4 図書の秘密
昨日の、あの廊下での出来事が、アリアの脳裏に焼き付いて離れなかった。
ゼフィルス教官のゼミを終え、ほのかな安らぎと充実感を胸に教室を出た、まさにその瞬間。
鉢合わせになったリアム・アークライトが、自分の持っていた『古代ルーン文字入門』の教科書に向けた、あの視線。
(……怖かった)
アリアは、寮のベッドの上で膝を抱えながら、ブルッと身を震わせた。
嘲笑でも、侮蔑でもなかった。
あれは、獲物をロックオンしたもうきんのような、あるいは、許されざる禁忌を目撃してしまったかのような、底知れないほど冷たく、深い「疑念」の眼差しだった。
(なんで……? なんで、あんな目で……?)
彼は、A組の誰もが馬鹿にした、あの地味な教科書の、一体何に反応したというのだろう。
アリアは、恐ろしくてたまらなかった。
リアム・アークライトという存在そのものが、アリアにとって最大の脅威になりつつあった。彼は、アリアが必死で築こうとしている「地味で平穏な学園生活」を、その存在一つで粉々に打ち砕いてしまう。
「……フン。たかが小僧の視線一つに、みっともないぞアリア」
鞄から這い出したクロノが、アリアの毛布の上でふてぶてしく毛繕いを始めた。
「わしに言わせれば、あの『芽吹き』のルーンを表紙に使うゼフィルスとかいう男も、あの『原論』を知るアークライトの小僧も、どちらも面倒くさいことこの上ないわ」
「クロノは、何か知ってるの……? あの教科書の、何がおかしいの?」
「おかしいのは、お前の頭だ。わしは眠い」
クロノはそれだけ言うと、アリアの問いかけを無視して丸くなってしまった。
(うう……)
アリアは再び膝に顔を埋めた。
ゼフィルス教官の「古代ルーン文字学」ゼミ。
あそこは、間違いなく天国だった。変人だが優しい教官。地味だが穏やかな二人のクラスメイト。カビ臭くて、静かで、埃っぽくて、誰も戦闘の話をしない、完璧な安息の地。
でも、そのゼミは週に一度しかない。
(だめだ……。それ以外の、週六日間が地獄すぎる)
特に、ギデオン教官の必修実技訓練。あそこでは、私は「魔力Gのくせに砂嵐を起こす問題児」として、常に監視の目に晒される。
A組の教室は、リゼットの嘲笑と、カインの(悪気のない)好奇の目、そしてリアムの冷徹な監視の目に晒される処刑場だ。
(もっと……もっと、静かな場所が欲しい)
一日のうち、もっと長い時間、合法的に「一人」になれる場所。
注目を浴びず、息を潜めていられる場所。
アリアは、必死で頭を巡らせた。
(……そうだ)
一つの可能性が、天啓のように閃いた。
(図書館……!)
王立マグノリア魔法学園の図書館は、王宮の書庫に匹敵すると言われる、大陸有数の知の殿堂だ。
その建物は、教室棟とは別に、まるでそれ自体が一つの砦であるかのように、広大な敷地の奥に鎮座している。
あそこなら。
あそこなら、広大で、静かで、本の影に隠れていれば、誰も私のことなど気にしないはずだ。
(でも、ただ入り浸っているだけじゃ、不自然かもしれない)
どうせなら、もっと完璧な隠れみのが欲しい。
アリアは、寮の掲示板に貼ってあった「各委員会・部活動募集」の張り紙を思い出した。
『図書委員、常時募集中。体力と根気のある者、歓迎。埃アレルギーでない者、尚良し』
(——これだ!)
