16 悲しき対決と泥に沈む心
月明かりが、砕け散ったガラス片を照らしていた。
かつてアリアとメアリが笑い合い、ハーブを育てた「秘密の温室」は、今や毒々しい紫色の魔力と、腐臭を放つ黒い泥に覆われた地獄へと変貌していた。
「——行くぞ!!」
リアム・アークライトの叫びが、開戦の合図だった。 紅蓮の炎が奔流となって噴き出し、アリアの目の前に立ちはだかる「黒い影」の群れを焼き払う。
「道は私が作る! 君は迷わず進め!」
「はいっ!」
アリアは、リアムが切り開いた炎の回廊を駆けた。
目指すは、温室の中央。
変わり果てた姿で佇む、親友メアリ・スミスの元へ。
(待ってて、メアリちゃん! 今、助けるから!)
アリアの足元に、風が纏う。
《身体強化》の魔術ではない。靴底と地面の間の摩擦係数を極限まで操作し、氷の上を滑るような高速移動を可能にする、アリア独自の《風の歩法》だ。
一瞬で距離を詰め、メアリの懐へと飛び込む。
「……メアリちゃん!」
アリアは手を伸ばした。
その手に触れて、《解呪》の光を流し込めば。
しかし。
「——近いのよ、アリアちゃん」
メアリの口元が、三日月形に歪んだ。
彼女が握る黒い短剣が、指揮棒のように振られる。
ズボォッ!!
アリアの足元の床が弾け、そこから巨大な「泥の棘」が突き出した。
「っ!?」
アリアは咄嗟に身を捻り、風の魔力で空中に退避する。
間一髪、切っ先がスカートの裾を掠め、布を黒く腐食させた。
「水魔法……? ううん、違う!」
アリアは空中で体勢を立て直しながら叫んだ。
それは、メアリが得意とする清らかな水魔法ではなかった。
ヘレナの呪いによって汚染された、粘着質で、重く、すべてを飲み込む「泥沼」の魔術。
「ふふふ。逃げ足だけは速いのね」 メアリが嘲笑う。 「でも、いつまで逃げ回っていられるかしら?」
メアリの背後から、無数の泥の触手が鎌首をもたげた。
それらは意思を持った蛇のように、空中にあるアリアを狙って一斉に襲いかかる。
「くっ……!」
アリアは空中で風を操り、アクロバティックに回避を続ける。
(攻撃できない……!)
風の刃で切り裂くことはできる。
だが、その先にいるのはメアリだ。
もし制御を誤って、彼女を傷つけてしまったら。
その迷いが、アリアの動きを鈍らせた。
「よそ見をしている余裕があるのか!?」
リアムの叱咤が飛ぶ。
ドォォォン!!
アリアの死角から迫っていた泥の触手を、リアムの火球が撃ち落とした。
「アークライトさん!」
「私に構うな! 君はスミス嬢を! 雑魚は私が引き受ける!」
リアムは、アリアを援護しながらも、周囲から湧き出し続ける数百体の「影の兵隊」と一人で戦っていた。
《炎の壁》で囲い込み、《爆炎》で吹き飛ばす。
その魔力消費は尋常ではない。彼の額には、玉のような汗が浮かんでいる。
(私が、決めなきゃ)
アリアは唇を噛んだ。
リアムが作ってくれた時間を、無駄にはできない。
「メアリちゃん! 目を覚まして!」
アリアは再び突撃した。
今度は正面からではない。風の幻影(残像)を囮にし、死角へと回り込む。
「そこ!」
メアリの背後に着地し、肩を掴もうとする。
だが、メアリは振り向かなかった。
代わりに、彼女の背中から、黒い泥が爆発的に噴出した。
「きゃあああっ!?」
アリアは至近距離で衝撃波を浴び、後方へと吹き飛ばされた。
温室の鉄骨に背中を強打し、地面に転がる。
「うぅ……」
「無駄よ」
メアリが、ゆっくりとこちらを向く。
その瞳は、赤く濁ったままだ。
「この子の身体は、もう私の魔力タンクそのもの。外部からの接触なんて、自動防衛本能だけで弾き飛ばせるわ」
「そんな……」
アリアは痛む体を押して立ち上がった。
「メアリちゃんは、道具じゃない!」
「道具よ」
ヘレナの声が、冷酷に響く。
「優秀な道具だわ。……ねえ、アリア・ローゼン。あなた、知っている?」
メアリが、首をコクリと傾げた。
「この子が、あなたをどう思っていたか」
「え……?」
「『アリアちゃんはすごいね』。『アリアちゃんは特別だね』。……ふふふ。その裏で、この子がどれだけ惨めな思いをしていたか」
アリアの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「やめて……」
「あなたは才能の塊。隠そうとしても溢れ出る、特別な光。……それに比べて、この子は何? ただのパン屋の娘。魔力も平凡。成績も普通。A組にいること自体が奇跡のような落ちこぼれ」
ヘレナの言葉が、呪いのように紡がれる。
「隣にいるだけで、自分の無価値さを突きつけられる。……あまつさえ、憧れのリアム様まで、あなたに夢中」
「違います! 私たちは、そんなんじゃない!」
「違う? 本当に?」
メアリの顔が、歪んだ。
その口から、ヘレナの声ではなく、メアリ自身の声色に近い、絞り出すような怨嗟が漏れ出した。
『……なんで……アリアちゃんだけ……』
「!?」
アリアは息を呑んだ。
『……私だって……頑張ってるのに……』
『……なんで、みんな、アリアちゃんばっかり……』
『……羨ましい……妬ましい……消えてほしい……』
「嘘……」
アリアは後ずさった。
それは、いつも優しく笑ってくれていた親友の、聞いたことのない声だった。
黒い泥が、メアリの言葉に呼応するように、より一層濃く、激しく渦巻く。
「聞こえたかしら?」 ヘレナが勝ち誇ったように笑う。 「これが、この子の本音よ。私が植え付けた呪いは、あくまで種火。それをここまで大きく燃え上がらせたのは、この子自身の『嫉妬』と『劣等感』よ」
「違う……。メアリちゃんは、そんなこと……!」
「認めなさい。あなたが、この子を追い詰めたのよ。あなたのその、無自覚で無神経な『才能』がね!」
ズガアアアアアン!!
