0.物語のはじまりは突然に(前)
暗く奥深い森の中。木々はまるで空からこの地を覆い隠すように密集しており、昼間でも薄暗い。幹や枝には蔓が巻き付き、地面のあちこちで這うように伸びている。時折、どこからか不気味な鳴き声が遠くで聞こえる。常に誰かに見張られている気配が、この森のただならぬさを感じさせていた。
そんな不気味さと対称的に、足取り軽く深い森の中を進む少女が1人。怖がるどころか頬は緩み、目元も下がっている。まるで今にもスキップでもしそうなくらいに。
薄暗い森を抜けると、天国にでも足を踏み入れたのかと錯覚するくらい明るく美しい光景が広がっていた。地面は歩きやすいよう土が踏み固められており、道の左右には青々と茂る緑の絨毯のような草が広がっている。所々に色とりどりの小さな花を咲かせていた。
見上げた先には遥か遠くにまで広がる大きな青空がある。太陽の光が燦々と降り注ぎ、少女はそれを全身で受け止めた。目を瞑って鼻から息を吸う。新鮮な空気がすぅーっと全身に行き渡る。窄めた口から静かに空気が吐き出された。
閉じた目を開いて再び土の道を歩き始める。暫く歩くと川のせせらぎが聞こえてきた。川は遠目から見ても分かるほど透明度が高く、近づけば川底や魚をしっかりと視野に捉えられる。
川辺に歩み寄って片手を水の中へ入れると、初夏にもかかわらず川の水温はひんやりとしていた。冷たいと感じるのは水に手を入れた瞬間だけで、その後は不思議と冷たさは感じられない。
しばし川の水を掬っては空に向けて水飛沫をあげて楽しんでいると、どこからか少女の名前を呼ぶ声がした。
「マヤ!」
後ろを振り返ると、そこにはにっこり笑顔で駆け寄ってくる子どもの姿があった。
「チコ、こんなところまでどうしたの?」
「あのね、えっと……。あれ? えっと……」
「大丈夫だから、ゆっくり思い出してみて」
「うん。えっと……。そうだ! パパがね、マヤを呼んで来いって言ってたの」
「チコのパパが?」
「うん! マヤ、急いで、急いで!」
「うん、分かった。じゃあ、一緒に行こうか」
「うん!」
マヤの手をしっかりと握ったその手はもみじのように小さい。丸っこく可愛らしい手だが、繋がれたその手は明らかに人間のものとは違っていた。
その手は顔や腕、足の肌の色と同じく深い海のように鮮やかな青だった。まるでペンキを全身にムラなく塗ったように美しい。
身に付けている衣服は麻で織られた布と紐のシンプルな組み合わせで上下セパレートになっている。
首には赤い紐に通された緑色に輝く翡翠のネックレス。手首には艶のある漆黒の黒曜石と翡翠をあしらった腕輪がはめられている。
ネックレスは先祖代々受け継がれている貴重なものだという。翡翠は魔除けや持ち主に幸運をもたらすとされていた。
黒曜石にはいくつもの種類があり、チコの腕輪に使用されているのは光が当たる角度によってそれぞれが虹色や黄金色の輝きを放つものだった。
「マヤ、ここで何をしていたの?」
「あぁ、実はね。川が冷たいか確認しに来ていたのよ」
「川?」
「うん。川が冷たくなかったら、水浴びをしようと思っていたの。でも、冷たかったから諦めたの」
「マヤ。お風呂、好きじゃないの?」
「あ~、違う違う。お風呂は好きだよ。水浴びは体を洗いに来たわけじゃないの。川が温かくなったら泳ぐと気持ちいいのよ」
「およぐって楽しいの?」
「うん。でも、チコはまだ小さくて川底に足が着かないから、絶対に一人で川に入っちゃダメよ」
「うん! わかった!! じゃあ、僕が大きくなったら一緒に入ってくれる?」
「もちろん!」
「やったぁ~」
「パパぁ~! マヤ、連れてきたよ~」
「おぉ、偉いぞ!! さすが私の息子だ」
目を細め、その幼子を愛おしそうに見つめながら抱き上げるのはチコの父親である。2m以上もある背丈に、腕や胸、背中、脚にもゴツゴツと盛り上がった筋肉の持ち主で衣服の上からもその強靭な体躯が見てとれる。
チコと同じく、全身が美しい青色で瞳は銀色だ。耳には陶器のリングが飾られており、胸元にはチコが身に付けているネックレスの何倍も大きく数の多い翡翠が並ぶ。腕にはいくつもの黒曜石の腕輪が付けられている。