アリアの目が輝いた。
「体力」「根気」「埃」。
そのどれもが、華やかなA組の生徒たちが最も敬遠する単語だ。
これこそ、アリアが求めていた「地味で目立たず、感謝もされないが、図書館に合法的に居座れる」完璧な役職に違いなかった。
翌日の放課後。
アリアは、必修の実技訓練(今日は幸い、ギデオン教官に「ローゼン! 貴様は隅で見ておけ! 邪魔だ!」と命じられ、見学だけで済んだ)を終えると、一目散に図書館棟へ向かった。
(大きい……)
本館の、天井まで吹き抜けになったエントランスホールに、アリアは圧倒された。
何百万冊あるのか見当もつかない本が、壁一面に、まるで知性の地層のように積み重なっている。
空気はひんやりと冷たく、聞こえるのは衣擦れの音と、ページをめくる微かな音だけ。
(……落ち着く)
A組の教室とは、まるで別世界だった。
アリアは、カウンターに座っていた初老の司書に、恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……! 図書委員の、募集を見て……」
「ん……?」
司書——ジョゼフと名札にある男性は、分厚い眼鏡の奥から、ゆっくりとアリアを見た。
「図書委員……。ほう。一年生、かね。……A組の、アリア・ローゼン君か」
身分証を見たジョゼフが、少しだけ目を見開いた。
(やっぱり……。A組の生徒が来ること自体が、珍しいんだ)
アリアは、また何か間違えたかと身を縮ませた。
「……フム。A組の生徒が委員になると、書庫への立ち入り権限の申請が通りやすくて助かる。歓迎しよう、ローゼン君」
「は、はい! ありがとうございます!」
「ただし」
ジョゼフは、人差し指を立てた。
「図書委員の仕事は、君たちが想像するような、優雅なものではない。大半は、力仕事と、地味な修復作業だ。特に、君の最初の仕事は……第二書庫(古文書館)の『修復室』での作業だ。……構わんかね?」
(地味な、修復作業……)
アリアにとって、それは「歓迎する」という意味だった。
「は、はい! 頑張ります!」
「よろしい」
ジョゼフに連れられて、アリアは図書館の奥へ、さらに奥へと進んだ。
利用者のいる華やかな閲覧室を抜け、関係者以外立ち入り禁止の重い扉をいくつも抜ける。
たどり着いたのは、第二書庫(古文書館)——奇しくも、ゼフィルス教官のゼミ室がある建物だったが、そのさらに地下だった。
「ここだ。『古文書修復室』」
開かれた扉の先は、アリアがゼミ室で感じたよりも、さらに濃密な、古い紙とインク、そしてカビの匂いが満ちていた。
(完璧……!)
アリアは、この薄暗く、誰も来ないであろう地下室に、新たな安息の地を見出し、歓喜に打ち震えた。
「先に、もう一人の委員が来ているはずだ。彼と二人一組で、作業を進めてもらう」
「え……?」
(もう一人……?)
アリアの期待が、一瞬で凍りついた。
ジョゼフに促されるまま、恐る恐る部屋の中に入る。
部屋は、窓がなく、壁一面が薬品棚と修復器具で埋め尽くされていた。
中央の大きな作業机に、一人の生徒が背を向けて座っていた。
プラチナブロンドの髪。寸分の乱れもない、黒い制服の背中。
彼は、アリアの気配に気づき、ゆっくりと振り返った。
「…………」
「…………」
その空色の瞳が、アリアを捉えた。
リアム・アークライトだった。
「あ」
「……君か」
アリアは、声にならない悲鳴を上げた。
(なんで!? どうして!? どうしてこの人が、こんな地味で、埃っぽい、地下室の図書委員なんかに!?)
ありえない。
A組のトップエリート。公爵家の嫡男。新入生代表。
彼がいるべき場所は、生徒会の執行部か、高等魔術の研究室のはずだ。
こんな、カビ臭い地下室であるはずがない。
リアムの表情も、驚きに染まっていた。
だが、その驚きは一瞬で消え、すぐに、昨日と同じ、あの冷徹な「疑念」の眼差しに変わった。
(……この女)
リアムの内心は、激しく揺れ動いていた。
(昨日、あれほど疑わしい『ルーン文字』の本を持っていた。そして今日、そのゼミ室があるのと同じ第二書庫(古文書館)の、地下の修復室に、図書委員として現れた……?)
偶然か?
偶然にしては、出来すぎている。
(まさか……この修復室に、あるいは、この書庫のどこかに、『原論』の手がかりがあると知って……? あのゼフィルスとかいう男に、送り込まれたのか?)
「おお、ミスター・アークライト。ちょうどよかった」
二人の間の凍りついた空気に気づかないまま、老司書のジョゼフが、手元の指示書を読み上げた。
「こちら、本日付で図書委員になった、アリア・ローゼン君だ。君の新しいパートナーだ」
「…………」
リアムは、無言でアリアを一瞥しただけだった。
アリアは、死刑宣告を受けたかのように顔面蒼白になっていた。
(パートナー……? この人と、二人きりで……? この、密室で……!?)
「さて、二人の今日の仕事だが……」
ジョゼフは、部屋の隅に積まれた、木箱を指差した。
「17世紀の『王室薬剤日誌』だ。非常に貴重なものだが、湿気で劣化が激しい。これを、これ以上傷つけずに修復・保存処理する」
「……!」
「ミスター・アークライト。君は、その優秀な『結界』魔術で、劣化を防ぐ『保存結界』を一枚ずつ施してくれたまえ」
「承知いたしました」
リアムが、静かに頷く。
「そして、アリア・ローゼン。君の仕事は、その結界を施す前段階だ」
「は、はい……」
「これらの古文書は、物理的に触れることが禁じられている。手で払おうものなら、ページごと崩れ落ちるだろう。そこで、君には『風』魔術を使ってもらう」
(風……!)