メアリの感情の爆発と共に、温室中の植物が一斉に枯れ果て、黒い茨となってアリアに襲いかかった。
「——っ!」
アリアは防げない。
動揺で、風の術式が組めない。
(私の、せい……?)
(私が、メアリちゃんを苦しめていた?)
茨の先端が、アリアの喉元に迫る。
「——惑わされるなッ!!」
横合いから飛んできた炎の槍が、アリアを襲う茨を焼き払った。
リアムだ。
彼は影の兵隊を蹴散らし、アリアの前に躍り出た。
「リアム、さん……」
「敵の世迷い言だ! 聞く耳を持つな!」
リアムは、アリアを背に庇いながら叫んだ。
「人の心に闇があるのは当然だ! 嫉妬も、羨望も、誰にだってある! だが!」
リアムは、メアリ(ヘレナ)を睨みつけた。
「スミス嬢は、それを超えて、君に笑いかけていた! 負の感情を飲み込んで、それでも君の友人であり続けようとした! それが、彼女の『強さ』だ!」
アリアの目が見開かれた。
(そうだ……)
メアリちゃんは、いつだって私の隣にいてくれた。
私が失敗しても、成功しても、変わらずに。
心の中に、黒い感情があったかもしれない。
でも、彼女はそれを決して私にぶつけたりしなかった。
それは、彼女が私を大切に思ってくれていた証拠じゃないか。
その「強さ」と「優しさ」を、この魔女は踏みにじり、都合よく利用している。
「……許さない」
アリアの中で、迷いが消えた。
恐怖も、罪悪感も、燃え上がる怒りに塗り替えられていく。
「よく言ったわ、坊や」 ヘレナがつまらなそうに鼻を鳴らす。 「でも、精神論で現実は変わらないわ。……終わりよ」
メアリが両手を掲げた。
温室の床全体が液状化し、巨大な泥の津波となって二人を飲み込もうとせり上がる。
「《泥濘の大海嘯》」
逃げ場はない。
防御も不可能。
飲み込まれれば、即座に呪いに侵食され、自我を失う。
「リアムさん」
アリアは、リアムの背中に手を当てた。
「……また、お願いできますか」
リアムは、ニヤリと笑った。
「ああ。いつでもいいぞ」
アリアは目を閉じた。
自分の中にある、光の扉を開け放つ。
もう、隠さない。
もう、躊躇わない。
友人を救うためなら、スパイだと疑われようが、化け物だと恐れられようが、構わない。
「——光よ」
アリアの身体が、黄金の輝きに包まれる。
それは、前回のゼミ室での暴走とは違う。
明確な「意思」によって制御され、研ぎ澄まされた、浄化の刃。
「リアムさん、道を!」
「心得た!!」
「穿て! 《紅蓮の槍・極》!!」
アリアから供給された莫大な魔力を受け、リアムの炎が、もはや槍というより「光線」となって放たれた。
ズバァァァッ!!
