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風読みの魔女は静かに過ごしたい  作者: おおりく
1-7章 忍び寄る影

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16 悲しき対決と泥に沈む心

月明かりが、砕け散ったガラス片を照らしていた。

かつてアリアとメアリが笑い合い、ハーブを育てた「秘密の温室」は、今や毒々しい紫色の魔力と、腐臭を放つ黒い泥に覆われた地獄へと変貌していた。


「——行くぞ!!」


リアム・アークライトの叫びが、開戦の合図だった。 紅蓮の炎が奔流となって噴き出し、アリアの目の前に立ちはだかる「黒い影」の群れを焼き払う。


「道は私が作る! 君は迷わず進め!」

「はいっ!」


アリアは、リアムが切り開いた炎の回廊を駆けた。

目指すは、温室の中央。

変わり果てた姿で佇む、親友メアリ・スミスの元へ。


(待ってて、メアリちゃん! 今、助けるから!)


アリアの足元に、風が纏う。

《身体強化》の魔術ではない。靴底と地面の間の摩擦係数を極限まで操作し、氷の上を滑るような高速移動を可能にする、アリア独自の《風の歩法》だ。

一瞬で距離を詰め、メアリの懐へと飛び込む。


「……メアリちゃん!」


アリアは手を伸ばした。

その手に触れて、《解呪》の光を流し込めば。


しかし。


「——近いのよ、アリアちゃん」


メアリの口元が、三日月形に歪んだ。

彼女が握る黒い短剣が、指揮棒のように振られる。


ズボォッ!!


アリアの足元の床が弾け、そこから巨大な「泥の棘」が突き出した。

「っ!?」

アリアは咄嗟に身を捻り、風の魔力で空中に退避する。

間一髪、切っ先がスカートの裾を掠め、布を黒く腐食させた。


「水魔法……? ううん、違う!」

アリアは空中で体勢を立て直しながら叫んだ。

それは、メアリが得意とする清らかな水魔法ではなかった。

ヘレナの呪いによって汚染された、粘着質で、重く、すべてを飲み込む「泥沼」の魔術。


「ふふふ。逃げ足だけは速いのね」 メアリが嘲笑う。 「でも、いつまで逃げ回っていられるかしら?」


メアリの背後から、無数の泥の触手が鎌首をもたげた。

それらは意思を持った蛇のように、空中にあるアリアを狙って一斉に襲いかかる。


「くっ……!」

アリアは空中で風を操り、アクロバティックに回避を続ける。

(攻撃できない……!)

風の刃で切り裂くことはできる。

だが、その先にいるのはメアリだ。

もし制御を誤って、彼女を傷つけてしまったら。


その迷いが、アリアの動きを鈍らせた。


「よそ見をしている余裕があるのか!?」

リアムの叱咤が飛ぶ。

ドォォォン!!

アリアの死角から迫っていた泥の触手を、リアムの火球が撃ち落とした。


「アークライトさん!」

「私に構うな! 君はスミス嬢を! 雑魚は私が引き受ける!」


リアムは、アリアを援護しながらも、周囲から湧き出し続ける数百体の「影の兵隊」と一人で戦っていた。

《炎の壁》で囲い込み、《爆炎》で吹き飛ばす。

その魔力消費は尋常ではない。彼の額には、玉のような汗が浮かんでいる。


(私が、決めなきゃ)

アリアは唇を噛んだ。

リアムが作ってくれた時間を、無駄にはできない。


「メアリちゃん! 目を覚まして!」

アリアは再び突撃した。

今度は正面からではない。風の幻影(残像)を囮にし、死角へと回り込む。

「そこ!」

メアリの背後に着地し、肩を掴もうとする。


だが、メアリは振り向かなかった。

代わりに、彼女の背中から、黒い泥が爆発的に噴出した。


「きゃあああっ!?」

アリアは至近距離で衝撃波を浴び、後方へと吹き飛ばされた。

温室の鉄骨に背中を強打し、地面に転がる。

「うぅ……」


「無駄よ」

メアリが、ゆっくりとこちらを向く。

その瞳は、赤く濁ったままだ。

「この子の身体は、もう私の魔力タンクそのもの。外部からの接触なんて、自動防衛本能だけで弾き飛ばせるわ」


「そんな……」

アリアは痛む体を押して立ち上がった。

「メアリちゃんは、道具じゃない!」


「道具よ」

ヘレナの声が、冷酷に響く。

「優秀な道具だわ。……ねえ、アリア・ローゼン。あなた、知っている?」

メアリが、首をコクリと傾げた。

「この子が、あなたをどう思っていたか」


「え……?」


「『アリアちゃんはすごいね』。『アリアちゃんは特別だね』。……ふふふ。その裏で、この子がどれだけ惨めな思いをしていたか」


アリアの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


「やめて……」


「あなたは才能の塊。隠そうとしても溢れ出る、特別な光。……それに比べて、この子は何? ただのパン屋の娘。魔力も平凡。成績も普通。A組にいること自体が奇跡のような落ちこぼれ」

