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風読みの魔女は静かに過ごしたい  作者: おおりく
1-1章 望まぬ入学式

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3 安息の地(サンクチュアリ)を求めて

実技訓練場での砂嵐騒動。

あの一件が、アリア・ローゼンの学園内での立場を、決定的なものにしてしまった。


「——ローゼン! 貴様ぁっ!!」


砂埃すなぼこりの向こうから聞こえたギデオン教官の怒声は、アリアの耳にこびりついて離れなかった。

訓練は、あの場で即刻中止。

アリアは、熊のような巨体のギデオン教官に訓練場の隅まで引きずられ、A組の全員が注目する中、情け容赦ない叱責しっせきを浴びせられた。


「魔力G(微弱)の貴様が、制御もできん魔術を暴発させるとは! 危険極まりない! 邪魔どころか害悪だ! 足手まとい以下だ!」


アリアは、降り注ぐ罵声ばせいの嵐の中、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい」と、蚊の鳴くような声で繰り返すことしかできなかった。

顔を上げることができなかった。

リゼット・オルレアンの「信じられない。A組の恥だわ」という嘲笑あざわらう声が聞こえた。カイン・ベルフォードの「おいおい、大丈夫かよ……」という同情とも呆れともつかない声が聞こえた。

そして、何よりも恐ろしかったのは——リアム・アークライトの「沈黙」だった。


彼は、砂埃を浴びた制服を無言で払いながら、ただじっと、冷たい空色の瞳でアリアを見つめていた。

その目には、怒りも、嘲笑もなかった。

そこにあったのは、冷徹なまでの「分析」と「疑念」。

(なぜ、魔力Gのお前が、あのタイミングで、あれほどの風量を? なぜ、術式をわざわざ解除した?)

彼の瞳は、そう問いかけていた。


アリアは、その射抜くような視線に、心臓が凍りつくのを感じた。


訓練が終わり、教室棟に戻る道すがらも、アリアは地獄のようだった。 A組の生徒たちは、アリアを疫病神のように避け、遠巻きにしてヒソヒソと噂話をしている。 「あれが特待生とか、学園の選考基準どうなってるんだ?」 「リアム様に砂をかけるなんて、万死に値するわ」 「猫だけはすごかったのにな」


痛い。痛い。痛い。

視線が、声が、無数の針となって全身に突き刺さる。

アリアは、フードを深く、深く被り、自分のつま先だけを見つめて歩いた。


寮の自室に転がり込み、鍵をかけた瞬間、アリアはその場に崩れ落ちた。 「……う、うわあああああん……」 声を殺した嗚咽が、喉から漏れ出た。 涙が、次から次へと溢れて止まらない。


「もうやだ! なんで! なんで私ばっかりこんな目に……!」

「騒々しいぞ、アリア。わしの昼寝の邪魔だ」

鞄から這い出したクロノが、ベッドの上で尊大にあくびをした。

「クロノのせいだよ! クロノが私をこんなところに連れてくるから!」

「フン。あれしきの砂埃で何を慌てておる。わしなど、昔は天候を操り……」

「そういう問題じゃない!」


アリアは枕に顔を埋めた。

もうだめだ。

もう、あの教室には行けない。

「魔力G(微弱)」、そして「実技訓練を妨害した問題児」。

私の居場所は、どこにもない。

(帰りたい……。村に帰りたい……。お父さん……)


翌朝。

アリアは、一睡もできなかったせいで血走った目で、重い足取りを引きずっていた。

(行きたくない。行きたくない。怖い。怖い)

しかし、クロノに「このままではお前の魔力が(ストレスで)暴発して寮が吹き飛ぶぞ」といつもの脅し文句で叩き出され、アリアは渋々、教室棟へと向かっていた。


寮の食堂での視線は、昨日よりもさらに冷たく、突き刺さるようだった。

メアリ・スミスだけが、「アリアちゃん、こっち!」と変わらない笑顔で手招きしてくれたのが、唯一の救いだった。

「……おはよう、メアリちゃん」

「おはよう。……昨日の訓練、大変だったね。ギデオン教官、ちょっと厳しすぎるよ」

「う、うん……」

メアリの優しさが、アリアのささくれだった心に染みた。


だが、A組の教室のドアは、昨日よりもさらに重く感じられた。

(行きたくない。怖い。怖い)

