17 その手を離さない
白い天井。
消毒液と、微かな薬草の香り。
遠くで聞こえる、誰かの話し声。
アリア・ローゼンの意識は、深い泥の底から浮上するように、ゆっくりと覚醒していった。
(……ここは?)
重い瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた寮の自室の天井ではなく、清潔すぎて無機質な白い天蓋だった。
体を動かそうとすると、全身が鉛のように重い。魔力欠乏による倦怠感だ。
「……気がついたか」
横から、低い声が聞こえた。
アリアが首を巡らせると、ベッドの脇のパイプ椅子に、リアム・アークライトが座っていた。
彼の姿もまた、満身創痍だった。
頬にはガーゼが貼られ、左腕は吊られている。自慢のプラチナブロンドの髪も少し乱れていたが、その瞳だけは、変わらず理知的な光を宿してアリアを見ていた。
「リアム、さん……」
アリアは、掠れた声で呼んだ。
「私……倒れて……」
「ああ。丸二日、眠り続けていたぞ」
「ふ、二日!?」
アリアは跳ね起きようとして、眩暈を起こして枕に沈んだ。
「無理をするな。君の魔力回路は、焼き切れる寸前だったんだ。ギデオン教官が背負って運んだ時など、軽すぎて幽霊かと思ったと言っていたぞ」
「うぅ……」
アリアは頭を押さえた。
記憶が戻ってくる。
温室での戦い。泥の巨人。乗っ取られたメアリ。そして、最後の一撃。
「メアリちゃん! メアリちゃんは!?」
アリアは、自分の体調など忘れて叫んだ。
リアムは、アリアの焦燥を鎮めるように、手で制した。
「静かに。……彼女なら、隣で寝ている」
リアムが指差した先。
カーテンで仕切られた隣のベッドで、メアリ・スミスが静かな寝息を立てていた。
顔色はまだ少し蒼白だが、あの時の不気味な黒い隈や、禍々しい気配は綺麗に消え去っている。
「よかった……」
アリアは、目頭が熱くなるのを感じた。
「本当によかった……」
「ああ。君が救ったんだ」
リアムは、静かに言った。
「あの光が、彼女の精神を蝕んでいた呪いを、根こそぎ焼き払った。……後遺症もないそうだ」
「……光」
アリアは、ハッとした。
そうだ。
私は、使ってしまった。
隠していたはずの、最大の秘密。
学園中が見上げるような、巨大な光の柱を。
「どうなったんですか……? あの後」
アリアは、恐る恐る尋ねた。
「先生たちに見られましたよね? 私の光……」
「ああ。ギデオン教官をはじめ、警備の魔術師たちが大勢駆けつけた。あの光を見逃すはずがない」
リアムは、淡々と言った。
「だから、言い訳をしておいた」
「言い訳?」
「『私が、アークライト家に伝わる使い捨ての最高級魔道具【聖女の涙】を使用した』とな」
アリアは、ぽかんと口を開けた。
「……はい?」
「アークライト家には、古代の聖女が残したとされる、一度だけ奇跡的な浄化の光を放つ魔道具がある……という伝説がある。まあ、実際にはそんなものはないのだが、父上の書斎にあった作り話を拝借した」
リアムは、悪びれもなく言った。
「私が、ヘレナの呪いに対抗するために、家の秘宝を持ち出して使った。その光があまりに強すぎて、温室を突き抜けた。……そういうことになっている」
「え、ええええ!?」
アリアは仰天した。
「そ、そんな嘘、バレますよ! だって、そんな凄い魔道具、勝手に持ち出したら……!」
「当然、大目玉だ」
リアムは肩をすくめた。
「父上からは『家の名を勝手に使うな』と雷が落ちたし、学園側からは『危険物の無断持ち込み』で始末書を書かされた。……だが、それだけだ」
リアムは、アリアの目を真っ直ぐに見つめた。
「君の『光』が露見するよりは、私が親の七光りでイキった馬鹿息子だと思われる方が、幾分マシだ」
「……っ」
アリアは、言葉を失った。
彼は、アリアを守るために。
アリアの秘密を隠し通すために、自分自身を泥被りにしたのだ。
アークライト公爵家の嫡男としての名誉を傷つけてまで。
「どうして……」
アリアの声が震えた。
「どうして、そこまで……」