ヘレナの言葉が、呪いのように紡がれる。

「隣にいるだけで、自分の無価値さを突きつけられる。……あまつさえ、憧れのリアム様まで、あなたに夢中」


「違います! 私たちは、そんなんじゃない!」

「違う? 本当に?」

メアリの顔が、歪んだ。

その口から、ヘレナの声ではなく、メアリ自身の声色に近い、絞り出すような怨嗟が漏れ出した。


『……なんで……アリアちゃんだけ……』


「!?」

アリアは息を呑んだ。


『……私だって……頑張ってるのに……』

『……なんで、みんな、アリアちゃんばっかり……』

『……羨ましい……妬ましい……消えてほしい……』


「嘘……」

アリアは後ずさった。

それは、いつも優しく笑ってくれていた親友の、聞いたことのない声だった。

黒い泥が、メアリの言葉に呼応するように、より一層濃く、激しく渦巻く。


「聞こえたかしら?」 ヘレナが勝ち誇ったように笑う。 「これが、この子の本音よ。私が植え付けた呪いは、あくまで種火。それをここまで大きく燃え上がらせたのは、この子自身の『嫉妬』と『劣等感』よ」


「違う……。メアリちゃんは、そんなこと……!」

「認めなさい。あなたが、この子を追い詰めたのよ。あなたのその、無自覚で無神経な『才能』がね!」


ズガアアアアアン!!


メアリの感情の爆発と共に、温室中の植物が一斉に枯れ果て、黒い茨となってアリアに襲いかかった。

「——っ!」

アリアは防げない。

動揺で、風の術式が組めない。

(私の、せい……?)

(私が、メアリちゃんを苦しめていた?)


茨の先端が、アリアの喉元に迫る。


「——惑わされるなッ!!」


横合いから飛んできた炎の槍が、アリアを襲う茨を焼き払った。

リアムだ。

彼は影の兵隊を蹴散らし、アリアの前に躍り出た。


「リアム、さん……」

「敵の世迷い言だ! 聞く耳を持つな!」

リアムは、アリアを背に庇いながら叫んだ。

「人の心に闇があるのは当然だ! 嫉妬も、羨望も、誰にだってある! だが!」

リアムは、メアリ(ヘレナ)を睨みつけた。

「スミス嬢は、それを超えて、君に笑いかけていた! 負の感情を飲み込んで、それでも君の友人であり続けようとした! それが、彼女の『強さ』だ!」


アリアの目が見開かれた。

(そうだ……)

メアリちゃんは、いつだって私の隣にいてくれた。

私が失敗しても、成功しても、変わらずに。

心の中に、黒い感情があったかもしれない。

でも、彼女はそれを決して私にぶつけたりしなかった。

それは、彼女が私を大切に思ってくれていた証拠じゃないか。


その「強さ」と「優しさ」を、この魔女は踏みにじり、都合よく利用している。


「……許さない」


アリアの中で、迷いが消えた。

恐怖も、罪悪感も、燃え上がる怒りに塗り替えられていく。


「よく言ったわ、坊や」 ヘレナがつまらなそうに鼻を鳴らす。 「でも、精神論で現実は変わらないわ。……終わりよ」


メアリが両手を掲げた。

温室の床全体が液状化し、巨大な泥の津波となって二人を飲み込もうとせり上がる。

「《泥濘の大海嘯マッド・ツナミ》」


逃げ場はない。

防御も不可能。

飲み込まれれば、即座に呪いに侵食され、自我を失う。


「リアムさん」

アリアは、リアムの背中に手を当てた。

「……また、お願いできますか」


リアムは、ニヤリと笑った。

「ああ。いつでもいいぞ」


アリアは目を閉じた。

自分の中にある、光の扉を開け放つ。

もう、隠さない。

もう、躊躇わない。

友人を救うためなら、スパイだと疑われようが、化け物だと恐れられようが、構わない。


「——光よ」


アリアの身体が、黄金の輝きに包まれる。

それは、前回のゼミ室での暴走とは違う。

明確な「意思」によって制御され、研ぎ澄まされた、浄化の刃。


「リアムさん、道を!」

「心得た!!」


「穿て! 《紅蓮の槍・クリムゾンスピア・マキシマム》!!」


アリアから供給された莫大な魔力を受け、リアムの炎が、もはや槍というより「光線」となって放たれた。

ズバァァァッ!!

