、廊下に座り込んだ。
突然、マヤが自分から離れてしまうかもしれないという不安に襲われた。胸が裂けるような痛みが強くなる。今も消えない内を這いずるドロドロが入り混じり、自分が自分でなくなる感覚に陥りそうになる。次の瞬間、右の頬に拳がめり込んだ。
カチャリとシャワー室の内鍵が開く音がした。廊下に座り、伏せていた顔を上げたところでマヤと目が合う。マヤに言うべき言葉が浮かばず、すぐに視線を逸らしてしまった。
すると、マヤがバタバタと大きな足音を立てて近づいてくるのが視界の端に入った。
マヤに謝罪の言葉を、と口を開きかけた時、マヤが先に口を開いた。
「リビト! どうしたの? 何があったの?」
マヤの声の大きさと異様な空気に違和感を覚え顔を上げると、マヤの大きな瞳がこちらを真っ直ぐ見ていた。その表情は怒りや不安ではなく、明らかにリビトを心配しているようだった。それでも自分の取った行動が申し訳なく、顔が俯いてしまう。
頬を包み込むような温もりが感じられたと思いきや、無理やり俯いた顔を上げさせられる。逸らした目は再びマヤの瞳とぶつかった。顔を逸らそうにも動かせない。ようやくマヤの両手が自分の頬を包んでいるのだと気付いた。マヤの瞳は次第に潤んでいく。
「――マヤ?」
「リビト、何があったの? 誰かに殴られたの?」
マヤの言っている意味が分からず、自分の頬から手を引き剥がそうとするがマヤは一向に動こうとしない。マヤがようやく頬を開放したと思いきや、ポケットからハンカチを出し、自分の口元に宛がった。
「っ!」
「ごめん、痛かった?」
「――痛い?」
マヤがハンカチをそっと口元から剥がし、こちらへ見せた。ハンカチには少量の血が滲んでいる。
「リビト、私がシャワーに入っている間に何があったの? ちゃんと教えて!」
マヤは悲痛な声で話しかけてくる。
マヤが悲しそうな表情をしている理由がやっと分かった。己の拳で己の頬を殴りつけたからだった。右の頬にはくっきりと赤く殴った時の痕が残っているのだろう。口元の端は切れて僅かに出血していた。
自分がマヤを傷つけたのに、マヤはこうして自分を心配してくれる。そのやさしさをうれしく思う反面、自分がマヤにした愚かな行為が悔やまれる。マヤに許してもらえるか分からないが、しっかり謝ろうと思えた。
「マヤ、さっきはすまなかった。謝って許されることじゃないと分かっているが、謝罪したい――」
リビトは今言える言葉を必死に並べ、マヤに謝罪した。だが、続くマヤの言葉を聞いて驚く。
「私の方こそ、ごめんなさい!」
「――えっ?」
「悪いのは私なの、本当にごめんなさい。リビトの言うように、私は危機感を全く持っていなかった。後から気付いたんだけど、森にいた時みたいにラフな格好でドアを開けちゃったのも良くなかったよね……」
自分がマヤを傷つけたのに、マヤから謝られてしまう。
――悪いのは自分だ、謝るべきなのは俺の方だ。沸き立つ感情が声に乗り、声が大きくなる。
「違う! 悪いのは俺だ、俺がマヤを傷つけたんだ。二度とあんなことはしない――、だから俺を……許してくれないか?」
「許すも許さないもないよ、リビトは何も悪くないんだから。悪いのは私だよ。リビトは昨日からずっと注意してくれていたのに、私は……。リビトがそばにいてくれるからって、安心しきってた」
「いや、俺の方こそさっきはどうかしてた。神経質になりすぎていたんだと思う。強く当たって悪かった。本当にすまない」
「私の方こそ――」
リビトの謝罪が終わると、再びマヤが謝ろうとして2人の視線が重なった。少しの沈黙の後、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「私たち、このままずっと謝罪を続けるのかな?」
「あぁ、そうかもしれないな」
リビトとマヤの顔には怒りも不安もなく、すっきりとした表情になっていた。
「心配してくれてありがとう。今度こそもっと気を付けるから」
「あぁ、俺も気を付けるよ」
和やかな空気が2人を包み込んだ時だった。
「兄ちゃん、仲直りできて良かったな!」
「夫婦喧嘩なんて仲睦まじいわね。夫と最後に喧嘩したのはいつだったかしら?」
「お嬢さん、ご主人と末永く仲良くな!」
声のする方へ振り返ると、シャワー室の向かいの両脇の部屋から数人がドアから顔を出してこちらを覗いていた。
事情を聞くと、部屋を出ようとしたのだが、2人が部屋の前で謝罪合戦を繰り広げていたため出るに出られなかったらしい。
1人の男性はリビトが苛立ちながら壁にもたれかかっている時から、ドアを少し開けて一部始終を見ていたという。
全てを他人に見られていたかと思うと、急に顔の温度が上がった。マヤを見ると耳まで真っ赤になっている。それを見て自分も同じ状態なのだろうと考えた。
リビトはマヤの手を取ると、逃げるように自室へと足早に進んだ。後ろから再び新婚夫婦を弄る野次が聞こえてきたが、聞こえない振りをして部屋に逃げ帰った。
「あぁ~、若いっていいわね~。私も夫に会いたくなっちゃったわ~」
「お前、昨日旦那と別れるってボヤいてたじゃないか」
「そ、そんなこと言ったっけ?」
「ほ~ら、また始まった。あんたもこの子と何年の付き合いよ。いい加減、本気で旦那と別れるつもりがないって気付きなさいよ」
「女って面倒くせぇ~」
リビトは部屋のドアを急いで閉じると、野次馬たちが追ってきていないことは分かっていたが内鍵をしっかりと閉めた。中に入ると示し合わせてもいないのに、ふと横を向くとホッとした表情をするマヤがいた。ドアを背に顔を見合わせると、2人で大笑いしたのだった。
2人の間にはもう、今朝のようなぎこちなさは一切なくなっていた。