迫りくる泥の津波が、中央から蒸発し、真っ二つに割れる。
その裂け目を、アリアが翔けた。
風を纏い、光を背負い、一直線にメアリの元へ。
「なっ……!?」
ヘレナが初めて狼狽の声を上げた。
「私の泥を、焼き切った!? ただの学生風情が!?」
「させない!」
メアリが短剣を突き出す。
無数の影がアリアの進路を塞ぐ。
「邪魔だぁぁぁッ!」
後方から、リアムの援護射撃が飛ぶ。
精確無比な火球が、アリアに近づく影を次々と撃ち抜いていく。
道は、開いた。
アリアは、メアリの懐に飛び込んだ。
「メアリちゃん!!」
アリアは、短剣を持つメアリの手を払い除け、その身体を力一杯抱きしめた。
「——!?」
メアリの動きが止まる。
泥の鎧が、アリアの光に触れて、ジュワジュワと音を立てて溶けていく。
「離れろ! 侵食されるぞ!」
ヘレナの叫び声が、メアリの口から漏れる。
「嫌だ! 離さない!」
アリアは、さらに強く抱きしめた。
自分の身体に、呪いの泥が染み込んでくる痛みを感じる。
服が焼け、肌が焼けるような激痛。
でも、アリアは光を絶やさない。
「メアリちゃん。聞こえる!? 私だよ、アリアだよ!」
「あ……あ、あ……」
メアリの瞳の中で、赤と黒の光が明滅する。
「ごめんね。気づかなくて、ごめんね」
アリアは、涙を流しながら、親友の耳元で叫んだ。
「私が特別なんじゃない。メアリちゃんがいてくれたから、私は特別になれたの!」
「私一人じゃ、何もできなかった。カフェも、温室も、この学園生活も!」
「メアリちゃんがいなきゃ、私にとっては何の意味もないの!」
アリアの心からの叫び。
それは、光の魔力に乗って、閉ざされたメアリの精神の最深部へと届いた。
メアリの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
その涙は、赤くなかった。
透き通った、綺麗な涙だった。
『……アリア……ちゃん……』
微かに、本当のメアリの声が聞こえた。
「今だ! ローゼン!」
リアムが叫ぶ。
「核が見えた! 浄化しろ!」
アリアは、抱きしめた腕を解き、メアリの胸元に——呪いの核が埋め込まれた場所に、掌を当てた。
「——帰ろう、メアリちゃん」
アリアは、全魔力を解放した。
「《聖域の光》!!」
カッッッッ!!!!
温室の中心で、太陽が生まれたかのような閃光が炸裂した。
黄金の光が、渦を巻いて広がり、温室を満たしていた黒い泥、影の兵隊、そして毒々しい蔦の全てを飲み込んでいく。
「ギャアアアアアアアアア!!」
ヘレナの断末魔が響く。
「馬鹿な……! 私の呪いが……! 古代の叡智が……! 浄化される……!?」
「ありえない! 人間ごときに、この出力は……!」
光は、物理的な破壊をもたらさない。
ただ、そこにある「不浄」と「悪意」だけを、根こそぎ消滅させていく。
温室の壁も、天井も、ガラスも突き抜け、光の柱となって夜空へと立ち昇った。
それは、王都からも視認できるほどの、巨大な光の塔だった。
数秒の後。
光が収束し、消えた。
後には、静寂だけが残された。
腐臭は消え、代わりに、懐かしいラベンダーの香りが微かに漂っている。
黒い泥も、影も、跡形もなく消え去っていた。
温室の中央。
アリアは、膝をついて、気を失ったメアリを支えていた。
メアリの顔色はまだ蒼白だが、その表情は安らかで、規則正しい寝息を立てている。
胸元にあった黒いシミも、綺麗に消えていた。
「……よかった」
アリアは、安堵と共に力が抜け、その場に座り込んだ。
「……無茶苦茶だ」
リアムが、ふらつく足取りで近づいてきた。
彼は、呆れたように、しかし安堵の表情でアリアを見下ろした。
「あれだけの呪いを、強引に浄化するとはな。……やはり君は、規格外だ」
「リアムさんこそ……」
アリアは笑おうとしたが、頬が引きつった。
「あんなに魔法を使って……倒れちゃいますよ」
「ふん。アークライト家の男は、これくらいでは倒れん」
リアムは強がったが、その直後、ガクッと膝をついた。
「……訂正する。少し、休ませてくれ」
二人は、眠るメアリを挟んで、泥のように崩れ落ちた。
体はボロボロだ。魔力も空っぽだ。
でも、心は満たされていた。
守りきった。
大切な友人を。
そして、二人の「共犯関係」は、この死闘を経て、誰にも切ることのできない「戦友」の絆へと昇華された。
だが、これで全てが終わったわけではない。
遠く離れた場所で、本体のヘレナはまだ生きている。
そして、アリアの「光」は、今夜の派手すぎる一撃によって、隠し通すことが不可能なレベルで、世界に露見してしまった。
遠くから、学園の教師たちが駆けつけてくる足音が聞こえる。
「こっちだ! 光は旧校舎の方からだ!」
「急げ! 生徒がいるかもしれん!」
アリアは、重い瞼を開けて、リアムを見た。
「……バレちゃい、ましたね」
「ああ。……盛大にな」
リアムは苦笑した。
「だが、安心しろ。……言い訳なら、私が考えてやる」
「……頼もしい、です」
アリアは、そこで意識を手放した。
次に目が覚める時、彼女を取り巻く世界は、また大きく変わっていることだろう。
だが、もう怖くはなかった。
隣には、信頼できる騎士がいる。
そして、腕の中には、取り戻した大切な親友がいるのだから。