息子と触れ合う時間を存分に楽しんだ父親は息子を地面に降ろして「ママの所へ行ってなさい」とやさしい声色で告げる。チコは「は~い」と返事をして、森のさらに奥へと走って行った。
チコを見送った父親は視線を少女へと向ける。
「マヤ、今日は休ませてあげたかったのだが、どうしてもお前の力が必要になり、チコを遣いにやった。すまない、許してほしい」
筋骨隆々の大柄な男が、二回りも小さな少女に対して腰を曲げて深々と頭を下げた。
「マーモー、気にしないで。森の外まで行って少し気分転換できたから」
「この穴埋めは必ずする」
「うん。期待してるね」
今日は数週間ぶりにできたお休みだった。毎日、彼らの仲間の悩み相談を聞いては適切なアドバイスをしてあげるのがマヤの仕事だ。その対価として、この森一帯での身の安全や衣食住の全てを彼らに確保してもらっている。
休む間もなく働いて、家に帰った時にはぐったりするほど疲れているけれど、誰かの役に立てるのは正直嬉しい。
それに、彼らとの暮らしには十分満足している。一緒に歌ったり、時には踊ったり。
残念ながら生クリームたっぷりのスイーツは食べられないが、新鮮な食材で作られた美味しい料理と瑞々しいフルーツがあれば充分。彼らが毎日世話をして実らせたフルーツは少女にとって最上のスイーツとなっていた。
「それでだが、実はミマタノオロチの首が絡まってしまってな……。首は何とか元に戻せたのだが、家の中に閉じこもってしまったのだ。奴が閉じこもるせいで通行できない者たちが大勢いて困っていてな。私も説得に応じようとしたのだが、何も反応がなくてな。ついカッとなって怒鳴り散らしてしまったのだ。それで、益々家から出て来なくなってしまってだな……」
「なるほど。それは大変! 通行が滞ってしまったら、あちこちの森での暮らしに支障が出てしまうもの。これは早急に何とかしないといけないわね!」
「あぁ、そうなんだ! この緊急性を分かってくれたか」
「はい! さっそくミマタノオロチさんの家に行って説得を試みますね」
「あぁ。マヤ、頼んだぞ」
一旦、仮住まいの家に戻り、身支度を整えるとミマタノオロチの家へと向かった。
暗がりの森にはいくつもの分かれ道がある。その分かれ道は外部からの侵入者対策として作られた道だ。この森を行き来するには、あるアイテムが必要で、所持していない者はひたすら森の中を永遠に彷徨い歩き続けることになる。
そのアイテムというのが、チコやマーモーが身に付けている翡翠だ。翡翠はこの森に住む上で欠かせないアイテムであり、ここで暮らす者は全員が翡翠を持っている。また、自分の身を守るためのお守りでもあった。
この森には地図が存在しない。翡翠が目的地までの道標となるからだ。目的地に行く方法はとてもシンプルで、翡翠に「〇〇へ行きたい」「〇〇がいる場所まで連れてって」と心の中で願うだけで目的地や会いたい人がいる場所までのルートを示してくれるのだ。まるでGPSを搭載したナビゲーションシステムのように。
実は、マヤもかつてはGPS搭載のナビゲーションを大いに活用していた。それは僅か数カ月前までの話だ。
******
「キャン、キャン」
「先生、ウチの子は何を訴えているんでしょうか?」
「少し時間をください」
「分かりました……」
目を瞑って額の裏に意識を集中させる。
集中力が高いときは数秒~数十秒程度の時間で対象の意識と繋がり、対象の心の声が聞こえてくる。時間がかかる場合は数分程度の時間が必要だ。
眉間の辺りから1本の光の線が出たと感じたら目を開き、目の前のワンちゃんの瞳を見つめながら訴えかける。
『君はどうしてそんな悲しそうな声で鳴いているの?』
――ぼくの言葉が分かるの?
『うん、分かるよ。君の飼い主さんが君の考えていることを知りたくて私をここへ呼んだの。さっそくだけど君が鳴いている理由を聞かせてくれる?』
――うん。実はママの体が臭うんだ。何かおかしいんだ! ママのお腹辺りからいつもと違う匂いがするんだ。だから病院に行ってって伝えてよ! お願いだよ!!
『分かった。でも正直なところ、この手の話は伝えても信じてもらえないかもしれない……。一応、君の言葉を伝えておくね』
――急いで!