迫りくる泥の津波が、中央から蒸発し、真っ二つに割れる。


その裂け目を、アリアが翔けた。

風を纏い、光を背負い、一直線にメアリの元へ。


「なっ……!?」

ヘレナが初めて狼狽の声を上げた。

「私の泥を、焼き切った!? ただの学生風情が!?」


「させない!」

メアリが短剣を突き出す。

無数の影がアリアの進路を塞ぐ。


「邪魔だぁぁぁッ!」

後方から、リアムの援護射撃が飛ぶ。

精確無比な火球が、アリアに近づく影を次々と撃ち抜いていく。


道は、開いた。

アリアは、メアリの懐に飛び込んだ。


「メアリちゃん!!」


アリアは、短剣を持つメアリの手を払い除け、その身体を力一杯抱きしめた。


「——!?」

メアリの動きが止まる。

泥の鎧が、アリアの光に触れて、ジュワジュワと音を立てて溶けていく。


「離れろ! 侵食されるぞ!」

ヘレナの叫び声が、メアリの口から漏れる。

「嫌だ! 離さない!」

アリアは、さらに強く抱きしめた。

自分の身体に、呪いの泥が染み込んでくる痛みを感じる。

服が焼け、肌が焼けるような激痛。

でも、アリアは光を絶やさない。


「メアリちゃん。聞こえる!? 私だよ、アリアだよ!」

「あ……あ、あ……」

メアリの瞳の中で、赤と黒の光が明滅する。


「ごめんね。気づかなくて、ごめんね」

アリアは、涙を流しながら、親友の耳元で叫んだ。

「私が特別なんじゃない。メアリちゃんがいてくれたから、私は特別になれたの!」

「私一人じゃ、何もできなかった。カフェも、温室も、この学園生活も!」

「メアリちゃんがいなきゃ、私にとっては何の意味もないの!」


アリアの心からの叫び。

それは、光の魔力に乗って、閉ざされたメアリの精神の最深部へと届いた。


メアリの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

その涙は、赤くなかった。

透き通った、綺麗な涙だった。


『……アリア……ちゃん……』


微かに、本当のメアリの声が聞こえた。


「今だ! ローゼン!」

リアムが叫ぶ。

「核が見えた! 浄化しろ!」


アリアは、抱きしめた腕を解き、メアリの胸元に——呪いの核が埋め込まれた場所に、掌を当てた。


「——帰ろう、メアリちゃん」


アリアは、全魔力を解放した。


「《聖域のサンクチュアリ・ライト》!!」


カッッッッ!!!!


温室の中心で、太陽が生まれたかのような閃光が炸裂した。

黄金の光が、渦を巻いて広がり、温室を満たしていた黒い泥、影の兵隊、そして毒々しい蔦の全てを飲み込んでいく。


「ギャアアアアアアアアア!!」

ヘレナの断末魔が響く。

「馬鹿な……! 私の呪いが……! 古代の叡智が……! 浄化される……!?」

「ありえない! 人間ごときに、この出力は……!」


光は、物理的な破壊をもたらさない。

ただ、そこにある「不浄」と「悪意」だけを、根こそぎ消滅させていく。

温室の壁も、天井も、ガラスも突き抜け、光の柱となって夜空へと立ち昇った。


それは、王都からも視認できるほどの、巨大な光の塔だった。


数秒の後。

光が収束し、消えた。


後には、静寂だけが残された。

腐臭は消え、代わりに、懐かしいラベンダーの香りが微かに漂っている。

黒い泥も、影も、跡形もなく消え去っていた。


温室の中央。

アリアは、膝をついて、気を失ったメアリを支えていた。

メアリの顔色はまだ蒼白だが、その表情は安らかで、規則正しい寝息を立てている。

胸元にあった黒いシミも、綺麗に消えていた。


「……よかった」

アリアは、安堵と共に力が抜け、その場に座り込んだ。


「……無茶苦茶だ」

リアムが、ふらつく足取りで近づいてきた。

彼は、呆れたように、しかし安堵の表情でアリアを見下ろした。

「あれだけの呪いを、強引に浄化するとはな。……やはり君は、規格外だ」


「リアムさんこそ……」

アリアは笑おうとしたが、頬が引きつった。

「あんなに魔法を使って……倒れちゃいますよ」


「ふん。アークライト家の男は、これくらいでは倒れん」

リアムは強がったが、その直後、ガクッと膝をついた。

「……訂正する。少し、休ませてくれ」


二人は、眠るメアリを挟んで、泥のように崩れ落ちた。

体はボロボロだ。魔力も空っぽだ。

でも、心は満たされていた。


守りきった。

大切な友人を。

そして、二人の「共犯関係」は、この死闘を経て、誰にも切ることのできない「戦友」の絆へと昇華された。


だが、これで全てが終わったわけではない。

遠く離れた場所で、本体のヘレナはまだ生きている。

そして、アリアの「光」は、今夜の派手すぎる一撃によって、隠し通すことが不可能なレベルで、世界に露見してしまった。


遠くから、学園の教師たちが駆けつけてくる足音が聞こえる。

「こっちだ! 光は旧校舎の方からだ!」

「急げ! 生徒がいるかもしれん!」


アリアは、重い瞼を開けて、リアムを見た。

「……バレちゃい、ましたね」

「ああ。……盛大にな」

リアムは苦笑した。

「だが、安心しろ。……言い訳なら、私が考えてやる」


「……頼もしい、です」


アリアは、そこで意識を手放した。

次に目が覚める時、彼女を取り巻く世界は、また大きく変わっていることだろう。

だが、もう怖くはなかった。

隣には、信頼できる騎士がいる。

そして、腕の中には、取り戻した大切な親友がいるのだから。

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