「言ったはずだ」
リアムは、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「私は君の盾になると。……それに、共犯者というのは、こういう時に罪を被るものだろう?」
アリアは、涙がこぼれ落ちそうになるのを、ぐっと堪えた。
この人は、本当に不器用で、そして優しい騎士だ。
「ありがとうございます……。本当に……」
「礼には及ばん。……それに、完全に騙せているわけではない」
リアムの声が低くなった。
「ギデオン教官や、一部の鋭い教師たちは気づいているだろう。あの光が、魔道具のような無機質なものではなく、もっと純粋な『個人の魔力』であったことに」
「……はい」
「だが、公式見解として『アークライト家の魔道具』という説明が通った以上、彼らもそれ以上深く追求はできない。……学園長が、裏で手を回してくれたのも大きい」
「学園長が?」
その時。
病室のドアが、ノックもなしに開いた。
「——お目覚めかな、トラブルメーカー諸君」
入ってきたのは、ヴォルグ・マクシマス学園長その人だった。
そして、その肩には、ふてぶてしい態度の黒猫——クロノスが乗っている。
「学園長! クロノ!」
アリアが声を上げると、クロノスは「フン」と鼻を鳴らして、アリアのベッドに飛び乗った。
「生きておるな。しぶとい奴め」
「誰のせいだと……!」
ヴォルグ学園長は、リアムに軽く目配せをしてから、アリアに向き直った。
「アリア・ローゼン君。まずは、礼を言う。君のおかげで、最悪の事態は免れた」
「いえ、私は……」
「謙遜するな。君がいなければ、メアリ・スミス君は助からず、学園には呪いが蔓延していただろう。……君の行動は、賞賛に値する」
学園長の言葉は、厳格だが温かかった。
「そして、事後処理についてだが……。アークライト君の機転の利いた(そして無茶苦茶な)狂言のおかげで、表向きは収束した。君の『光』の件は、極秘事項として処理する」
アリアは、ほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます……」
「だが、油断はするな」
クロノスが、鋭い声で言った。
「今回の件で、敵はお前の存在を確信したはずだ。『光』を持つ者が、この学園にいるとな」
「敵……。ヘレナ、ですか?」
アリアが尋ねると、学園長は重々しく頷いた。
「ヘレナ・ブラックウッドは……捕らえられた」
「え?」
「君の放った光が、呪いのパスを逆流し、遠隔操作していた彼女の本体を直撃したのだ。……彼女は、王都の地下水路で、廃人同様の状態になっているところを、王宮騎士団によって発見された」
「廃人……」
アリアは、背筋が寒くなった。
自分の力が、人をそこまで追い詰めたのか。
「同情は無用だ」
クロノスが言った。
「あれは自業自得だ。古代の闇に手を出した代償よ。……だが、問題はヘレナではない。彼女を操っていた、さらに奥にいる『何か』だ」
「さらに奥……?」
「ヘレナの記憶は焼き切れていて、尋問は不可能だ。だが、彼女のアジトから見つかった資料には、気になる記述があった」
学園長は、声を潜めた。
「『原初の種』。『光の器』。『復活の儀式』……。アリア君、君の力は、単なる突然変異ではないのかもしれん。何か、もっと大きな運命の歯車の一部として……」
「脅かすな、ヴォルグ」
クロノスが、学園長の話を遮った。
「今は、体を治すことだけ考えさせろ。小難しい話は、元気になってからだ」
学園長は、師匠にたしなめられ、苦笑した。
「……そうですね。失敬した。とにかく、今はゆっくり休みなさい。……アークライト君も、付き添いご苦労だが、君も怪我人だ。自分のベッドに戻りたまえ」
「はい。失礼します」
学園長とリアムが出て行った後。
病室には、アリアとクロノ、そして眠り続けるメアリだけが残された。
アリアは、隣のベッドを見た。
メアリは、まだ目を覚まさない。
(メアリちゃん……)
アリアの胸に、不安が蘇る。
呪いは解けた。でも、彼女の心は?