正直、この手の話を依頼主に伝えるのは気が引ける。これまでも同様のケースがあり、大半の人は信じてくれたが、一部の依頼主はカンカンに怒り出すからだ。前回もそうだったし、今回の依頼主の雰囲気からも恐らく同様の結果になるだろうと茉弥は確信していた。
気が引けるものの、目の前で必死に訴えかけてくる彼の意思を無視する訳にはいかない。安易に伝言内容を歪めるのは私のポリシーに反するからだ。
動物たちの真の声を正直に、誠実に、伝えるのが自分の、アニマルコミュニケーターとしての使命だと考えているからだ。
茉弥は覚悟を決めて、愛犬からの切実な伝言をそのまま依頼主に伝える。すると、依頼主の顔色はみるみるうちに紅潮していった。
茉弥は心の内で「やっぱりダメだったか……」と呟き、小さな溜息を吐いた。
「あなたねぇ、そんな出任せを言わないでちょうだい! ご近所の奥さんに紹介されたから仕方なく依頼したけど、こんな失礼なことを言うなんて信じられないわ!」
「ワン、ワン、ワン!!」
――怒らないでよ! この人は僕の言葉をそのまま伝えてくれてるんだよ。どうして信じてくれないのさ! ママ、お願いだよ。信じてよ!
彼は切ない鳴き声を上げて私に応戦してくれるも、飼い主に彼の真意が届くことはなかった。彼女は怒鳴りながらお財布から数枚のお札を手に取ると、茉弥に投げつけてきた。
「本当はお金を払う価値もないけれど、後から何だかんだ言われるのも御免だわ。これを拾ってすぐにウチから出て行ってちょうだい!!」
彼女は鳴き続ける愛犬をやさしく腕に抱き上げ、すぐに隣室へと消えて行った。
「……やっぱりこうなるよね……」
足元にひらりと落ちたお札を拾い上げ、隣室に籠っているだろう依頼主へ一声かけて一礼してからマンションを後にした。
ペットの心の声を飼い主に届けるのが茉弥の仕事だ。動物好きな茉弥にとってこれ以上ない天職だと思い続けること十数年が過ぎた。
これまでに依頼主から感謝されることは多かったが、少なからず今日の依頼主のようにペットからの伝言を正直に伝えると顔を真っ赤にして怒り出し、家から追い出されることもしばしばあった。
ひどい時は詐欺呼ばわりされて訴えられかけたこともあった。幸い、紹介者が仲介に入ってくれて事なきを得た。
アニマルコミュニケーターは動物に触れ合える仕事とはいえ、動物とだけコミュニケーションを取れればいい訳ではないと分かっていたつもりだが、やはり依頼主に理解されないばかりか詐欺呼ばわりされるのはさすがに深く傷つくものだ。
これまでに幾度となくこの仕事を辞めたいと思った時もあったが、その度に依頼主やコミュニケーションを取ったペットたちからもらった感謝の言葉に救われ、今日まで続けることができた。
自宅への帰り道はその日の振り返りの時間にしている。
「今日は久々に疲れたなぁ。何とか飼い主さんにワンちゃんの気持ちを伝えることができたら良かったんだけど。それに彼の言っていた言葉が気のせいだといいのだけれど……」
今更考えてもどうしようもないことだと分かっているが、足取りは重くなるばかりだ。
消化しきれない気持ちを抱えながら数週間が経った。仕事を終えて自宅に帰ってからスマホを見ると「不在着信1件」と表示されていた。留守電の伝言を再生しようとボタンを指でタップした瞬間、急に体がふわっと軽くなったように感じた。
足元を見ると床にぴったり着いていた両足はなぜか宙に浮き、全身が光り輝いていたのだ。
「えっ!? 何これ?」
茉弥は体を動かそうとするが全く体の自由が利かない。疲れすぎて夢でも見ているのかとも考えたが、妙に現実感がある。
「嘘でしょ? 私、浮いてるの?」
絨毯に転がっているスマホから、先日茉弥を怒鳴り散らして家から追い出した依頼主の声が漏れ聞こえてくる。
――先生、先日は大変失礼しました! あの後、夫に先生から言われたことを話したら『念のため病院で検査して来い』と言われまして。今日、病院に検査結果を聞きに行ったんです。そしたら、先生がおっしゃられたように腫瘍が見つかりまして……。
幸い発見が早かったため、内服薬だけで経過観察するという話になりました。あの日、先生は本当のことを伝えてくれたのだと知って……。
その、先日は大変無礼なことをしてしまい、申し訳ありませんでした。もう私の顔も見たくないと思っているかもしれませんが、せめてお詫びとお礼を伝えたくて……。