ドアの前で立ち尽くしていると、後ろから「邪魔だ」という冷たい声がした。

「ひゃっ!?」

アリアが飛び上がるように振り返ると、そこにはリアム・アークライトが、無表情で立っていた。


「あ、あ、ご、ごめんなさ……!」

「……」

リアムは、何も言わなかった。

ただ、その空色の瞳で、アリアの顔をじっと見つめた。

昨日、砂嵐の中で向けられた、あの「疑念」の目だ。


(な、なに……!?)

嘲笑されるよりも、怒鳴られるよりも、その静かな視線が、アリアには何倍も恐ろしかった。

彼は、昨日の「事故」が、ただの事故ではなかったことに気づいている。

(魔力Gの生徒が、なぜ、あのタイミングで、あれほどの風量を? なぜ、術式をわざわざ解除した?)

彼の瞳は、そう問いかけていた。


アリアは、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。

リアムは、数秒間アリアを観察した後、興味を失ったかのようにふいと視線を外し、アリアの横をすり抜けて教室に入っていった。

取り残されたアリアは、その場でしばらく呼吸を整えなければならなかった。


教室に入ると、案の定、空気が一変した。

カイン・ベルフォードが「お、ローゼン! 生きてたか! 昨日の砂嵐、目が痛かったぜ!」と快活に笑いかけたが、アリアには「ごめんなさい」と力なく返すことしかできなかった。

リゼットは、リアムに冷たくあしらわれた(ように彼女には見えた)ことで、ますますアリアへの敵意を募らせ、忌々しげに舌打ちをしている。


アリアは、自分の席——教室の隅の避難所——にたどり着くと、机に突っ伏した。

もう限界だった。

(帰りたい。帰りたい。帰りたい。村に帰りたい)


その日の午前中は、座学だった。

魔法史担当の温和な老婦人、マチルダ教官の授業は、アリアにとって唯一息がつける時間だった。(クロノに叩き込まれていたため、内容はすべて知っていたが)

だが、その平穏も長くは続かなかった。


午後のホームルーム。

担任のイライザ教官が、ふんわりとした笑顔で教壇に立った。

「はーい、みなさん、席に着いてくださいね。今日は、皆さんの学園生活を左右する、とっても大事なお知らせがあります」


教官が黒板に、大きな文字を書き出した。


【1年生 選択基礎ゼミナール 登録について】


「皆さんには、ギデオン先生の実技訓練のような『必修科目』とは別に、ご自身の興味や適性に合わせて、週に一度の『選択ゼミ』を一つ、履修してもらいます」


教室が、ざわめいた。 「やっぱ高等結界術だよな」「私は魔法薬学かな」 アリアは、その言葉に、かろうじて顔を上げた。 (選択……ゼミ?)


イライザ教官が、パンフレットを配り始める。

「これは、皆さんの将来の専門分野への『入門』となる、大事なゼミです。A組の皆さんには、主にこちらのクラスが推奨されていますよ」

黒板に、いくつかのゼミ名が書き出されていく。


『高等結界術 基礎』


(担当:ギデオン・ブレイブ)


(推奨:リアム・アークライト他、防御系魔術師希望者)


『元素戦闘戦略 基礎』


(担当:ギデオン・ブレイブ)


(推奨:カイン・ベルフォード、リゼット・オルレアン他、戦闘系魔術師希望者)


『高等魔法薬学 基礎』


(担当:アルベール・デュポン)


(推奨:魔道具師、宮廷薬師希望者)


『精霊学概論』


(担当:マチルダ・カウフマン)


(推奨:魔力制御、補助系魔術師希望者)


アリアは、そのリストを血の気のない顔で見つめた。

(どれも、嫌だ……)

絶望。昨日までの絶望が、可愛く思えるほどの、選択肢のない絶望。

『戦闘』? 論外だ。目立ちすぎる。

『結界術』? あのリアム・アークライトがいる。しかも担当はあの鬼教官ギデオンだ。絶対に無理。

『魔法薬学』? 村でやっていたことには近い。だが、「高等」とついている。きっと、貴族だらけのエリートたちが、高度な魔術理論を戦わせるに違いない。魔力Gの自分が行けば、昨日の二の舞だ。

『精霊学』? 響きは綺麗だが、隣でメアリが「これ、人気みたいだよ。私もこれにしようかな」と囁いた。

(人気……!)