あの時、ヘレナが暴いたメアリの本音。
『羨ましい』『妬ましい』。
あれは、紛れもない彼女の心の一部だったはずだ。
目を覚ました彼女と、私は、また今まで通りに笑い合えるのだろうか。
「……怖がっておるのか」
クロノが、アリアの心を見透かしたように言った。
「うん……。怖いよ」
アリアは、膝を抱えた。
「私、知らなかったの。メアリちゃんが、そんな風に思ってたなんて。私が、彼女を傷つけてたなんて……」
「人の心とは、そういうものだ」
クロノは、珍しく穏やかな声で言った。
「光があれば、影ができる。お前が輝けば輝くほど、近くにいる者の影は濃くなる。……それは、避けられぬ理だ」
「じゃあ、私は……誰とも仲良くしちゃいけないの? 離れた方がいいの?」
「馬鹿者」
クロノは、尻尾でアリアの額をぺちんと叩いた。
「影ができるからといって、光を消すのか? 違うだろう。影ごと受け入れる度量がなければ、光の主とは呼べん」
「影ごと……」
「あやつは、影を抱えながらも、お前の傍にいた。それは、影よりも強い『光』……すなわち、お前への好意があったからだ。その想いを、信じてやれ」
アリアは、クロノの言葉を反芻した。
信じる。
そうだ。リアムも言っていた。
『彼女の強さだ』と。
その時。
隣のベッドから、衣擦れの音がした。
「……ん……」
アリアは、弾かれたように顔を上げた。
メアリが、うっすらと目を開けていた。
「メアリちゃん!」
アリアは、ベッドから転がり落ちるようにして、メアリの元へ駆け寄った。
「わかる? 私だよ、アリアだよ!」
メアリの焦点が、ゆっくりと結ばれる。
「……アリア、ちゃん……?」
彼女の声は、掠れて弱々しかった。
「ここ……保健室……?」
「うん。そうだよ。……よかった、気がついて……!」
アリアは、メアリの手を握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
メアリは、しばらくぼんやりと天井を見つめていたが、やがて記憶が戻ってきたのか、その瞳が大きく見開かれた。
そして、顔色がさっと青ざめ、アリアの手を振り払おうとした。
「……っ! 私……!」
メアリは、震える手で自分の口元を覆った。
「私……アリアちゃんに……ひどいこと……!」
彼女は、覚えていたのだ。
操られていた時のことを。
自分の口から漏れ出た、どす黒い嫉妬の言葉を。
そして、アリアを殺そうとしたことを。
「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
メアリは、布団を被って泣き出した。
「私、最低だ……。友達のフリして、ずっと、心のどこかで……! アリアちゃんのこと、妬んで……!」
「メアリちゃん……」
「もう、嫌いになって! 私なんて、友達じゃない! 近づかないで!」
メアリの慟哭が、病室に響く。
それは、呪いが解けてもなお残る、彼女自身の心の傷だった。
アリアは、泣きじゃくるメアリの背中を、優しく抱きしめた。
「……離さないよ」
「え……?」
「嫌いになんて、ならない。離れてなんか、あげない」
アリアは、耳元で囁いた。
「私だって、同じだよ」
「……え?」
「私だって、メアリちゃんが羨ましかった。普通に笑って、普通に生活して、家族がいて……。私の持ってないものを全部持ってるメアリちゃんが、眩しくて、妬ましかったこと、あるよ」
「アリアちゃんが……?」
メアリが、涙に濡れた顔を上げた。
「うん。だから、おあいこ」
アリアは、涙ぐんだ笑顔で言った。
「嫉妬しちゃうくらい、お互いが羨ましいんだよ。それって、素敵なことじゃない?」
「……変だよ、それ」
メアリが、ぽつりと呟いた。
「うん。変だね」
アリアも笑った。
「私ね、メアリちゃん。……私には、秘密があるの」
アリアは、意を決して言った。
「みんなには隠してるけど……私、本当は、すごく強い魔力を持ってるの。でも、それが怖くて、ずっと隠してた」
「……うん。知ってた」
メアリは、小さく頷いた。
「え?」
「だって、アリアちゃん、いつもキラキラしてるもん。……隠せているつもりだったの?」
「う……」
アリアは赤面した。
メアリには、とっくにバレていたらしい。
「でも、怖かったの」
メアリは言った。
「アリアちゃんが凄すぎて、私なんかじゃ釣り合わないんじゃないかって。いつか、遠くに行っちゃうんじゃないかって」
「行かないよ!」
アリアは即答した。
「私には、メアリちゃんが必要なの。メアリちゃんがいないと、私、ただの引きこもりの根暗な魔女になっちゃうもん」
「ふふっ。……根暗な魔女」
メアリが、吹き出した。
その笑顔は、いつもの、温かくて優しい笑顔だった。
「アリアちゃん」
メアリは、アリアの手を握り返した。
その手は、もう冷たくなかった。
「私、強くなるね。……アリアちゃんの隣にいても、恥ずかしくないように。もう二度と、あんな影に負けないように」
「うん。一緒に、強くなろう」
二人は、指切りをした。
それは、リアムとの「騎士の契約」とは違う、もっと柔らかく、もっと強固な「親友の約束」だった。
病室の窓から、爽やかな初夏の風が吹き込んでくる。
嵐のような数日間が過ぎ去り、季節は確実に、夏へと向かっていた。
ヘレナという脅威は去った。
だが、彼女の背後に見え隠れする「巨大な闇」の正体は、まだ何もわかっていない。
そして、アリアの「光」は、世界に見つかってしまった。
これからの日々は、今まで以上に騒がしく、危険なものになるだろう。
それでも。
アリアは、もう一人ではなかった。
右には、秘密を共有し守ってくれる騎士。
左には、影を乗り越え隣に立ってくれる親友。
そして、膝の上には、偉大なる師匠。
「……なんとかなる、かな」
アリアは、青い空を見上げて、小さく呟いた。
その手には、確かな温もりが残っていた。
どんな闇が来ても、この手だけは決して離さない。
そう誓った少女の横顔は、入学式の頃よりも、ほんの少しだけ大人びて見えた。