スマホから聞こえる音は次第に小さくなっていく。自分が宙に浮いている現状に混乱していて声は聞こえるものの、話の内容が全く入ってこない。
手あたり次第何かを掴めば床に降りられるかもしれないと思い腕を降ろそうとするが、指1本動かせない。これは所謂金縛りというやつなのか。
『でも金縛りって寝ている時になるやつよね? 私は寝ている? いやいや起きている。意識もしっかりしている。ならばこの状況は一体何なのか?』
この現象を起こした何者かに問いたい。しかしそれは無駄なこと。この部屋には茉弥1人しかおらず、何の気配も感じられない。だが、このまま何もせずにいられる訳がない。
見えない何らかの力に操られているような感覚を抱きながらも、持てる最大限の力を全身に入れて反発しようと瞬間だった。視界は眩い光に覆われ、意識が薄れていった――。
******
目を開けると視界に飛び込んできたのは茉弥の住み慣れた自宅ではなく、見知った景色でもなく、青い肌の人間のような顔だった。一瞬置物か何かだろうか、と思ったが瞼がぱちりと瞬きをしていて生物であることは確かだった。
その生物は茉弥の顔を上から見下ろしている。大きな体を折り曲げて片膝を地面についている。眉間に深い皺を寄せて、こちらを鋭い眼で凝視していた。
助けを求めたいが、驚きすぎて声を上げられない。目を上下左右と動かしては逃げ道がないか探すも、目と鼻の先ほど近くにいるこの生物には全く隙がない。
茉弥は地面の上に横たわっている。寝そべったままの体勢では体を起こすこともできない。仮に起き上がったとしても目の前の生物に、簡単に押さえ付けられてしまうだろう。その場に寝ころんだままじっとしているしか選択肢はなさそうだ。
『誰っ? 何でこんな状況に? 嘘でしょ! 私ここで死んじゃうの? 食べられちゃうの? そんな死に方絶対嫌だ――』
絶望的な展開に死を覚悟しかけた時、どこからか声がしてきた。
「誰がお前みたいな小娘を食うものか」
『え? 他に誰かいる? 偶然近くにいた人が助けに来てくれたとか?』
絶望の淵で僅かな可能性を感じ、視線だけを動かして周囲に人影がないか探してみる。だが、茉弥と目の前にいる青い生物以外に人の気配は感じられない。
『誰もいない? ラノベ小説やアニメじゃあるまいし、そんなに都合良く助けが入る訳ないか……。 ん? 待って、じゃあさっきの声は?』
「人間は愚かだが、もっと賢いと思っていた。だが、お前は違うみたいだな」
『え? 嘘でしょ! もしかして、目の前にいるこの生物が私に話しかけているの? それに私の考えていることが全て分かっているみたい――』
目の前の青い生物は表情一つ変えずにじっと茉弥を見ている。茉弥は命の危機に晒されて極限状態に追い込まれた。気付くと心の呟きが声となって出ていた。
「そんなことはどうでもいい。問題は私の命の危機が目前に迫っているという事実よ! 私を食べないのは喜ばしいことだけど。最終的に無残に切り刻んだり、玩具のように殴り蹴ったりして、用済みになったら殺すつもりかも! 絶対嫌だ~!!」
「お前は馬鹿か? 我が種族はそんな野蛮なことはせん! だが、お前は我が領域に足を踏み入れた。この地に足を踏み入れて生きて帰れた人間はこれまで1人もいない。覚悟するがいい」
「ひぇ――! やっぱり殺されるんじゃない! せめて、一息にやって苦しめないでぇ――!!」
「はぁ、お前は本当に人間なのか? なぜ俺に危害を加えようとしないのだ?」
「いやいや、そもそもあなたみたいに大きくて強そうな相手に、小娘の私が倒せる訳がないじゃない! 何をおかしなこと言ってるのよ」
「普通の人間なら俺の姿を見た瞬間、蔑むような目や飢えた獣のような目をして我が種族を根絶やしにしようとするだろう。だが、お前は見たところ人間のようだが、人間ではないのか?」
「人間ですぅ。ちゃんと人間です。全ての人間が残虐非道だとは限らないでしょ。私は虫1匹殺したこともないのに……」
「何だと! 虫1匹も殺したことがない? 嘘をつくな!!」
茉弥は自分が暴力的な人間じゃないと伝えようとしただけだったが、目の前の青い生物の怒りを買ってしまったようだ。
「ごめんなさい! でも、本当なの! 信じてよ。私は殺されたくないだけなの。確かに、あなたの見た目は人間と全く違うし、体も大きく強そうだから怖いけど、きっと話せば分かり合えると思うの! 殺さないでぇ~! ひゃ~!!」