その単語を聞いただけで、アリアは拒絶反応を起こした。人気があるということは、人が多いということだ。それもダメだ。


(どうしよう……。どこにも、私の居場所がない……)

アリアは、パンフレットの隅の隅に、小さな文字で書かれた「その他の選択ゼミ」のリストを見た。

そこには、A組の生徒が選ぶことなど想定されていないような、地味で、不人気なゼミ名が並んでいた。


『魔法建築力学 入門』


『魔獣生態学(飼育補助)』


『王政魔法史(古代文献)』


『古代ルーン文字学こだいルーンもじがく


(……これだ)

アリアの目が、その一行に釘付けになった。

『古代ルーン文字学』。

名前からして、地味だ。退屈そうだ。何より、戦闘とはかけ離れている。

これなら、きっと、誰も選ばない。


「あの!」

アリアは、自分が思っていたよりも大きな声が出たことに驚きながら、おそるおそる手を挙げた。

教室中の視線が、また集まる。


「は、はい、ローゼンさん。どうしました?」

「あ、あの……! 『古代ルーン文字学』を、選びたい、です……」

「……え?」

イライザ教官は、きょとんとした顔をした。

「古代ルーン文字学、ですか? ああ、ええと……もちろん、選択は自由ですけれど……あれは、その、非常に地味な、研究職志望の、その……」


その反応で、アリアは確信した。

(間違いない。これだ!)

リゼットが「ぷっ。ルーンですって。魔力Gのあなたに、古代の文字が読めるとでも? お似合いの地味さですわね」と嘲笑したのが聞こえたが、今のリアリアには、それすらも「褒め言葉」に聞こえた。

地味、最高。


「ローゼンさん、本当にそれでいいの?」メアリが心配そうに聞いてくる。

「うん。私、昔から、古い文字とか……好き、だから」

もちろん、真っ赤な嘘だった。


その日の午後。

選択ゼミの、第一回目のお試し授業が始まった。

アリアは、意気揚々と(彼女にしては、だが)教室棟の、さらに奥にある、薄暗い「第二図書館(古文書館)」へと向かっていた。

「古代ルーン文字学」の教室は、その一番奥の、埃っぽい一室だった。


(完璧……!)

アリアは、そのカビと古い紙の匂いに、心の底から安堵した。

こんな場所に来たがる生徒など、いるはずがない。

きっと、私一人だ。

そしたら、先生に「生徒が一人なので、今年度は休講です」と言われ、アリアは「自習」という名の「引きこもり」を許可されるかもしれない。


アリアは、そんな淡い期待を胸に、教室のドアをそっと開けた。


「…………おや」


教室の中には、すでに一人の先客がいた。

それは、教師らしき男だった。

年の頃は三十代だろうか。くしゃくしゃの癖毛は寝起きのままで、ローブはあちこちが擦り切れ、鼻の頭には丸い眼鏡がずり落ちかけていた。

彼は、山積みの古文書に埋もれるようにして座り込み、なんと、片手に持ったサンドイッチを頬張りながら、もう片方の手で分厚い本を熱心に読みふけっていた。


アリアの存在に気づくと、男は心底驚いたように目を丸くした。


「おや。生徒がいたのか。珍しい。今日は休講だと伝令が行かなかったかね?」

「えっ」

アリアの期待が、一瞬で最高潮に達する。

「きゅ、休講、ですか!?」

「うん。まあ、ここ数年、履修希望者がゼロだったからね。今年もそうだと思って、さっき学務課に休講届を出してきたところだ。……おや? 君、もしかして、履修希望者かね?」


「は、はい! 希望します! アリア・ローゼンです!」

アリアは、入学以来、初めてと言っていいほど大きな声で、前のめりに答えた。

(お願い! 私のために開講して!)