「ページに一切触れず、風圧もかけず、埃とカビの胞子『だけ』を、完璧に取り除きたまえ。……君、A組だったな。できるかね?」
アリアは、その指示に、めまいがした。
(できるか、じゃない……)
できる。
できるどころか、それは、アリアが故郷の村で、父の集めた繊細な薬草が崩れないよう、毎日やっていたことそのものだった。
『風使いの楽しい家庭菜園』に書かれていた、「葉を揺らさず、アブラムシだけを吹き飛ばす」技術の、完全な応用だ。
だが。
(それを、この人の前で……!?)
アリアは、絶望的な気分でリアムを盗み見た。
彼は、すでに作業台につき、アリアを待っている。
(昨日、砂嵐を起こした「魔力G」の私が、そんな神業みたいな精密制御をしたら……)
(……また、疑われる)
(いや、もうすでに疑われてる! どうしたらいいの!?)
「アリア・ローゼン? やらんかね?」
「は、はいっ! や、やります!」
アリアは、半泣きで作業台についた。
目の前には、開かれた古文書。
ページは黄ばみ、端はボロボロに崩れかけている。その表面には、白いカビの胞子がうっすらと積もっていた。
「……」
「……」
地下室に、息苦しい沈黙が満ちる。
アリアは、震える手で杖(ただの木の棒)を構えた。
(どうしよう。どうしよう)
鞄の中で、クロノが動く気配がした。
『——やれ、アリア』
クロノの思念伝達が、アリアの頭に直接響く。
(でも、リアムさんが……!)
『馬鹿者! ここで「できません」と泣き喚く方が、よほど不審だ! 貴様は「魔力G」だが、実技がまるでダメな「座学特待生(とクロノが申請しておいた)」ということになっておる。だが、この作業は『戦闘』ではない。ただの『作業』だ!』
クロノの理屈に、アリアは必死で食らいついた。
(そうだ……。これは、戦闘じゃない。お掃除。お掃除だ)
『いいか、アリア。魔力は抑えろ。昨日までの「G」評価のままだ。だが、「制御」だけは寸分の狂いもなくやれ。「家庭菜園」の、あの「花粉を運ぶ」要領だ。あの公爵家の小僧に、お前の「異常な精密さ」だけを、しかと見せつけてやれ』
(えええ!? それ、一番ダメなやつじゃ!?)
『いいからやれ! 疑われているなら、さらに疑わせて混乱させるのだ!』
クロノの無茶苦茶な理論に、アリアは泣きたくなったが、もう後には引けなかった。
アリアは、深く、深く、息を吸った。
目を閉じ、意識を集中させる。
(イメージは……『家庭菜園』。ミランダ・ポポロさんの教え)
(葉を揺らさず、アブラムシだけを。「ぽすん」と置く、あの感覚の、逆)
アリアは、目を開けた。
杖先から、魔力を放出する。
リアムが、その魔力の流れを鋭く監視しているのが、肌で分かった。
アリアが放った魔力は、総量としては、間違いなく「G」評価に相応しい、微弱なものだった。
だが、その魔力が描く軌道は、常軌を逸していた。
アリアは、その微弱な魔力を、無数の、目に見えないほど細い「風の糸」に分割した。
そして、その風の糸が、まるで精密なピンセットのように、古文書のページ表面を撫でていく。
黄ばんだ紙には、一切触れない。
崩れかけたインクにも、一切触れない。
ただ、その表面に付着した「カビの胞子」と「埃の粒子」『だけ』を、一粒ずつ、一粒ずつ、吸着するように絡め取っていく。
それは、もはや「魔術」ではなかった。
神業だった。
「魔力G」の生徒ができることでは、断じてない。いや、「魔力S」のリアム本人にだって、こんな芸当は不可能だった。
風の魔力を、ここまで微細に、精密に分割して操作するなど——
アリアは、集中していた。
(大丈夫。できてる。村で、お父さんの大事な『月光花』の花粉を採集する時と同じ)
彼女は、この異常な作業を、故郷で日常的に行っていたのだ。
数分後。
アリアの額に、玉の汗が浮かぶ。
(……できた)
「……お、終わりました」
アリアが顔を上げると、目の前の古文書は、まるで新品のように、しかしその古色蒼然とした風合いは一切損なわずに、完璧に浄化されていた。
「…………」
リアムは、無言だった。
彼は、アリアの顔と、完璧に清められた古文書とを、信じられないものを見る目で、交互に見つめていた。
その空色の瞳は、昨日までの「疑念」を超え、もはや「せんりつ」に近い色を浮かべていた。
(なんだ……? 今のは)
(魔力量は、確かに「G」だった。だが、あの制御は……)
(昨日、実技訓練で砂嵐を起こした「制御不能」の生徒と、今、目の前で神業を披露した生徒が、同一人物……?)