男——古代ルーン文字学担当、ゼフィルス・ロイド教官は、サンドイッチを咀嚼しながら、うーん、と唸った。 「一人か……。一人ねえ……。正直、面倒くさい……いや、一人のために教室を開けるのは、効率がねえ」 「そ、そんな……!」


アリアが絶望しかけた、その時。

ガラッ、と教室のドアが開き、さらに二人の生徒が入ってきた。

一人は、A組のクラスメイト、ノア・パーカー。無口で、いつも一人で本を読んでいる、影の薄い男子生徒だった。

もう一人は、エミリー・ハワード。同じくA組の、おとなしい読書家の少女だ。

二人とも、アリアと同じように、A組の派手な空気に馴染めずにいた生徒たちだった。


三人は、互いの顔を見合わせ、気まずそうに会釈した。

ゼフィルス教官は、サンドイッチを飲み込むと、パチパチと目を瞬かせた。


「……三人? ……A組から、三人も? あのギデオンのシゴキから逃げてきたクチかね?」

図星を突かれ、アリアたちはビクッと肩を震わせる。


ゼフィルス教官は、面倒くさそうに頭を掻きながら立ち上がった。

「まあ、いい。三人いるなら、規定上、開講しないわけにもいかないか。……あー、僕はゼフィルス・ロイド。よろしく。授業といっても、僕もこの文字は読めないから、教えることは特にない」

「「「えっ」」」

三人の声が、綺麗にハモった。


「嘘だろ……」ノアが、初めて声を発した。

「じゃあ、何を……?」エミリーがおずおずと尋ねる。

ゼフィルス教官は、教室の隅に積まれた、埃だらけの石版レプリカを指差した。


「これ。古代の落書き。なんか面白い模様があったら、スケッチでもして、適当にレポートにまとめてくれたまえ。僕は、ちょっと大事な研究の続きがあるから」

「研究……?」

「うむ。これだ」


ゼフィルス教官が、机の上の本を、誇らしげに叩いた。

その表紙を見た瞬間、アリアの心臓が、今度は別の意味で跳ね上がった。


『風使いの楽しい家庭菜園』


$$風使いの楽しい家庭菜園というタイトルの、ほのぼのとしたイラストが描かれた園芸書$$


「……あ」

アリアは、思わず声を漏らした。

ゼフィルス教官は、アリアの反応に、眼鏡の奥の目をキラリと光らせた。


「おや? 君、もしかして……」

「あ、あの! その本、私も……! 故郷で、読みました!」

「なにぃ!?」


ゼフィルス教官は、アリアの肩を掴み、興奮した様子で詰め寄った。

「君も、ミランダ・ポポロの同志かね!? 素晴らしい! なんて素晴らしいんだ! あの本の第4章、『花粉さんを運んであげよう』の『ぽすん』と置く感覚! あれがどれほど奥深く、風魔術の真髄を突いているか! 君、分かるかね!?」

「わ、わかります! あの、『ぽすん』の加減がすごく難しくて、いつも勢い余って雌しべを通り過ぎちゃったり……」

「そう! そうなんだよ! 分かってくれるか! あれは風の魔力を分子レベルで制御しろと言っているに等しい! この学園の誰に聞いても『ただの園芸書だ』と馬鹿にするが、君は違う! 君は本物だ!」


アリアとゼフィルス教官は、その場で、一般生徒には到底理解できない、高度な(しかし内容は家庭菜園の)魔術論議で盛り上がり始めた。

ノアとエミリーは、その光景を「なんだこいつら」という目で見ている。


アリアは、夢中だった。

自分が、人前で、こんなに饒舌じょうぜつに話している。

しかも、相手は「変人」だが、自分と同じものを「好き」な、教官だ。

怖い、と思っていた学園で、初めて見つけた「仲間」だった。


十分ほど興奮して語り合った後、ゼフィルス教官は「ふぅ」と満足げに息をついた。

「……よし。君、気に入った。合格だ。このゼミは、君たちの安息のサンクチュアリとしよう。僕は研究ミランダ・ポポロの続きをする。君たちは、あの石版でも眺めて、静かに自習していてくれたまえ」


それは、アリアが求めていた、最高の申し出だった。

アリアは、ノアとエミリーと共に、埃っぽい石版の前に座った。

そこには、ミミズが這ったような、不思議な模様が刻まれていた。


アリアは、その文字を、指でそっと撫でてみた。

それは、ただの落書きのはずだった。

だが、指先に、微かな魔力の温かみが伝わってくる。

(……?)