(……違う。昨日のアレは、「制御不能」だったのではない。「制御」した上で、わざと威力を隠し、砂嵐に『見せかけた』んだ)
昨日抱いた最悪の仮説が、今、リアムの中で「確信」に変わった。
この女、アリア・ローゼンは——「G」などではない。
その魔力量は不明だが、少なくとも、その「魔力制御」だけは、学園長クラス、あるいは、それ以上だ。
(そして、その女が、あの『禁書』のルーンが描かれた教科書を持ち、この古文書館に現れた……)
リアムは、事態の深刻さに、背筋が凍る思いだった。
「……あ、あの……」
アリアは、何も言わずに自分を凝視するリアムの視線に耐えきれず、涙目になっていた。
(やっぱり、怒ってる! きっと、魔力Gのくせに生意気な魔術を使ったからだ! どうしよう、謝らないと……!)
「ご、ごめんなさい! で、出しゃばった真似を……!」
「……」
リアムは、アリアの謝罪を無視した。
彼は、ゆっくりと古文書に手をかざし、詠唱を始める。
「《保存結界》」
リアムの手から放たれた白銀の光が、古文書を薄い膜でコーティングしていく。
「……次を」
リアムは、アリアの目を見ずに、冷たく言った。
「は、はいっ!」
その日から、アリア・ローゼンの地獄の(そして唯一の)放課後が始まった。
週に一度の「古代ルーン文字学」という安息の地。
そして、週に数回の、「リアム・アークライトとの、沈黙の古文書修復作業」という、息の詰まる密室での共同作業。
アリアは、自分の求めていた「平穏」とは似ても似つかない、新たな「緊張」の中に、否応なく放り込まれることになった。
その日の作業が終わり、アリアが修復室から逃げるように飛び出そうとした、その時。
「ローゼン」
リアムに、背後から呼び止められた。
「ひゃいっ!?」
アリアは、カエルが潰れたような悲鳴を上げた。
リアムは、アリアの方に向き直ると、その空色の瞳で、真っ直ぐにアリアを射抜いた。
その目は、もはや昨日までの冷たさではなく、何かを必死に問い詰めようとする、焦りのような色すら帯びていた。
「君が履修している『古代ルーン文字学』。その教科書だ」
「は、はいっ!」
「ゼフィルス教官は、君に、あの表紙のルーンについて、何か言っていたか」
「え……? あ、あの……ええと……」
アリアは、必死で記憶をたどった。
(ゼフィルス先生が、言ってたこと……)
「『芽吹き』とか、『成長』とか……。あ! あと、『風使いの楽しい家庭菜園』の、『花粉を運ぶ』のに、考え方が似てるって……!」
アリアが、ありのままの事実を告げた瞬間。
リアムの表情が、わずかに、しかし確実に険しくなった。
(……『家庭菜園』、だと?)
リアムは、言葉を失った。
アークライト家の禁書が記す、あの「無限再生」と「生命力吸収」の、恐るべき概念魔術の基礎を。
あの変人教官は、「家庭菜園」と「花粉」だと、この無知な(あるいは、無知を装っている)少女に教えているというのか。
(……やはり、まともではない)
リアムは、確信した。
このアリア・ローゼンという生徒は、無知なまま、とんでもなく危険な魔術の領域に、ゼフィルスという男によって足を踏み入れさせられている。
(そして、本人は、その『異常な制御力』を、自覚していないフリをしている……?)
「……アークライト、さん……?」
アリアは、急に黙り込んでしまったリアムの顔を、恐る恐る見上げた。
「……ローゼン」
リアムは、低い声で言った。
「そのゼミは、危険だ」
「え……?」
「君が何を考えているかは知らない。だが、ゼフィルス教官の『研究』は、学生が足を踏み入れていい領域ではない。……君は、とんでもないことに巻き込まれている自覚があるのか?」
「え……えええええ!?」
アリアは、心の底から叫んだ。
(危険!?)
(巻き込まれてる!?)
(あの、ほのぼのとした『家庭菜園』と『ルーン文字』のゼミが!?)
(一番、安全な場所だと思ってたのに!?)
アリアが何かを言い返す前に、リアムは「……忠告はした」とだけ言い残し、アリアを置いて修復室を出て行ってしまった。
一人、薄暗い地下室に取り残されたアリアは、ただただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
(どういう、こと……?)
やっと見つけた二つの安息の地。
「ルーン文字ゼミ」は、なぜかリアムに「危険」だと断言された。
「図書委員」は、そのリアム本人との、地獄のような二人きりの作業場所になってしまった。
(私の居場所は……。私の平穏は……)
アリアは、暗い地下室で、泣きそうになりながら、自分の抱えた教科書を、ただ固く、固く抱きしめた。