それは、故郷の森で、古い大樹に触れた時の感覚に似ていた。

懐かしい。

不思議と、心が安らぐ。


アリアは、その文字が「読める」とは気づかなかった。

ただ、その文字の形が、意味もわからないのに、ひどく「しっくりくる」と感じていた。

(「育む」……「芽吹き」……「守る」……)

頭の中に、単語が断片的に浮かんでくる。


(……なんだろう、ここ。すごく、落ち着く)


外の教室からは、ギデオン教官の怒声や、『元素戦闘戦略』の派手な爆発音が微かに聞こえてくる。

だが、この第二図書館の埃っぽい一室は、まるで分厚い結界で守られているかのように、静かで、平和だった。


鞄の中では、クロノが「フン。退屈極まりないゼミだ。……だが、昼寝には最適かもしれん」と呟き、丸くなる気配がした。

アリアは、学園に来て初めて、心の底から「息が吸える」場所を見つけ、小さく、小さく微笑んだ。


平穏な時間は、あっという間に過ぎ去った。

ゼミ終了のチャイムが鳴り、アリアは名残惜しそうに立ち上がる。

「では、また次回。同志アリア君」

「は、はい! よろしくお願いします、先生!」


アリアは、教科書として渡された『古代ルーン文字入門』を胸に抱き、晴れやかな気分で教室を出た。

——その直後。

角を曲がったところで、アリアは、戦闘訓練を終えたらしい集団と鉢合わせになった。


「うわっ!」

「おっと」


ぶつかりそうになったのは、カイン・ベルフォードだった。彼の後ろには、リゼットと、そしてリアム・アークライトがいた。

彼らは皆、激しい訓練の後らしく、土と汗にまみれていた。


「お、ローゼン! まだいたのか! 生きてたか! お前の授業、もう終わったのか?」

カインが屈託なく笑う。

リゼットが、アリアの持っている教科書を見て、また鼻を鳴らした。

「フン。そんな埃っぽい本を読んで、楽しいのかしら。こっちはリアム様と、高等結界術の高度な連携戦闘の訓練でしたのよ。あなたには一生縁のない世界ですわね」


アリアの心は、先ほどまでの平穏が嘘のように、再び冷たい水に浸された。

(……そうだ。ここが、私の居場所じゃない)

安息の地を見つけたと思ったのに、一歩外に出れば、そこはやはり「戦場」だった。


アリアは、また俯き、小さく「ごめんなさい」と呟いて、彼らの横をすり抜けようとした。

その時。


「……」


リアムが、何も言わずに、アリアの持っている教科書に視線を落とした。

その空色の瞳が、本の表紙に刻まれた、一つの「ルーン文字」で、ピタリと止まった。


$$古代のルーン文字「芽吹き」のシンボル$$


それは、アリアが先ほど石版で見て「懐かしい」と感じた、「芽吹き」を意味する文字だった。


リアムは、その文字を、まるで信じられないものでも見るかのように見つめ、そして、ゆっくりとアリアの顔に視線を移した。

その目には、昨日と同じ「疑念」が、しかし昨日よりも遥かに深く、暗い色を帯びて浮かんでいた。


(なぜ、魔力G(微弱)のお前が、その本を?)

(そのルーンは……なぜ、アークライト公爵家の禁書庫に眠る『古代結界術式・原論』の基礎ルーンが、1年生の教科書の表紙に描かれているんだ……?)


リアムの無言の問いに、アリアは気づかない。

彼女はただ、その射抜くような視線の恐ろしさに耐えきれず、本を胸に抱きしめ、脱兎のごとくその場から逃げ出した。

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